2017年9月30日土曜日

最近小説を書いている 3

最近小説を書いているのだが、
辻褄合わせに四苦八苦している。
最初に設定したいたことを、
そのまま素直に考えていくと、
おかしなことが起こることが、
後になって解り、最初の方に書いたことを
修正する必要が出て来たりする。

私は、小説を結構だらだらと書き連ねていたのだが、
そうすると、後で読んだ時、
なくてもいいように思える部分がたくさんあり、
それを削ることになる。
そうすると、小説は思っていたより、
短いものになってしまい、
それが良かったことなのかどうか解らなくなる
というようなことがある。

私が小説を書いていて思うのは、
やはりプロットは大切だなということである。
私はプロットを短い小説、長いあらすじの
ようなものと考えていて、
そこから、自由に文章を挿入して、
小説を仕上げるという方法をとっている。
この方法だと、プロットの文章が、
最後まで、小説に残ることがほとんどなので、
プロットはとても大切なものになる。

2017年9月29日金曜日

自己愛 2

現代は、自己愛を捨てがたい時代のように思う。
いや、昔からそうなのかもしれない。
自分を愛することのできないものは、
他者を愛することもできない、というような、
自己愛を正当化する言説にも
一抹の真理があるようにも思う。
とは言え、私にとっては、自己というものは、
捨て去るべきものだという考えには変わりはない。

捨てられない自己愛とは何かというと、
それは満たされているということのように思う。
満たされているものは他者に対して
優しいようにも思う。
自己愛というものは、倫理的でもある。

それを自己愛と呼ぶかどうかが問題なのだろう。
自己は捨て去るべきだという考えには変わりはない。
それはあっても構わないことなのだが、なくても良い。

2017年9月28日木曜日

利他の精神とポピュリズム

利他の精神。これは大切である。
利他の精神がないと利己は実現しない。
そういう風に社会が出来ているように思う。

利他の精神。これがある者の方にお金や
力が集まってくるようにできているように思う。
利他の精神とポピュリズムとは紙一重かもしれない。
ポピュリズムは最大多数の利他だからである。

ポピュリズムが悪いことなのかと問われれば、
私は悪いことだと思うと答えるように思う。
選挙権を持つことの条件を大学卒業とかにすれば、
政治の質は高まるはずだと考えている。
立候補する側に条件を付けなくても、
投票する側に条件を付ければ、質の高い政治が
実施されるように思う。
立候補は自由である。しかし、投票の質が高い。
それが理想的な民主主義であるように思う。
そういう観点から言うと、立候補の年齢制限は
下げても良いように思う。
今の政治は、立候補に制限があり、
投票は無制限である。
これを逆にしてみようということである。

2017年9月27日水曜日

最近小説を書いている 2

最近小説を書いている。
これが2作目なので、小説の書き方について
多くを語れたものではないのだが、
少し語ってみたい。

1作目は、実験的にカットアップの手法を
用いて書いた。このブログにも掲載している。
2作目が、今書いている小説である。
この小説は、まずプロットと呼んでいる
小さな小説を書き、そこに物語を
肉付けしていって、小説に仕上げている。
特徴的なことは、プロットと呼ばれている部分が、
最終的な小説にも残っているということであろう。
これがいいことなのかどうかはまだわからない。
物語を肉付けしていく部分は、
コンピュータ(Mac)で書いているので、
プロットに自由に挿入して書いている。
物語は、書いては削り、書いては削るという
作業を繰り返して書いている。
そうして意味のある文章に仕上げている。
読む順番と書く順番が異なるので、
それが吉と出るか、凶と出るか、
わからないところである。

2017年9月26日火曜日

自己愛

自己愛。これを超えることができるだろうか。
そもそも超える必要があることなのだろうか。
philosophyは智を愛するということだっただろう。
そうだとすれば、それは自己愛のようなもの
ではないだろうか。

自己愛というと少しネガティブな
良くないことであるような印象がある。
なぜだろうか。それは愛というものは何よりも
他者への愛であるという印象があるからだろう。
だから、自己愛というとひねくれた一風
変わったものだという印象が生まれるのだろう。

しかし、それは愛というもののとらえかたで
変わることなのかもしれない。
真に超えるべきものは、自己愛というよりは、
愛なのかもしれない。

とは言え、愛とは何かということは、
むずかしい問題である。
何なんだろうな。愛って。
満たされているということだろうか。
そう考えるとマインドフルネスと
呼ばれていることも愛のようなもの
なのかもしれない。
そう考えると自己愛も悪いものでは
ないように少しは思える。

しかし、私には、自己というものは
少し悪い印象がある。
自己というものは、何というか
余分なもののように思える。
それは自己という漢字の成り立ちに
由来することなのかもしれない。
自己は捨て去るべきことのようにも思える。
それが笑いなのかもしれないな。

