2017年11月22日水曜日

「語りえぬものについては沈黙しなければならない」という言葉

ヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」に、「語りえぬものについては沈黙しなければならない」という言葉がある。今回は、それについて少し考えてみたい。

まず、私が気にかかるのは、この言葉は、「あるものはあるべくしてある」という言葉の特殊な形になっているということである。だから、「あるものはあるべくしてある」という言葉が正しければ、この言葉は正しい。逆は真ではない。このことが、「論理哲学論考」の不思議な読後感の原因の一つになっているように思う。

もう一つ、この言葉の絶妙さは、この言葉は「論理哲学論考」の最後の言葉であるので、この言葉の後に、空白が続くということである。だから、そのことによって沈黙が示されている。

実際のところ、「語りえぬもの」とは何であったのかというと、安易なようではあるが、それは「神」のことであったのではないかと思う。「神」のことは、その当時のヴィトゲンシュタインにとって、そしておそらく、その後のヴィトゲンシュタインにとっても、「語りえぬもの」であったのではないだろうか。

私は、「神」のことは語りえることであるように思う。ヴィトゲンシュタインにとって、「語る」ということは、すごく完全性の高い、厳しいことであったのではないかと思う。それは、「語る」ということの捉え方の差異であって、本質的な差異ではないように思う。

2017年11月21日火曜日

検索でヒットしやすいページ

検索でヒットしやすいページというものがあるような気がする。同じアルゴリズムで集めたページだから、同じようなページがトップに並びやすいのかもしれない。大体、次のような特徴を持っているのではないか。こういうページがヒットしている印象がある。

・WordPressなどのツールを用いて作られている
・ページの文章量が多い
・文章の大きさや色が変化する
・どうしたらいいかなどのHow-toの情報がある
・ページ数が多い

こうして見ると、ぼくのサイトで適合するのはページ数が多いということくらいであろうか。WordPressなどのツールを使うのは、ドメインの取得とサーバーのレンタルに費用と手続きが必要になるから、あまりしようとは思わない。ページの文章量は、書きやすい量というものがあるので、あまり無理して増やそうとは思わない。文章の大きさや色を変化させるのは、読みやすいとは、ぼくはあまり思わないので、そうしようとは思わない。How-toの情報を載せるのは、このサイトにはまったくと言っていいほどないが、そうしてみようとは、やはり、あまり思わない。

2017年11月20日月曜日

心を鎮める 2

以前、心が騒がしくなるとき、心を鎮めるようにしているということを書いたように思うが、この心が騒がしくなることは、ぼくの持病みたいなものである。

昨日も、夕食を食べた後、心が騒がしくなり、心を鎮める必要があった。この心が騒がしくなるという現象は、原因もよくわからないし、それがどのようなものであるかについては説明がむずかしい。なったことのある人にしかわからないような感覚であるように思う。

この心が騒がしくなるという現象は、大体、2、3日に一度くらいの割合で起こるように思う。一度この現象が起こると、短い時で30分くらい、長い時で2時間くらいは、その現象が続く。結構、辛い心持ちである。原因がわかれば、少しは気が晴れるのであろうとは思うのだが、原因はよくわからない。

昔、転んで頭を打ったとき、視界が、壊れたアナログ放送のテレビのように、乱れたことがある。しかも、その状態が、1分くらいは続いたように思う。かなり驚いた。その時、ぼくは、人の脳は、本当に機械のようなものであるように思った。しかし、デジタル機械よりはアナログ機械に近いように思う。

ぼくは、心は機械を超越しているように思うけれども、心に機械のような部分があるということも確かなことではある。視覚や聴覚などは、機械として、ほとんど説明ができることではないだろうか。数ある錯視現象は、人の視覚が機械的であることを暗に示しているように思う。

2017年11月19日日曜日

プラトン著「饗宴」 3

プラトン著「饗宴」を読み進めている。162ページ中、100ページ程度まで読み進めた。集中できた時間があまりなかったせいもあって、前回から10ページ程度しか読み進められていない。内容は、アリストファネスの演説の後、アガトンの演説の一部始終と、最後の演説者であるソクラテスの演説がこれから始まろうするところまでである。

アガトンの主張は、讃美において正しい方法は、その本質を明らかにすることであるというものである。そこが、それまでの演説者との異なりだと言う。そして、次のように主張する。引用する。

「すべての神は福であるが、エロスは、(もしこう語ることが許されることでありまた冒涜することにもならないならば、)すべてのうちでもっとも美しく、もっとも優れており、したがってまたもっとも福なる神である」

エロスがもっとも美しい神であるということもわからないことのような気がしないでもないが、なによりもわからないことは、エロスがもっとも優れている神だということである。ゼウスなどはどこに行ったのであろうか。そして、エロスには、公正と自制と勇気の徳があると、アガトンは主張する。芸術と創造に関しては、アガトンは、次のように主張する。引用する。

「この神は巧妙なる詩人である。他をもまた詩人にするほどである。まことに何人といえども、一たびエロスが触れさえすれば、『たといかつてはムーサ神に無縁であった者も』きっと詩人になるのである。この事は、エロスが総じてあらゆる芸術的創作において優れたる創造者であることの証左とするに足ると思う。なぜならば、自ら持ってもおらず、また知りもせぬものは、これを他に与えることもまた教えることもできないからである。まして一切生物の創造に至っては、あらゆる生物を発生せしめ、成長せしめるものはエロスの智慧であることに何人が異議を唱えるであろうか」

このようなことをアガトンはどのようにして知り得たのか、私にはわからない。わからないが、とにかくエロスはすごい神であるということがアガトンの主張である。芸術にも創造にも優れた神であるということである。

2017年11月18日土曜日

Amazon Prime

今日は何でもない日だ。日記でも書こう。Amazonでアリストテレスの「二コマコス倫理学」を注文した。アリストテレスの著書を読むのは初めてのことだ。「次へ」のボタンを連続でクリックしていたら、Amazon Prime会員というものに入会してしまった。確認のボタンはなかったように思う。しかし、この会員は、一ヶ月無料で、次月以降入会しなくてもいいというものであるので、料金は払わずに済むようだ。間違えて入会してしまう人はかなりいると思うので、そうでなければ問題があるように思う。

