2017年8月31日木曜日

瞑想することの形と内容

以前、瞑想するのに、目を瞑る必要はないのではないか、
ということを書いたことがあると思う。

目を開けて瞑想しても、深く思考する時は、
視覚は意識から外れることが多いので、
それは、目を閉じる瞑想とあまり変わりはないように思う。

視覚もまた重要な思考対象だと思ってはいるが、
人の考え自体は、ほとんど言語的
なのではないかと思っている。

瞑想と言えば、形が問われることが
多いように思うが、形よりも内容の方が大切だろう。

瞑想とは、その主体の思考から、
考えを捨て去って行く行為だと思う。
だから、その意味では、瞑想によって、
「無」や「空」になるということは正しいことだと思う。

そうは言っても、すべての思考を
捨て去って良いのではないだろう。
瞑想によって、捨て去って良いのは間違った考えだろう。
哲学的には、止揚と言って良いように思う。
その後に残るのは、倫理だろうと思う。
倫理もまた、よく形で問われることだ。
こうして得られる倫理は、その人らしさを
表すように思うが、これを普遍化すると、
世俗の宗教らしくなるように思う。

一般的に正しいとされている常識だとかは、
捨て去ってしまっても構わないと思う。
私は、どちらかと言えば、性善説の立場に立ちたいので、
「無」や「空」に近い思考も、
善の性質を持っているのではないかと思っている。

2017年8月30日水曜日

神の偶像を否定する

偶像崇拝を否定するのであれば、
神の偶像は否定しなければならない。

例えば、キリスト教では、十字架に
磔になったキリストの像がある。
この像は、「苦」を表現しているので、
本質的に、否定的だろう。
また、キリストは磔になった後、復活するので、
この像は、本質的に、「無」を表現しているように思う。
だから、キリスト教では、
神の偶像を否定しているように思う。
この観点では、神の偶像をつくってはいけない、
という旧約聖書より、キリスト教は進歩的だと思う。

仏教ではどうだろうか。
私は、仏像は「分からない」ことを表現しているように思う。
ほとんどの仏像は、人には「不可解」で、
崇拝することが「不可能」であるように思う。
仏像も、本質的に、「無」を表現しているように思う。
だから、仏教も偶像崇拝を、
本質的には、否定しているように思う。

ぬいぐるみやフィギュア等の偶像はどうだろうか。
これは、ある種、崇拝の対象になっていると思うが、
そこで、崇拝されているのは、人形そのものではなく、
ベンヤミンの言うようなアウラだと思う。
これらも、本質的に、「無」を表現しているように
思えるのだが、どうだろうか。

2017年8月29日火曜日

神の概念化

「神」という字の語源を調べてみると、
「かみなり」を示す「申」と「示」の合わさったものとある。

「神」の旧字を記そうかと思ったが、
Bloggerでは表示できないようだ。

私は、ある時から、「申」は太極図のように
「森羅万象」を示すものと解釈してきた。
共通言語的な「神」とは異なるかもしれないが、
「かみなり」は抽象化されていると思うので、
あまり変わりはないように思う。

私にとって、「神」は「森羅万象を示すもの」だ。
これは、神を概念化しているだろうか。
「神」を表す最大の概念は、
例えば、「世界そのもの」だろう。
「森羅万象を示すもの」という概念は、
ほとんど最大だと言っていいと思う。
だから、「森羅万象を示すもの」は、
ほとんど概念化していないと思う。

神は、本質的に、概念化できないものだと思うので、
もし、概念化していたら、それは捨てるべきだと思う。
「森羅万象を示すもの」という概念は捨てなくてもいい、
曖昧だが、境界の近くにあるように思う。

だから、神の偶像は捨てるために、あるように思う。
良い、神の偶像は、本質的に「無」を
表現しているように思う。
これはとても重要なことだと思うが、神の偶像は、
もしそれが概念的に捨てられるのであれば、
つくってはいけないということはないと思う。
偶像を止揚(aufheben)するというようなことだ。
その時、偶像崇拝は否定されるように思う。