2017年9月25日月曜日

笑いと瞑想

笑いと瞑想には似たようなところがあるように思う。
笑うということは思えば不思議なことだ。
笑っている時、おもしろいところを伝える
もう一人の自分いるように思うことがある。
その自分というものは、自分であって、
自分ではないように思う。
どういうことかというと、それは、
いつも存在しているようで、しかし、
直接的に意思決定をする訳ではないという
ということである。

そして、このことも不思議なのだが、
笑っている時、笑われているもう一人の
自分がいるように思うことがある。
笑いというものは、そのように、
自己完結的なところがあるように思う。
だから、平和的なのだと。

誰か他者を笑うということは、
子供のような笑いであって、
いつまでもしていて楽しいものでは
ないように思う。
とは言え、時にはそういうことも
あっていいように思うが。
笑うという行為にはどこか子供じみた
ところがあるように思うからである。

このように笑いについて分析していると、
笑いというものは瞑想に近いところが、
あるように思えてくる。
どういうことかと言うと、
笑っている時、笑われているもう一人の
自分を笑う訳であるが、
そこに到達することが、瞑想することと
近いところがあるように思うということである。
だから、笑いとは言っても、
高度だと言われているような笑いの方が
良いことであるように思う。
というよりも、瞑想に近いような笑いが
高度だと言っても良いのかもしれない。

2017年9月24日日曜日

小説を読む

僕は小説を書いていたりするのだけれども、
小説を読んだ経験が少ないので、
もっと小説を読んだ方がいいのかなと思っている。

現代の作家では、どのような小説が
おすすめなのだろうか。
僕はMacを使っているが、
iBooksというアプリケーションを使えば、
著作権の切れた作品は、
無料で公開されていることがある。
以前、夏目漱石の「こころ」を読んだのは、
iBooksを使ってのことだった。
iBooksは便利なアプリケーションである。

僕が今興味を持っているのは、
上遠野浩平という作家の
「ブギーポップは笑わない」という作品だ。
1998年の作品だから結構古い。
有名な作家らしいが僕が知ったのは最近のことだ。
それくらい小説は読んでいない。
iBooksでサンプルを読んでみたのだが、
おもしろかったので購入しようと思っている。

現代で他におもしろい作家と言えば、
西尾維新だとかになるのだろうか。
どちらもライトノベル寄りの作家にはなるが。
西尾維新は立ち読みで何冊か読んだのだが、
そのときは興味を持てなかった。
西尾維新の作品の多くはシリーズ化されていて
巻数が多いので少し取っ付きにくい。
これは上遠野浩平の作品にも言えることかもしれないが。
ただ、「ブギーポップは笑わない」は、
一巻で完結した内容を持っていると聞いている。
それも興味を持った理由だ。

2017年9月23日土曜日

最近小説を書いている

最近小説を書いている。
人物描写がむずかしい。
情景描写がむずかしい。
世界設定がむずかしい。
むずかしいことばかりだ。
慣れもあるのだろうが、私は慣れていない。
私が小説を書くとどうしてもエッセイのような
文章になりがちである。

小説の文体というものを
まだ掴んでいないように思う。
どうしたら上手い小説を書けるのかも
まだわかっていない。
とにかく数をこなすしかないのかもしれない。
数をこなすと言っても良質なものを
書きたいので、そこがむずかしいところだ。

そもそも僕は小説というものを
あまり読まない方なので、
小説を読むという経験にも乏しい。
僕が思うのは、明治の文豪の小説よりも
最近の小説家のライトノベルの方が
読みやすくておもしろそうだということだ。
とは言え、僕はライトノベルも
ほとんど読んだことはないのだが。
この間、夏目漱石の「こころ」を読んだのだが、
あまりおもしろいとは思わなかった。
小説家の技術は進歩しているように思う。
これは単純に好みの問題かもしれないが。

2017年9月22日金曜日

マインドフルネスについての考察

マインドフルネスとは、「今の瞬間」の現実に常に
気づきを向け、その現実をあるがままに知覚し、それに対する
思考や感情にとらわれないでいる心の持ち方である。
以上は、下記ウェブサイトから引用した。
http://www.nhk.or.jp/special/stress/02.html

これはどうだろう、瞑想にも似ているように思うが、
スポーツ選手などに向いているのではないだろうか。
なんとなくだけれども、野球のイチロー選手などの心境が
このようなものではないだろうかと思った。
ということで、「マインドフルネス スポーツ」で
Googleで検索してみるとたくさんページが出てきた。
個人的にはスポーツにはそれほど興味がないので、
説明は割愛したいと思う。