しかし、このAmazon Prime会員というものは何だろうか。少し調べてみたら、100万曲以上の曲が聴けるMusicと、映画やテレビ番組が見れるVideoというものがあるらしい。ぼくは、どちらにもあまり興味はないのではあるが、試しに、ペルソナ5のオリジナルサウンドトラックを聴いてみた。このゲームは以前プレイした。音質は良いような気がする。100万曲以上の曲があって、年間3900円の利用料なので、これは、人によっては、利用価値はあるかもしれない。

このペルソナ5のオリジナルサウンドトラックは、110曲、3時間46分もの長さがあるらしい。とても全部は聴いてられない。年間3900円だと、月額325円なので、まあ、安いと言えば安いのだろう。どれが人気のある曲かわかるようになっているらしいので、人気のある曲を聴いてみた。

Amazonの他にも、最近は、月額1000円程度の定額制の音楽サービスがあるようだ。検索してみたら、比較サイトが見つかった。ぼくは、今のところはそういうものには興味はないので、入会する予定はない。ビデオの月額料金定額制のサービスもいくつかあるようだ。これも、検索してみたら、比較サイトが見つかった。ビデオのサービスも今のところ興味はない。

2017年11月17日金曜日

プラトン著「饗宴」 2

プラトン著「饗宴」を読み進めている。162ページ中、90ページ程度読み進めた。パゥサニヤスの演説の後に、エリュキシマコスとアリストファネスの演説が続いた。エリュキシマコスの演説の要点は次のようなものである。引用する。

「エロスは単に美しき少年に対する愛として人間の魂の内に存在するのみならず、また他の多くのものに対する愛として、かつ他の事物の内にもあるもので、一切の動物の体内にも、大地の産出する植物の内にも、否、いわばありとあらゆる物の内に存在する」

アリストファネスの演説は、通常の感性からすると、かなり特殊なものであると言わざるを得ないように思う。アリストファネスによると、人間は、昔、男と女と男女の三種がいて、手足や顔などは、現在の人間の二倍分あった。それが、神の怒りを買い、現在の人間のような姿に分割され、昔、男女であったものは異性愛者に、男や女であったものは、同性愛者になったということである。だから、同性愛者のいることは、おかしなことではないということである。それどころか、男の異性愛者より、男の同性愛者の方が、より男らしいということになってしまう。アリストファネスの演説は、そのまま信じられるようなものではないように思うが、どこか考えさせられるところのある話ではあるように思う。

異性愛者と同性愛者について、自分なりに、考えてみたい。異性愛者と同性愛者の異なりは、地面に立てて置いた棒が、左に倒れるか、右に倒れるかのような異なりであるように思う。その異なりは、偶然的で、外力のあり方によって、変わってくる。その外力は、実際のところ、社会的なものである。異性愛者も同性愛者も、偶然的に、そうなるように外力が働いて、成長したに過ぎない。倒れた棒のように、一度確定した性については、後年変化することは、ないか、とても少ないように思う。

2017年11月16日木曜日

恋とは何か

恋とは何であろうか。恋という字は、変という字に似ている。恋とは、自分が変になってしまいそうなくらい、異性の相手のことが好きだということであろうか。いや、違うか。変だということとは関係のないことかもしれない。恋とは、ただ、異性の相手のことが好きだということかもしれない。

しかし、その異性の相手の好きだということが、ある程度以上大きいことのようにも思う。ところで、ここで気づいたのではあるが、同性の相手のことが好きだということも、恋なのかもしれない。特に、古代のギリシアでは、少年愛は普通に見られたことであったらしいので、そのような定義の方が自然であるのかもしれない。

恋とは、異性であれ同性であれ、ただ、相手のことが好きであるということ。それで、正しいのかどうかは、よくわからない。盲目的に好きだという条件を加えてもいいかもしれない。

恋というものがどのようなものであれ、ぼくは、随分と長いこと、恋というものをしていないように思う。それは寂しいことのように思われるかもしれないが、本人としては、そうでもない。きっと、恋というものが消失してしまっても、愛という形で残るように思うので、それは寂しいことではないように思う。その行く先は、人類愛であろうか。

2017年11月15日水曜日

愛とは何か

愛とは何であろうか。自分にないものを求めることであろうか。これは、抽象的な、しかし普遍的な愛のことである。求めること。だから、philosopherという言葉には、愛という言葉が含まれるのであろうか。日本語の哲学者という言葉には愛という言葉は含まれないけれども。それで良かったのであろうか。

日本語には、求道者という言葉がある。これは、この言葉だけでは、何をしている人のことなのかよくわからないように思う。philosopherという言葉にもそういうところがあるように思う。求道者という言葉は、意味としては、philosopherという言葉に近いところがあるかもしれない。

それで、愛については、わかったような気になるけれども、果たして、これで本当に良かったのであろうか。もし、こんなに簡単なことであったのであれば、大して問題になるようなことではなかったように思う。

愛という言葉を聞いて、もう一つ思い浮かべる言葉は、慈悲という言葉である。慈悲とは、自分にないものを求めるということであろうか。いや、大分異なることのように思う。もしかしたら、異なりはそれほどないのかもしれないけれども。やはり、愛ということを知るには、そう簡単には行かないようである。

慈しむこと。これも一つの愛の形であろうか。何だか他にも、愛の形はありそうではある。しかし、本質的には、求めることと慈しむことの二つなのかもしれない。

2017年11月14日火曜日

心を鎮める

心を鎮めること。ぼくは、どうしても、心が騒がしくなるというようなことが、よくある。これは、多分、ほとんどの人が体験したことのない騒がしさであるように思う。

そんな時に、心を鎮めようとするのであるが、これが大変である。鎮まれと言って静まるものでもないし、どのようにしたら鎮まるのかもよくわからない。

大抵にして、ぼくのやっていることは、騒がしさの大元を探して、それを鎮めようとすることである。どうするかと言うと、とにかく物質的なものより、精神的なものに集中することである。

しかし、これでも上手く言語化できているのかよくわからないし、ぼくの行為によって、騒がしさが鎮まっているのか、ただ時が流れて騒がしさが自然に鎮まっているのかも、よくわからない。とにかくこの騒がしさというものは、鎮まらないと困るという代物なのである。

これを書いている今も、実は、心が騒がしい。落ち着けようと、鎮めようとしているのであるが、十分に効果があるのかどうか疑わしい。ふとしたきっかけで、鎮まったりもするのだ。ぼくが、心のことを十分に把握しているとは言えない。より善く知りたいものだ。

2017年11月13日月曜日

ある秋の日のこと

昨日は、秋の紅葉を見るため、家の近くにある山寺に行った。が、ほとんど紅葉はなかった。少し早かったらしい。その代わりというわけではないが、山寺で仏像を見てきた。久しぶりに仏像を見たような気がする。