2017年8月28日月曜日

日本語の一人称の自由さ

日本語の一人称は、「私」、「僕」、「俺」等、
たくさんあるという点においては自由だが、
いずれかの一人称を表明しなければいけない
という点においては、自由ではない。
一人称の自由を楽しんで文章を書きたい。

「私」、「僕」、「俺」の違いは何だろうか。
違いがあることは分かるが、
その違いははっきりとは分からないように思う。
「僕」と「俺」の違いは、
「僕」においては話者が「O」であり、
「俺」においては対象が「O」だということだろうか。
対象を「O」と示すことは、
あまり丁寧ではないということだろうか。

「私」は、「和」を連想するから、丁寧なのだろうか。
しかし、「わし」という一人称は丁寧ではないだろう。
「私」は、間に「T」という距離があるから、丁寧なのだろうか。
「我」という一人称もあるが、最近はあまり使われないようだ。
「わし」が丁寧でないのは、「私」の省略のようだからだろうか。
「我」はそれとは異なると思う。

2017年8月27日日曜日

目的をつくる力

最近、機械の知、AIの進歩が話題になっている。
AIは進歩したが、それでも今のAIには得意ではないことがある。
それは、目的をつくることだ。
チェス、将棋、囲碁等、目的がはっきりしていることでは、
AIは人より賢く振る舞える。

生きる目的がないという人もいるかもしれないが、
それでも人は日々、目的を持って生きている。
ルーチンワークになっていることもあるかもしれないが、
それでも、それは、いつかそうしようと決めたことだ。
AIはそれが不得手だ。

目的をつくることは、とても大切なことだ。
目的をつくることは、人でも難しいことなのかもしれない。
目的をつくることに、明確な手段はないのかもしれない。
それでも人は目的をつくる。
そうする力がある。

2017年8月26日土曜日

「思想」と「哲学」の異なり

哲学は、philosophyの訳語として
使われているから、その印象が強いが、
私は、漢字の原義を考えて、
「哲学」よりも「思想」という言葉を好んで使う。

「哲学」と言うと、どうしても堅い印象がある。
何故かと言うと、やはり「折る」からだろう。
また、「哲学者」と言うと、どうしても、
何か怒っているような印象がある。
何故かと言うと、それもやはり「折る」からだろう。
「折る」と言っても実際に「折る」訳ではないが。
そこには明晰という意味が込められているらしい。
しかし、私は哲学という言葉を一旦捨てる。

また、私は、「思想家」の「家」の文字が
何だか、構えているみたいで気に入らないから、
このブログで「思想者」と名乗ろうかと思ったが、
「思想者」という単語は一般的には使われていないから、
やはり使わないことにした。

すべての人は、philosopherだと言えるだろうか。
すべての人は、哲学者だと言えるだろうか。
すべての人は、思想家だとは言えそうだ。
何だか、構えているみたいだが。

この三つの中では、思想家という言葉が
最も使いやすいと思う。
しかし、確かにphilosopherはphilosopherらしいし、
哲学者は哲学者らしいし、
思想家は思想家らしいように思う。
名前は重要だ。

2017年8月25日金曜日

ゲーデルの不完全性定理

あまり詳しくないけれども、
ゲーデルの不完全性定理について語ってみたい。

ゲーデルの(第一)不完全性定理とは次のようなものだ。
「この文は証明できない」という文は、
その肯定も否定も証明できない。

このことが数学界に衝撃を与えたかのように
語られることがあるように思うが、どうしてだろうか。

この定理は、数学的なものだと言うが、
同時に哲学的なものでもあるだろう。
だから、自然言語的な分析も可能ではないかと思う。

「この文は証明できない」という文は「証明できない」。
だから、当然、この文の肯定は証明できない。
この文の否定は、「この文は証明できる」であるが、
このことは矛盾なので、この文の否定も証明できない。
このように、ゲーデルの不完全性定理は、
自然言語的な分析ができるように思う。