という訳で最初の文章に戻るけれども、
もう一つ私が思ったのは、クオリアの議論や
フッサールのエポケーに似ているな
ということだった。
流行というものは、同じ様なことが、
様々な場所で現れるものなのかもしれない。

知覚に対する思考や感情にとらわれないこと。
これはどうだろうか。
とらわれるというとネガティブな印象を受けるが、
知覚に対する思考や感情にも良いものが
あるようにも思うのだがどうだろうか。
だから、スポーツに向いていると思ったのだが。

「今の瞬間」の現実に常に気づきを向けること。
これが大切なことだということは、分かるように思う。
このことをマインドフルネスと表現するのは、
おもしろいことだと思ったし、同時に、
少し率直過ぎておもしろくないことだとも思った。

どちらにしても名前より内容の方が重要だろう。
私が思うのは、大切なことは、知覚に対する思考や感情に
とらわれないことではなくて、それを判断すること
だということだ。その思考や感情を、時には捨て、
時には評価することが大切なことではないだろうか。

2017年9月21日木曜日

ゼロ年代というものとポストモダン

一部ではゼロ年代というものがあったらしいが、
私は、ゼロ年代は文化を年代で語ることが、
終わった時代だと思っている。

それでもあえてゼロ年代を特色付けるならば、
ゼロ年代は多様性の時代だったと私は思う。

失われた10年とか20年とかは、
幾分、経済主義的な見方であまり好きではない。

ゼロ年代は漫画、アニメ、ゲームなどの文化が
多様化した時代で、新しいものが生まれた時代だと言うよりは、
収穫の時代だったと言っても良いだろうと思う。
とは言え、私はそれほど日本の文化に詳しくはないので、
偉そうに語れたものではないが。

しかし、クールジャパンという言葉は、
あまり格好良くはないな。
ゼロ年代という言葉も同じ香りがする。

現代がポストモダンだという言説はあまり信じない。
意味不明瞭だし、どの時代にもモダンとポストモダンの両方が
あるように思うからである。
それに、人間の本質はそれほど変わらないだろうと
素朴に考えるからである。

ポストモダンって要するに「あさって」のことだろう。
それだとよくわかる。

2017年9月20日水曜日

笑いの全体主義

笑いの全体主義、言い換えれば笑いのファシズム、とでも
言うべき状況は大分以前からやってきているように思う。
それは、人はおもしろくなければいけない、
人はユーモアを持たなければいけない、
という状況、風潮のことである。

良きユーモアは全体主義、ファシズムを否定する力が
あるようにも思うが、そうではないユーモアもあるだろう。

ユーモアを持つということに比べて、
おもしろくなければいけないということは動物的であり、
非知的なニュアンスがあるように思う。
そういう観点からすると、人はおもしろくなければいけない
という状況、風潮はより危険だろうと思う。

人はユーモアを持たなければいけないということは、
幾分アイロニカルな状況をつくるように思う。
アイロニーは簡単なユーモアだと思うからである。

笑いの全体主義、笑いのファシズム
とでも言うべき状況においては、
良き笑い、良きユーモアを実践することが大切になると思う。

大阪などにおいては、笑いは重要な文化らしいから、
そのことはより大切なことになるだろうと思う。

良き笑い、良きユーモアとは悪しきものを
笑い、退かせるものだろう。そのような素朴な良き笑い、
良きユーモアを実践できるかどうかについては
少し懐疑的ではあるが、理想的ではある。

2017年9月19日火曜日

夢と現実

何故人は眠っている時、夢を見るのだろうか。
それは、多分、夢をつくり、
それを見せている自分がいるからだ。
それでは、何故人は眠っている時、
夢をつくり、もう一人の自分に
夢を見せているのだろうか。

また、何故人は起きている時に、
夢を見ないのだろうか。
白昼夢という言葉があるが、
起きている時に夢を見たことのある
人はいるのだろうか。
多分、私は、起きている時に、
夢を見たことはないと思う。

夢は現実と本質を同じくするのだろうか。
起きている時は、現実が存在するので、
もう一つの現実である
夢を見ないということだろうか。

あるいは、起きている時に見る夢が
現実だということだろうか。

2017年9月18日月曜日

夢を批評する自分と夢をつくる自分

眠って夢を見ている時、
夢を見ている自分とは別にもう一人、
それを批評している自分がいるような気がしている。
それどころか、さらにもう一人、
批評している自分と相談して夢をつくっている
自分がいるような気がしている。

不思議な感覚だ。

例を使って、夢について書こうと思っていたけれども、
僕は、大抵の夢は起きると忘れてしまう。
今日も、夢を見ていたのだが、
この文章を書く時には、忘れてしまっていた。

しかし、上述のことと、
夢に色がついていたことは覚えている。
そうではないかもしれないが、
夢は瞼の裏に描かれるものだから、
薄く灰色がかっているように思う。