仏像を見ると、心が和むような気がする。なぜだろうか。やはり、日本人だからであろうか。どうだろうか。仏像にはいわゆるアウラ(オーラ)というものがあるような気がする。

アウラについて語った哲学者は誰だったであろうか。確か、大学生の時に、講義のレポートのために、その哲学者の書いた本を読んだことがある。検索してみた。そうだ、ヴァルター・ベンヤミンだ。本の名前は、「複製技術時代の芸術作品」だ。懐かしい。

Wikipediaで知ったのだが、ベンヤミンには、「パサージュ論」という未完の草稿群があるらしい。読んでみたいような気はするが、ぼくには少し敷居が高い。パサージュとは、19世紀前半にパリにつくられたアーケード街のことらしい。そこにベンヤミンはユートピアを見たという。

文化という面においては、資本主義は間違っていなかったように思う。それは歴史が証明しているように思う。だが、間違っていなかったのは、人間が善き人間性を持っているからであったように思う。

2017年11月12日日曜日

プラトン著「饗宴」

プラトン著「饗宴」を読み進めている。162ページ中、70ページ程度、読み進めている。とは言え、訳者の記した序説が40ページ程度あるので、実質的には、ほとんど読み進めていない。

この本は、序説によると、エロス(愛)について、ソクラテスを含む数名が、エロス(愛)について、演説するという内容であるようだ。一番、驚いたのは、その論者の中のパゥサニヤスが、異性に対するエロス(愛)よりも、同性へのエロス(愛)の方が尊いと考えており、これが、当時のギリシアではそれほど驚くものではないように記されているというところである。特に、少年愛を尊いもののように考えていたようである。

どうであろうか。エロス(愛)について、現代と古代のギリシアでは大きな異なりはあるのであろうか。エロス(愛)のあり方は、時代や地域によって、大きく変わるものなのであろうか。この本によると、その答えには肯定的であるように思う。それでも変わらない部分がきっとあって、それがこの本の重要なところであるように思う。

2017年11月11日土曜日

Macが壊れたが、しかし

Macが壊れた。SafariとメールとApp Storeが使えなくなった。メッセージは使えたので、友人にGoogle Chromeを送ってもらったところ、これは使えるようだった。他にもiTunes Storeなども使えなくなったようだ。原因は不明である。インターネットラジオなども使える。

しかし、メールは普段Gmailを利用していたので、Google Chromeを使えるということは、インターネットとメールは使えるということだから、再インストールするまでもないのかもしれない。2009年のMacBookを利用しているのだが、そろそろ新しいMacBook Proに買い換えようと思っていたところなので、しばらくこのまま使い続けるのも良いかもしれない。

結局、付属していたSnow Leopardをインストールして、El Capitanを経由してから、High Sierraをインストールし直した。El Capitanを経由するところが、面倒ではあるが、そうしなければならないと公式に書かれていた。

2017年11月10日金曜日

Adversarial Example 2

昨日、活性化関数のReLU(Rectified Linear Unit)をmax(0, x)からmax(0, x-ε)に変更したら良いのではないかと書いたが、Adversarial Exampleの微小な信号でも総和をとって活性化関数に入力される時点では、大きな信号に変わるのかもしれないと思い直した。

そうすると、総和をとる前に微小な信号を0か0の近くに変更するような関数を通さなければならないのかもしれない。それは、通常のニューラルネットワークのモデルとは少し異なるものになってしまうことが難点ではある。

この方法で良いのかどうかは、シミュレーションしてみなければ解らないように思う。ただ、ぼくには、シミュレーションプログラムを書く程の余裕も実力もないように思う。理論的に計算する方法があれば良いのではあるが、それをする方法は思い付かない。

この方法の他の方法はやはり有効なのではないかと思っている。特にSigmoid関数の取り扱い方は重要であるように思うし、Adversarial Exampleのクラス自体を学習することも良い方法なのではないかと思っている。

2017年11月9日木曜日

Adversarial Example

Adversarial Exampleというものがあるらしい。これは、機械学習において、分類器へ提示する入力に、人間にはほとんどノイズのようにしか思えないような信号を足して、分類器に誤分類をさせるというものである。詳しく知りたい方は、Googleなどで調べてみてほしい。

これを防ぐ方法を考えてみたのだが、ニューラルネットワークの活性化関数のReLU(Rectified Linear Unit)を、max(0, x)からmax(0, x-ε)に変更するという方法はどうであろうか。εは微小な正の数である。こうすると、ノイズのような信号には反応しなくなり、分類の結果にも大きな影響は表れないように思う。

自分でプログラミングをする程の余裕と実力はないので、プログラミングして試すことはできないのだが、誰かプログラミングすることのできる人がいれば試してみてほしい。すでにDeep Learningなどのプログラミングしている人であれば、簡単な変更で試すことができるように思う。分類器をプログラミングすることは、様々なヒューリスティックに決定されている定数などを決定しなければならないので、詳しく知らない者にとっては、むずかしい。

Adversarial Exampleの起こる本質的な原因を考えてみたい。Adversarial Exampleが起こるのは、分類集合より大きな集合を学習しているためだと考えられるように思う。これは、過学習の逆である。だから、分類集合の数を増やすことが、解決策の一つになるように思う。特に、Adversarial Exampleのクラス自体を学習してしまうという方法は、良い方法なのではないだろうか。先の方法もそうだが、既知の研究について調べてはいないので、すでに提案されている方法かもしれない。

もう一つ、理由として考えられるのが、Sigmoid関数の利用である。まさに正解が表れたとき、1に近い数字を出力するように、Sigmoid関数が学習されれば良いのであるが、通常の勾配による学習では、そうはならないであろう。小さな入力でも、1に近い出力を出すように学習してしまっている可能性があるように思う。Sigmoid関数を使うのであれば、そのあたりを考慮しなければならないように思う。

2017年11月8日水曜日

脳の表現はアナログ

視野の右上の部分が、視野の左下ではなく、なぜ視野の右上に見えるのかという問題を巡って、過去二回、様々なことを考えてきた。しかし、決定的なことは、十分には、解っていないように思う。

脳と通常のコンピュータとの異なりと言えば、脳はアナログで、通常のコンピュータはデジタルだということであろうか。アナログコンピュータというものもあるらしいが、私は詳しいことは知らない。もしかしたら、それは脳と似たような部分があるのかもしれない。