それにしても、この文は、哲学的に特殊な文なので、
数学の正しさにどれだけの影響を与えるのか、
はっきりとは分からない。
何も変わりはしないようにも思うのだが。

この文は閉じている文と言えるのだろうか。
開いているのではないか。
空虚な文だとは思う。

2017年8月24日木曜日

反機能主義とクオリア

クオリアは反機能主義から生まれた
概念だと言われているようだ。
そこでは、クオリアは経験から機能を
外されたものとして語られている。
経験から機能を外された純粋な経験、
それがクオリアだということらしい。

しかし、純粋な経験であるクオリアは、
理論的産物であって、現実のものでは
ないように思う。
例えば、私の視覚のクオリアには、
それをしらせるという機能があるだろう。

クオリアに機能が必要とされない場面の一つは、
他者の思考においてだろうか。
私の視覚のクオリアは、機能しているが、
他者の思考においては、他者の視覚のクオリアは、
機能する必要はないかもしれない。

だから、正確には、クオリアは反機能主義から
生まれた概念だと言うより、
他者の機能主義への批判から
生まれた概念だと考えていいように思う。
他者の機能主義への批判では、
他者に私と同一的なクオリアのあることが、
想定されているように思う。
そこに主客の混同があるように思えてならない。

2017年8月23日水曜日

語り得ないクオリアを語ること

<機能>的にクオリアのあるということは、
語義矛盾していないように思う。
クオリアと語られているものにも<機能>があると思う。

だから、「クオリア」のない、
<機能>的にクオリアのあるということは、
語り得ることのように思う。
また、括弧付きの「クオリア」にも、
<機能>があるように思う。

だから、クオリアについては、どこまでも、
語り得ないことであるように思うのだが、
どうだろうか。

あるいは、どこまでも、
語り続けるしかないことなのかもしれない。

フッサールの言うエポケーのように、
その「どこまでも」を止めるといいのかもしれない。
フッサールの意図はそれとは違うのだろうとは思うが。
それが、語り得ないクオリアを語るということだろうか。

クオリアに関する文章を読む読者は、その読書の内で、
エポケーをしているのかもしれないと思う。
クオリアの議論とエポケーには、
どこか似たようなところがあるように思う。

存在とクオリアの違いは、
存在が外部から内部への運動であるのに対して、
クオリアは内部から外部への運動であることだろうか。
現象は、それについては、はっきりしないところが
あるように思う。
中立的なのかもしれない。

意識のハードプロブレムに関して言えば、
現象から脳を分析するのであって、
脳から現象が生じるというのは逆説的だと思う。

また、クオリアのある他者が定義可能であって、
クオリアのない他者、哲学的ゾンビが
論理的に可能だということも逆説的だと思う。

2017年8月22日火曜日

クオリアのある他者とクオリアのない他者

私のクオリアのないことは語り得ないし、
他者のクオリアのあることは無内容的だろう。

クオリアについて語る時、語り得ないことを
語っているような気がするのは、何故だろうか。
私にはまだ十分には分かっていない。

チャーマーズの言う哲学的ゾンビは、
論理的に可能だというよりは、
同じようなことではあるが、あることか、
定義的にないことかのどちらかだろうと思う。
哲学的ゾンビという名前はどうかと思うが。

私が思うのは、他者のクオリアのあることは無内容的だし、
他者を私と本質的に同一的で異なる主体と定義する場合、
他者に私と同一的なクオリアがある、ということだ。
定義的に可能であることを、チャーマーズの言うように、
論理的に可能だということは、曖昧ではある

2017年8月21日月曜日

語り得ないクオリアと自己言及文

「クオリア」のない、機能的にクオリアのある主体、
というものが語り得ると思う。

しかし、「「クオリア」」のない、機能的に
「クオリア」のある主体、というものも
語り得るのだろうか。
このようにクオリアについては、どこまでも
語り得ないように思う。
永遠に。
永劫回帰のことをふと思い出す。

語り得ないことは沈黙すべきであるのではなく、
語り得ないことは語り得ないということを
語って良いように思う。

以上のことと自己言及のパラドックスというものが
少し似たような構造を持っているように思うので、
紹介してみようと思う。

自己言及のパラドックスとは次のようなものだ。
「この文は偽である」という文は、真であれば、
この文は偽であるから矛盾し、偽であれば、
この文は偽であることが真であるから矛盾する
というものだ。