脳がアナログであるということが、心を表現するにあたって、何か決定的な役割を果たしているのであろうか。実際のところ、私にはそれはよく解らない。その可能性はあるような気もするし、そうではない可能性もあるように思う。

アナログとデジタルの異なりについて、解りやすいものは次のようなものである。二進数で、1000と111はアナログでは1の異なりしかないが、デジタルではすべての桁が異なる。つまり、デジタルでは、データとしての数の異なり方が単純ではなく、途中で大きく変わってしまうということがある。

このことは、通常のコンピュータが心を持つかということを考察するにあたって、大きな問題になるかもしれない。アナログでは、1000と111の異なりは、物理的にも1であるのに対して、デジタルでは大きく異なるということである。そのようなものが、心を表現し得るのであろうか。そういう問題である。

2017年11月7日火曜日

神経細胞の配線長と心

昨日、心の内で近いと感じられるものは、近くの神経細胞によって表現されているかもしれないということを書いた。後で少し考えてみたのだが、このことについては、もう一つの仮説もあり得るかもしれない。それは、神経細胞の配線長が短くなるように、神経細胞が配置されているという仮説である。神経細胞の配線長が短くなると良いという理由は、信号の遅延が小さくなるということと、エネルギー効率が良くなるということの二つが挙げられるであろう。

ここで気に掛かるのは、視覚や聴覚などの情報を処理する脳の領野は先天的に形成されるのか、後天的に形成されるのかということである。私は、脳のほとんどの部分は先天的に形成されるように思っているのではあるが、ウェブで調べてみたところ、子猫に縦縞模様のみを見せて育てるという実験があり、このように育てられた猫は横縞模様の見えない猫に育つそうである。だから、神経細胞の接続は、ある程度は、後天的なものであるということであろう。どの程度、先天的か、後天的かという具体的な問題は、私には解らない。このことは大事なことではあるが、胎児の段階での成長を先天的なものに含めるか、後天的なものに含めるかという問題もある。私は、それを先天的なものに含めて考えている。

どちらにしても、神経細胞は、効率的に配線するように、総配線長が短くなるように成長し、心の内で近いと感じられることは、近くの神経細胞によって表現されるようになるという仮説はあり得ることだと考えられるように思う。しかし、これでは、視野の右上にある部分が、なぜ視野の左下になくて、視野の右上にあるのかということは、解らないように思う。なんらかの意味で、最善なのであろうとは思うのだが。

例えば、身体の後方を見る第三の目があって、その視界が視野の左上のウィンドウの中に表示されるということはあり得ることであろうか。こうなると、とても機械的であろう。どこにそのウィンドウがあれば最善であるのかも、よく解らない。このような生物がいるとして、どのような視覚を獲得していると考えられるのであろうか。あるいは、見えるとしたら、端的に言って、ただ見えるのであろうか。われわれには、想像できないことであるとしても。

2017年11月6日月曜日

脳の不思議な力

われわれがものを見るとき、視野の右上にある部分がなぜ左下になく右上にあるのかということを考えてみると少し不思議であるように思う。ある神経細胞が活動すると、それは視野の左下にものがあるのではなく、視野の右上にものがあるというように、対応する神経細胞によって、視野の部分が決まっているのであろうか。しかし、視野の右上にある部分が視野の左下にあっても、そのものが見えていることには変わりはないはずではある。

この議論はクオリアについての議論と似ているようにも思うが、ぼくは違うものであるように思う。クオリアについての議論は哲学的な議論であるが、この議論は脳科学的な議論になるように思う。視野の右上にあるものが、視野の左下ではなく、視野の右上にあるということは、神経細胞のどのような活動によって表現されているのかという問題である。

仮説としてすぐに思い浮かぶのは、視野の内で近くにあるものは、近くにある神経細胞によって表現されているということである。しかし、そうだとしても、まだ十分に脳は不思議である。神経細胞の近くにあることが、心の近くにあることを表現するなんて。このことは突き詰めると、熱の近い感覚とか、皮膚の近くの感覚とか、あらゆる近くの感覚について成立しそうではある。

そうすると不思議なのは、どこかで、視覚とか、聴覚とか、触覚とか、脳の内で切り替わる部分があるはずであり、そこでは近くにある神経細胞がまったく異なることを表現しているということである。もしかしたら、そのような脳の領域は、つながりが切断されているのであろうか。そのようなことは聞いたことがないが、あり得ないことではないように思う。

大脳の二次元的な地図の上に心が表現されているはずであり、それが領野である。二つの領野が近いことは、何かを表現しているのであろうか。あらゆる心が二次元空間に表現されるということである。視覚については解るが、触覚や聴覚は二次元空間と何か関係があると考えられるのであろうか。二次元空間によって統合された心を表現する。それが脳の不思議な力である。脳は、ある意味では、より高次元の空間にあるものなのかもしれない。どちらにしても、脳が統合された心を表現することは、不思議なことであるように思う。

2017年11月5日日曜日

プラトン著「パイドン」 4

昨日の続き。魂の不死を説くソクラテスに対して、ケベスは、何度も輪廻転生を繰り返した魂は、いつか消滅するのではないかと反論した。つまり、魂は不死ではないと。それに対して、ソクラテスは次のように言う。引用する。

「魂は、自分が常にもたらすもの[生]とは反対のもの[死]を、けっして受け入れないのではないか」

ソクラテスの言う魂は、正確に言えば、魂のイデアのことのようである。ソクラテスは、非偶数のイデアが、偶数のイデアを受け入れないように、魂のイデアは、死のイデアを受け入れないと言っているようである。したがって、魂は不死であると。

これは、どうであろうか。魂が不死であることは、定義であると言っているのと変わりがないように思う。定義であるのであれば、それは、証明されて当然のことであろう。果たして、プラトンの記述するソクラテスの言論に、それ以上の価値があるのかどうかは、ぼくには解らない。

どちらにしても、プラトンの記述するソクラテスが、魂は不死であると考えていたことには変わりがない。「ソクラテスの弁明」でのソクラテスは、魂が消滅することはあり得ると言っていたように思うので、この「パイドン」でのソクラテスとは、立場が微妙に異なるようではある。

2017年11月4日土曜日

プラトン著「パイドン」 3

プラトン著「パイドン」を読み終えた。この本の主な目的は、魂の不死を証明することのようである。シミアスとケベスが、魂の不死を説くソクラテスに、それぞれ反論する。シミアスの反論は次のようなものである。引用する。

「もしも魂がなんらかのハルモニアー(調和)であるとすれば、われわれの肉体が病気やその他の災いのために度外れに弛緩させられたり緊張させられたりするときには、魂はもっとも神的なものであるにもかかわらず、直ちに滅亡せざるをえないことは明らかです」

(本文とは直接関係のないことではあるが、Macでは「直ち」は「ただち」から変換できなかった)

これに対して、ソクラテスは次のように答える。一つだけ挙げるということはむずかしいことではあるが。シミアスの反論は、想起説と矛盾すると言うのである。引用する。

「もちろん、君の言う調和は、君がなぞらえたようなもの[魂]ではない。竪琴や弦が先ずあって、それから未だ調律されていない音が生じ、それらすべての最後に調和が合成され、そして、それが最初に滅びるのだ。すると、君のこの説はどうしてあの[学習とは想起であるという]説と調和するのだろうか」

ケベスの反論については、次回に回す。

2017年11月3日金曜日

魂と理性

魂と理性は本質的に同じものであるのではないかと昨日の記事に書いた。少し調べてみたけれども、そのようなことを主張している過去の哲学者はいないようである。だから、このことについて、もう少し考えてみたいと思う。

魂と対比されるのは肉体であるけれども、理性と対比されるのは何であろうか。これはむずかしい問題ではある。本能や感情や情動であろうか。一言で示すのは、よりむずかしい問題であるように思う。ここでは、一言で示すという問題は保留にしておきたい。とにかく、そのようなものであるということにしておく。

魂と理性が本質的に同じものであるということは、肉体は本能や感情や情動と本質的に同じものであるということである。私には、そのようなことは、本当のことであるように思える。プラトン、ソクラテスの言う通り、魂が肉体に汚されることがあるように、理性が本能や感情や情動に汚されることがあるように思う。どちらも、そのような状態から、浄めるということが大切なことであるように思う。

プラトン、ソクラテスの言う通り、神のもとに到達するのは、哲学によって浄められた魂であるのであれば、それは、本能や感情や情動から浄められた理性であるということになるように思う。それは、名前を付け替えられただけのことのようにも思えるが、本当のことであるように思う。

このように、魂と理性には類似性があるように思う。このことは、魂と理性が本質的に同じものであるということが、起因しているように思う。少し強引に過ぎる結論のようにも思うが、そのように思う。

2017年11月2日木曜日

魂について

Wikipediaによると、魂は、古代ギリシアの言葉で、プシュケーというらしい。プシュケーは、もともとは息を意味しており、転じて生きること、命、心、魂を意味するようになったらしい。また、日本語でも、生きるという言葉は、息が原義だと考えられているらしい。どちらにしても、息から心や魂を意味するようになったのは、ギリシア語に特有のことであろう。

プラトンの記すソクラテスは、魂という言葉を多用するので、ギリシア語では、魂は、息や命を意味するということを知っておくことは大切なことであるように思う。

魂というものがあるのかどうかという問題に対して、ぼくは肯定的である。来世もあるように思う。しかし、輪廻転生については、あまり肯定的ではない。どちらかと言うと、来世は、空間が六次元になるとか、時間が二次元になるとか、その他、現世に対して、超越的なものであるように思う。しかし、そのように確信しているというわけではない。

魂は、もっとも自分らしい自分であるように思う。魂と理性の異なりは何であるかという問題はむずかしい。ほとんど異なりはないように思う。同じようなことの異なった側面であるように思う。理性というものを拡大解釈しているように思われるかもしれない。確かに、そういうところはあるように思う。しかし、ぼくは、どちらも同じようなもののことであるように思う。

2017年11月1日水曜日

プラトン著「パイドン」 2

プラトン著「パイドン」を読み進めている。176ページ中、110ページ程度まで読み進めた。印象的だったところは二つある。

一つは、肉体は合成的で、魂は非合成的であり、合成的なものは解体されるが、非合成的なものは解体されない。だから、魂は不死であるというところである。そして、肉体は変わり、輪廻転生することもあり得るというものである。そして、ソクラテスは次のように言う。

「常に自己同一を保ち同じように有るものが、非合成的であり、これに対して、時によってその有り方を変えけっして自己同一を保たないものが、合成的である」

もう一つは、魂は浄めなければならない、そして、魂を浄めるということは、まさに、哲学することであるというところである。浄められた魂は、死後、神的なもののもとに到達し、汚れた魂は獣に転生することもあり得るという。

大分、宗教的な話題になってきたように思う。この本の副題は「魂の不死について」というくらいだから。そして、ソクラテスは自身を神アポロンの下僕と見なしていたらしいから。私は輪廻転生はあまり信じていないから、これからこの本を読み進めるにあたって、考え方が変わることがあるのかもしれないと楽しみにしている。

2017年10月31日火曜日

知恵を愛する者

知恵を愛する者(哲学者)という言葉が、プラトン、ソクラテスの思想にはあるけれども、ぼくは、知恵を愛する者(哲学者)なのであろうか。あるいは、そういう者になりたいのであろうか。自問してみたい。

プラトンの記すソクラテスの思想には、徳、善、美、真理、知恵という言葉はよく登場するように思うが、愛という言葉はあまり登場しないように思う。しかし、知恵を愛する者(哲学者)という言葉によって、決定的に登場している。

ぼくが、プラトン、ソクラテスの意味で、知恵を愛する者(哲学者)になると言うことは、それなりの転向を示すということになるように思う。ぼくが、今のぼくの知る限り、プラトン、ソクラテスの思想で最も魅力的に思うのは、魂と肉体の二分論があり、魂は、徳、善、美などの真の知恵を求めているというものである。これは大分大雑把な論説ではあるように思うが、ぼくは、そう理解している。これが、かのプラトニズムというものであろうか。いや、どちらかと言うと、ソクラテス的なのかもしれない。

知恵を愛する者(哲学者)に転向しようかなという思いはある。何から転向することになるのかもはっきりとは解らないのではあるが。探求者であろうか。原義的には、ほとんど同じようなことかもなのしれない。探求者という言葉は結構好きだ。知恵を愛する者(哲学者)ではなく、ギリシア語は知らないのではあるが、philosopherと英語で言えば、幾分説得力が増すようにも思う。

転向とはいかないまでも、プラトン、ソクラテスの思想から、かなりの影響を受けたのは確かではある。もっと早くに、読んでおいた方が良かったのかもしれない。いや、しかし、興味のあるときに読むという方法も、間違った方法であるようには思わない。