この文をAとすると、「この文は偽である」という文は、
「¬」を否定の記号として、次のようになる。

…¬¬¬¬¬¬¬¬¬¬¬¬A

このAは真でも偽でもない。
Aと¬Aを永遠に繰り返す。
Aはただ空虚だろう。

しかし、よく考えてみると、ただのBという文は、
真でも偽でもない、空虚な文だ。

このAとBは何が異なるのだろうか。
どちらも空虚な文だろう。

それほど似ていないか。
どうだろうか。

2017年8月20日日曜日

何故宗教は怪しいと思われることがあるのか

宗教は怪しいように思う人がいると思う。
それは、やはり、お金がかかるからではないだろうか。
私の思う宗教はそのようなものではない。
宗教は人の思考に必ずあるものだと思っている。

しかし、宗教を持っていないと言う人も
いるかもしれない。
それはそうかもしれない。
それは他者である私には分からないことだ。
ただ、私は、人は必ず宗教を持っているように思う。

それは何かと言うと、
多分、仏教で言うところの「空」で、
一般的に言うと「神」だ。
それが、宗教だ。

これは、怪しいかもしれない。
しかし、お金はかからない。

宗教や仏教の「教」という語が良くないのかもしれない。
本当の宗教は教えられるものではないように思う。
本当の宗教はひとりで考えることだろう。

2017年8月19日土曜日

デカルトを疑う

Wikipediaより、デカルトの「方法序説」の言葉、
「私は考える、ゆえに私はある」

考える主体は疑いようがない、と言うが、
果たして本当だろうか。

感じる主体や無心の主体等もあり得るのではないか。
疑いようがないと言うよりも、必ず存在する主体は、
理性的主体だろうと私は思う。

「cogito ergo sum」の「ergo」は不要だと、
スピノザやカントは、デカルト自身でさえも、
考えたとWikipediaにあったが、私は必要だと思う。
「ゆえに」私はあるのだろう。
それは理性(reason)だ。
それは詩のようなものではないか。

多分、仏教に関して言えば、疑いようがないことは、
「無」や「空」だろう。
どちらが正しいかと言えば、
どちらも同じようなことなのかなと私は思う。
「cogito」は疑いようのない理性的主体で、
「無」や「空」だとも言えるということだ。

「私は考える、私はある」と
「私はある、私は考える」の
どちらが正しいのか、考えてみると、どちらも正しそうだが、
「私はある、私は考える」の方が正しいように思う。
そこが、私にとって、デカルトの言葉の分からないところだ。
「ある」ということは、「考える」ということに、
先行するように私は思う。
前者は正確には、
「私は考える、私はあると私は考える」だろうが、
これでも後者の方が正しいと思う。
「ある」ということは、「考える」ことに先行する
直観のように思う。

2017年8月18日金曜日

無宗教と語り得ないクオリア

無宗教の人は存在するだろうか。

私は、宗教、信仰は、人の思考に
必ず存在しているものだと考えている。

無宗教の人が存在することは、
クオリアのない人(哲学的ゾンビ)が
存在することのようにあり得ることだが、
無宗教の人が存在することは、
クオリアのない人が存在することのように
自然な考えではない。

クオリアのない人のように、
無宗教の人が存在することがあり得るのは、
主体は他者ではないからだ。

しかし、よく考えて見ると、クオリアのない人が、
宗教、信仰を持っていることはあり得るように思う。
機能的、心のない機械的な宗教、信仰というものが、
あり得るように思う。

そう考えて見ると、宗教、信仰を持つということは、
とても幅広いことのように思う。
それなしでは、心のない機械でさえも、
存在し得ないかもしれない。

クオリアについて語るとき、
赤を感じていないけれども、機能的に赤を感じているとか、
青を感じていないけれでも、機能的に青を感じているとか、
語り得る。

だから、クオリアがないけれでも、
機能的にクオリアがある、ということも語り得る。

どのようにしてもクオリアについて
語り得ないということは正しいことかもしれない。
単語にどのような意味を込めるかが問題だ。
マジックワードは存在しないのかもしれない。
それが意識のハードプロブレムの答えかもしれない。