2017年10月30日月曜日

プラトン著「パイドン」

プラトン著「パイドン」を読み進めている。サブタイトルは「魂の不死について」である。176ページ中、70ページ程度読み進めた。ソクラテスが、魂と肉体の二元論を説いているところが、印象に残った。次に引用する。

「では、死とは、魂の肉体からの分離に他ならないのではないか。すなわち、一方では、肉体が魂から分離されてそれ自身だけとなり、他方では、魂が肉体から分離されてそれ自身単独に存在していること、これが死んでいる、ということではないか。死とは、これ以外のなにか他のものでありうるだろうか」

脳は肉体であるか、ソクラテスに問うたら、どう答えるであろうか。やはり、肉体であろうか。自明なことであろうか。

そして、ソクラテスは、正しく哲学している人々は死ぬことの練習をしているのだと言う。そして次のように言う。引用する。

「あの世へ着けば、一方では、生涯を通して憧れつづけてきたもの、知恵、を得るという希望があり、他方では、争いつづけてきたものと一緒にいることから解放されるというのに、あの世へ行くのを喜ばないなんて」

知恵を愛する者(哲学者)は、だから、死を恐れないのだと。このことは知識の想起説とも関係するらしい。

そして、ソクラテスは、反対物は互いを生成すると言う。生と死もこれにあたるということである。次に引用する。

「分離すると結合するとか、冷たくなると熱くなるとか、すべてこういうものは、たとえある場合にはわれわれは言葉を用いないとしても、たしかに現実においてはあらゆるところで必ず次のような事情にあるのではないか。つまり、それらの反対物は相互から生成し、それぞれが互いに他方へ生成する、ということだ」

なんだか太極図のような話ではある。反対物は互いを生成するということは、本当のことであろうか。私には、まだ得心しないところがあるように思う。

2017年10月29日日曜日

プラトン著「メノン」 3

プラトン著「メノン」を読み終えた。徳は教えられるものであることは、徳は知識であるということが仮設として必要であり、徳のある人物とは、われわれの行為を正しく導く人物であるということであった。そして、次のことが結論された。引用する。

「行為の正しさということに観点をおくなら、正しい思わくは、導き手として『知』に何ら劣るものではないことになる。そしてこの点こそ、われわれがさっき、徳とはいかなるものかを考察するにあたって、見のがしていたことなのだ。われわれは、正しい行為を導くのはただ『知』だけだと言っていたのだから。実際にはしかし、正しい思わくもまたそうだったのだ」

そして、最後に、次のように結論される。引用する。

「徳というものは、もし徳が誰かにそなわるとすれば、それは明らかに、神の恵みによってそなわるのだということになる。しかしながら、これについてほんとうに明確なことは、いかにして徳が人間にそなわるようになるかということよりも先に、徳それ自体はそもそも何であるかという問を手がけてこそ、はじめてわれわれは知ることができるだろう」

ということで、いかにして徳が人間にそなわるようになるかということは、明らかにはなったが、徳それ自体はそもそも何であるかということは、本書では、明らかにはならなかった。

問題は、徳は知識であるかということである。徳は教えられないという本書の結論からは、徳は知識ではなく正しい思わくであるということになる。しかし、徳は教えられないということは、いくつかの例から示されたことであり、はっきりとした真実ではない。だから、徳は知識であるということは、まだあり得ることなのである。しかし、本書の議論の範囲内では、徳は正しい思わくであり、知識ではないということである。

2017年10月28日土曜日

象徴天皇制の廃止

象徴天皇制は全体主義的だと思うのだ、僕は。象徴天皇制には何か居心地の悪さを感じていて、それを言語化すると、全体主義という言葉に突き当たる。日本国の象徴はいくつあっても良いように思う。それを憲法で、一つ制定するということは自然な行為ではないように思う。ましてや、日本国民統合の象徴などは要らない。

中には、天皇制を廃止しようという考え方もあるようではあるが、僕はそれには賛成しない。僕は、歴史というものは大切であるように思う。皇室は存続して、象徴天皇制に代わる新しい天皇制を作るべきだという意見である。特に、憲法の第一章に記述されているという現状は変えた方が良いように思う。そして、象徴に関する記述はなしにした方が良いように思う。

象徴天皇制を廃止して残るのは、いくつかの伝統的な儀式と元号だけのように思う。歴史を大切にするという観点からは、それくらいで良いのではないかと思う。

天皇も一国民として、当然、人として扱われるということである。天皇の神格化は、個人的には、論外である。それは、第二次世界大戦の一時期にだけ特に行われた教育であり、歴史的な事実とは言えないように思う。

象徴天皇制の廃止には、東京の一極集中を防ぐという効果もあるように思う。何しろあのようなところに皇居があるのであるから。官僚が喜びそうなことではある。あまり精神衛生上好ましくないように思う。東京の一極集中はつまらないと思う。象徴天皇制を廃止するのであれば、天皇の居住地は天皇が決めて良いであろう。京都でも大阪でも良い。京都に新しい御所を作っても良いのではないだろうか。

2017年10月27日金曜日

憲法改正案

憲法改正について最近、議論がなされているようなので、私の考えも書いておきたい。以前も一度書いたことがあるのだが、自衛隊は、現在の憲法の下では、違憲であるように思う。だから、自衛隊が合憲になるように憲法第二章を改正する必要がある。これが一つである。

もう一つは、天皇のことを記した憲法第一章である。私は、天皇が日本国の象徴であるとか、さらにもっと言えば、日本国民統合の象徴であるとか、そういったことは、明治維新の理念を継ぐものではあるが、実際のところ、明治維新後の東京政府が相次ぐ戦争と敗戦の一番の原因であるように思うので、捨て去ってしまって構わないように思う。昨日にも書いたが、首都機能は京都に移転して良いように思っている。憲法第一章は大幅に改定して良いように思う。

どのようにしたら良いかであるが、象徴天皇制はまず廃止して、天皇が行う国事もほとんどなしにして良いのではないかと思う。必要のある伝統的な儀式などについては継続して良いように思うが、憲法に記さなくても良いように思う。憲法に記すとしても、第一章ではなくて、後の方で良いのではないかと思う。

2017年10月26日木曜日

大阪府を都にすることよりもすべての都府県道を府にすること

大阪都構想の一つの目的は名称を大阪府から大阪都に変更することにあるように思う。もともと東京都も東京府だったのだから、大阪府も京都府も都に変更しても良いように思う。私が問題にしているのは、行政自体の問題ではない。名称の問題である。行政区はそのままでもいいし、変更してもいいように思う。私は、そのような行政の問題には詳しくないので、識者が決めてほしいように思う。いつか調べてみたい問題ではある。

しかし、京都府が都になると、京都都と、名称は困ったことになるように思う。実際のところ、東京都という名称に問題があったように思う。言い方は悪いが、東京都という名称は京都という名称の剽窃であろう。だから、大阪府と京都府を都にするよりは、東京都を東京府にすることの方が現実的であるように思う。

自治体に格があるという考え方は、私は古いように思う。だから、大阪府と京都府を都にするか、東京都を府にするかが良いように思う。現時的であるのは、東京都を府にすることであろう。日本の首都は京都であるという説もあるというのに、東京都という名称は場違いであろう。

そして、さらにそれを押し進めて、現在のすべての県と道も府にしてしまえば良いのではないかと思っている。私は都道府県という言葉は官僚的だと思うので使わないが、すべての都府県道を府にすれば、平等で良いのではないかと思っている。地方という言葉も同様の理由で使わない。すべての都府県道を府にすることは、地域の活性化という方針にも合うのではないかと思う。

私としては、大阪府は府という名称に誇りを持って、がんばってほしいと思っている。大阪都という名称は、京都府が残されるという問題がある。東京の都なんぞは京都の剽窃に過ぎない。首都は京都であるという説もあるくらいだから、大阪府の自治体は、近畿や畿内の文化に誇りを持って、他の地域へその魅力が伝わるようにしていってほしいように思う。

実際のところ、東京都は敗戦の責任を取って、首都機能を京都府に移した方が良かったのではないかと私は思う。軍事都市であった江戸よりも、文化都市であった京都の方が、平和憲法の下では首都にふさわしいのではないかと思う。明治維新の一番の間違いは首都機能を江戸に構築したことであろうと思う。今からでも、京都府に首都機能の移転をすれば良いのではないかと思う。

2017年10月25日水曜日

子供は共同体が育てる

子供は共同体が育てる。いつかそういう時代が来るような気がしている。子供が生まれたら、その時点で、子供は両親の元を離れ、寮のようなところに入る。だから、産みの親はあっても、育ての親はない。あるいは、育ての親は共同体である。義務教育の終了まで、子供は共同体に育てられる。だから、生まれによって教育の差はないし、教育に関してはまったく平等な機会が与えられる。

これは、一つの少子化対策でもある。共同体が子供を育てるのであれば、安心して親は子供を産むことができるからである。また、安心して親が子供を産めるように、共同体はその養育、教育システムをつくらなければならない。共同体が子供を育てるということは、ある種の倫理と合理性によるもので、少子化対策は二次的な結果ではある。社会主義的だと思われるかもしれないが、実際にある種の社会主義でもあるように思う。いじめなどの問題も当然減少するように思う。相続は廃止される。相続は贈与に相当することになる。習慣として、相続するということは減少するように思う。

このような養育、教育システムが実現するのはいつのことになるだろうか。百年先、二百年先かもしれない。しかし、私は、このようなシステムは合理的だと思うので、いつか実現することなのではないかと思う。

2017年10月24日火曜日

ソクラテスとダイモニオン、そして神について

ダイモーンとは、Wikipediaによると、「人間と神々の中間に位置する、あるいは善性あるいは悪性の超自然的存在で、下位の神格や死んだ英雄の霊など」のことである。和訳例は、「鬼神」、「神霊」、「精霊」。ダイモニオンとは「ダイモーン的なもの」を意味し、プラトンの描くソクラテスでは、ダイモニオンがダイモーンだとはまったく述べていないらしい。ソクラテスには、ダイモニオンの声が聴こえることがあり、「ソクラテスの弁明」には次のように記されている。

「これはすでに私の幼年時代に始まったもので、衷に一種の声が聴こえて来るのである。そうしてそれがきこえるときには、それはいつも私の為さんとするところを諫止するが、決して催進することをしない」

ダイモニオンの声は、何かをするとき、その肯定的なことを伝えるのではなくて、その否定的なことを伝えるということである。だから、ダイモニオンの声は、本質的に節制的であり、倫理的であるように思う。

私にとって、いや、おそらく私に限らず、ソクラテスの神秘的なところは、このダイモニオンと想起説なのであろうと思うのだが、このダイモニオンは想起説に比べると受け入れ易いように思う。しかし、人によるのかもしれない。

想起説は、魂にはすべての知識があり、新しい知識を得るということは、想起するということだというものである。これは、魂は一つということになるであろうし、現在の魂には、正しいとも正しくないとも証明されることはないように思う。それこそ、ダイモニオンの力なくしては。

ダイモニオンにも同じような問題があるように思う。それは、仮に何らかの声が聴こえたとしても、それがダイモニオンであるかどうか、どのようにして解るのかという問題である。私の知る限りでは、プラトンの著書では、ダイモニオンの声については、断定的に語られるのみであり、そのことについては語られていない。声の種類に差異があるのかもしれない。

しかし、それでも私には、ダイモニオンの声はあり得ることのように思う。ソクラテスが嘘を付いているようには思わないし、それくらいのことはあっても驚かない。想起説は、本質的に人間の知の限界を超えているようにも思えるが、ダイモニオンの声は、そうではない。よりあり得ることのように思う。

私は、ダイモニオンという言葉は使わないが、神の声が聞こえるように思うことはある。私にとって、神とは唯一にしてすべてであり、捉え切れないものである。だから、唯一にしてすべてであるということ自体、間違いであるということもあり得る。神とは、あるいは、そのような探求の行為を示すための言葉である。だから、私にとっては、神とは、本質的に、とてもメタな言語であるように思う。

神には、もう一つ、意味があるように思う。それは、ソクラテスの言うように、徴を与えてくれるものという意味である。これは、徴というものがまずあって、それに主体性を与えるというものである。だから、この意味での神は、徴というものが一次的であって、その主体性である神は二次的なものである。このような神は、いるかいないかということは本質的に仮定的であるように思う。そのことは、最初の意味の神と同じであるように思う。

2017年10月23日月曜日

プラトン著「メノン」 2

プラトン著「メノン」を読んでいる。70ページ程度まで読み進めた。ここまでで気に掛かったところは、メノンのパラドックスと呼ばれているものである。メノンのパラドックスとは次のようなものである。以下に引用する。

「人間は、自分が知っているものも知らないものも、これを探求することはできない。というのは、まず、知っているものを探求するということはありえないだろう。なぜなら、知っているのだし、ひいてはその人には探求の必要がまったくないわけだから。また、知らないものを探求するということもありえないだろう。なぜならその場合は、何を探求すべきかということも知らないはずだから」

これに対して、ソクラテスは想起という概念を用いて答える。ソクラテスによれば、魂は不死であり、魂がすでに学んでしまっていないようなものは、何ひとつとしてなく、もし人が勇気を持ち、探求に倦むことがなければ、徳についても、その他いろいろの事柄についても、それを想起できる。ソクラテスはそう信じていると。

このソクラテス、あるいはプラトンの想起説は不思議と言えば、不思議であろう。誰にでも了承されるというようなものではないように思う。メノンは、ソクラテスとメノンの召使との対話を見ることによって、了承したようではある。私は、まったく了承したということはない。正直なところ、そういうこともあるのかもしれないなという程度である。

メノンのパラドックスについて、私なりの答えを考えておきたい。知っているものを探求する必要がないということはその通りだと思う。問題は、知らないものを探求するということはありえないことであるかどうかであろう。私としては、知らないものを探求するということはありえることであるように思う。知らないことであるから、確かに、探求している最中に、どの程度答えに近付いているかなどを測ることはできない。しかし、偶然、探求が答えに近付いていくということはありえることなのではないかと思う。そして、偶然、答えを手にするということも。

数学の証明などは、知らないことを探求する良い例なのではないかと思う。その答えは知らないが、一般的な答えを知っているということもある。一般的な答えをいくつか知っているが、その組み合わせ方は知らないということもある。そこに探求する可能性があるように思う。

2017年10月22日日曜日

プラトン著「メノン」

プラトン著「メノン」を読んでいる。徳は教えられるかというメノンの問いに対して、ソクラテスはそもそも徳とは何かを知らないと言う。そして、メノンに徳とは何かを知っているかと問う。それに対して、メノンは徳というものの種類を挙げる。男の徳、女の徳、子供の徳、年配の者の徳、自由人の徳、召使の徳など。正義、勇気、節制、知恵、度量の大きさなど。

しかし、ソクラテスは、それらの徳はすべて、ある一つの同じ相を持っているはずだと言う。そこに注目し、「まさに徳であるところのもの」を質問者に対して明らかにするのが、答え手としての正しいやり方であるべきだと言う。

しかし、果たしてそうだろうか。例えば、色とは何かについて理解するためには、色の種類を理解しなければならないだろうし、徳についても同じことが言えるのではないだろうか。まだ20ページ程度しか読んでいないけれども、とりあえず気になったところ。

2017年10月21日土曜日

ソクラテスは変人か

ソクラテスは変人か。僕は少しそう思っている。とは言え、もう少し本を読んでみないとはっきりしたことは言えないのだが。さらに、ソクラテスのことが記されている本は、プラトンなどによる間接的なものしかないのだが。

ソクラテスのどのあたりが変かと言うと、まず、議論を吹っ掛けるのが好きなところである。とにかくソクラテスは議論を吹っ掛ける。「クリトン」では死の直前であるのにも関わらず、クリトンに議論を吹っ掛けていた。それくらい好きである。

次に、ソクラテスの自身は知者ではないという立場である。自身は、知らないということを知っているという。それもまた、知なのではないか。よく解らない。何かがおかしい。そして、知者ではないという割には、雄弁である。知者ではない者は、普通、寡黙ではないのか。それがよく解らない。おかしなところである。ソクラテスには、沈黙の美徳というものがないようである。

すべては、デルフォイの神託の所為であるように思う。それで、ソクラテスの人生はすっかり変わってしまったようだ。神託の力は、ものすごいものである。その神託は正しいと仮定して、考えられたことが無知の知なのだから。ソクラテスのその敬虔さも不思議である。

かつての日本では、ソクラテスのような人間は、出家していたのではないかと思う。世間とは、合わないから、合わせる必要もないと。出家とは便利な制度である。現在では、流行らないようではあるが。ソクラテスと僧侶は、宗教が異なるだけで、同じような人たちなのかもしれないなと思う。

2017年10月20日金曜日

知識とは何か

知識とは何か。知識とは、以前にも書いたが、事物の抽象化の体系のように思う。例えば、木であれば、個物である木を何本も感覚して、そこから一般的な木というものが抽象化されるわけである。葉にしても、枝にしても、根にしても同様である。緑色や茶色なども同様であろう。

また、数字の足し算のように、抽象化された物の抽象的操作も知識と言い得る。この抽象的操作は、実際に様々な場面で現れるのであるが、足し算は個物から抽象化されるものと言うよりは、始まりはそうかもしれないが、抽象的思考によって知識となるように思う。

私の考えと、テアイテトスの言う3つの知識とはどれも異なる。私の考えでは、知識は真なるものに限らず、端的にあるということがその要件である。だから、空想されたことであっても、それは知識と言い得る。

Wikipediaでは、知識の一つの定義として、「知識とは正当化された真なる信念である」というものが提示されていたが、これは私には不服である。これだとテアイテトスの言う知識とほとんど変わらないように思うのだが、どうであろうか。

2017年10月19日木曜日

ソクラテスの印象

プラトン著「ソクラテスの弁明・クリトン」、同じくプラトン著「テアイテトス」を読んで、プラトンの著作を読んだのはこれが初めてなのであるが、ソクラテスの印象が大分変わった。

これまでのソクラテスの印象は、無知の知のある者ということで、寡黙な人物なのかなと思っていたが、どの本に出てくるソクラテスもとても雄弁であった。これでは、ソフィストとフィロソファーの異なりがよく解らないと思った。

ソクラテス自身は、自らに知識はない、しかしその知識のないことは知っているという立場なのだが、そうは見えない。どの本を読んでみても、ソクラテスには知識があるようにしか見えなかった。とは言え、2冊しか読んでいないので、他の本も読んでみて考えてみたいとは思っている。

「テアイテトス」では、ソクラテスはテアイテトスに対して、3度、産婆術を試みるのであるが、そのどれもが失敗に終わっている。元はと言えば、産婆術のことを知りたくて「テアイテトス」を読んだので、空振りに終わった感はある。しかし、これほどのページ数を費やさなくても、可能な議論であったように思うのだが。