2017年10月31日火曜日

知恵を愛する者

知恵を愛する者(哲学者)という言葉が、プラトン、ソクラテスの思想にはあるけれども、ぼくは、知恵を愛する者(哲学者)なのであろうか。あるいは、そういう者になりたいのであろうか。自問してみたい。

プラトンの記すソクラテスの思想には、徳、善、美、真理、知恵という言葉はよく登場するように思うが、愛という言葉はあまり登場しないように思う。しかし、知恵を愛する者(哲学者)という言葉によって、決定的に登場している。

ぼくが、プラトン、ソクラテスの意味で、知恵を愛する者(哲学者)になると言うことは、それなりの転向を示すということになるように思う。ぼくが、今のぼくの知る限り、プラトン、ソクラテスの思想で最も魅力的に思うのは、魂と肉体の二分論があり、魂は、徳、善、美などの真の知恵を求めているというものである。これは大分大雑把な論説ではあるように思うが、ぼくは、そう理解している。これが、かのプラトニズムというものであろうか。いや、どちらかと言うと、ソクラテス的なのかもしれない。

知恵を愛する者(哲学者)に転向しようかなという思いはある。何から転向することになるのかもはっきりとは解らないのではあるが。探求者であろうか。原義的には、ほとんど同じようなことかもなのしれない。探求者という言葉は結構好きだ。知恵を愛する者(哲学者)ではなく、ギリシア語は知らないのではあるが、philosopherと英語で言えば、幾分説得力が増すようにも思う。

転向とはいかないまでも、プラトン、ソクラテスの思想から、かなりの影響を受けたのは確かではある。もっと早くに、読んでおいた方が良かったのかもしれない。いや、しかし、興味のあるときに読むという方法も、間違った方法であるようには思わない。

2017年10月30日月曜日

プラトン著「パイドン」

プラトン著「パイドン」を読み進めている。サブタイトルは「魂の不死について」である。176ページ中、70ページ程度読み進めた。ソクラテスが、魂と肉体の二元論を説いているところが、印象に残った。次に引用する。

「では、死とは、魂の肉体からの分離に他ならないのではないか。すなわち、一方では、肉体が魂から分離されてそれ自身だけとなり、他方では、魂が肉体から分離されてそれ自身単独に存在していること、これが死んでいる、ということではないか。死とは、これ以外のなにか他のものでありうるだろうか」

脳は肉体であるか、ソクラテスに問うたら、どう答えるであろうか。やはり、肉体であろうか。自明なことであろうか。

そして、ソクラテスは、正しく哲学している人々は死ぬことの練習をしているのだと言う。そして次のように言う。引用する。

「あの世へ着けば、一方では、生涯を通して憧れつづけてきたもの、知恵、を得るという希望があり、他方では、争いつづけてきたものと一緒にいることから解放されるというのに、あの世へ行くのを喜ばないなんて」

知恵を愛する者(哲学者)は、だから、死を恐れないのだと。このことは知識の想起説とも関係するらしい。

そして、ソクラテスは、反対物は互いを生成すると言う。生と死もこれにあたるということである。次に引用する。

「分離すると結合するとか、冷たくなると熱くなるとか、すべてこういうものは、たとえある場合にはわれわれは言葉を用いないとしても、たしかに現実においてはあらゆるところで必ず次のような事情にあるのではないか。つまり、それらの反対物は相互から生成し、それぞれが互いに他方へ生成する、ということだ」

なんだか太極図のような話ではある。反対物は互いを生成するということは、本当のことであろうか。私には、まだ得心しないところがあるように思う。

2017年10月29日日曜日

プラトン著「メノン」 3

プラトン著「メノン」を読み終えた。徳は教えられるものであることは、徳は知識であるということが仮設として必要であり、徳のある人物とは、われわれの行為を正しく導く人物であるということであった。そして、次のことが結論された。引用する。

「行為の正しさということに観点をおくなら、正しい思わくは、導き手として『知』に何ら劣るものではないことになる。そしてこの点こそ、われわれがさっき、徳とはいかなるものかを考察するにあたって、見のがしていたことなのだ。われわれは、正しい行為を導くのはただ『知』だけだと言っていたのだから。実際にはしかし、正しい思わくもまたそうだったのだ」

そして、最後に、次のように結論される。引用する。

「徳というものは、もし徳が誰かにそなわるとすれば、それは明らかに、神の恵みによってそなわるのだということになる。しかしながら、これについてほんとうに明確なことは、いかにして徳が人間にそなわるようになるかということよりも先に、徳それ自体はそもそも何であるかという問を手がけてこそ、はじめてわれわれは知ることができるだろう」

ということで、いかにして徳が人間にそなわるようになるかということは、明らかにはなったが、徳それ自体はそもそも何であるかということは、本書では、明らかにはならなかった。

問題は、徳は知識であるかということである。徳は教えられないという本書の結論からは、徳は知識ではなく正しい思わくであるということになる。しかし、徳は教えられないということは、いくつかの例から示されたことであり、はっきりとした真実ではない。だから、徳は知識であるということは、まだあり得ることなのである。しかし、本書の議論の範囲内では、徳は正しい思わくであり、知識ではないということである。

2017年10月28日土曜日

象徴天皇制の廃止

象徴天皇制は全体主義的だと思うのだ、僕は。象徴天皇制には何か居心地の悪さを感じていて、それを言語化すると、全体主義という言葉に突き当たる。日本国の象徴はいくつあっても良いように思う。それを憲法で、一つ制定するということは自然な行為ではないように思う。ましてや、日本国民統合の象徴などは要らない。

中には、天皇制を廃止しようという考え方もあるようではあるが、僕はそれには賛成しない。僕は、歴史というものは大切であるように思う。皇室は存続して、象徴天皇制に代わる新しい天皇制を作るべきだという意見である。特に、憲法の第一章に記述されているという現状は変えた方が良いように思う。そして、象徴に関する記述はなしにした方が良いように思う。

象徴天皇制を廃止して残るのは、いくつかの伝統的な儀式と元号だけのように思う。歴史を大切にするという観点からは、それくらいで良いのではないかと思う。

天皇も一国民として、当然、人として扱われるということである。天皇の神格化は、個人的には、論外である。それは、第二次世界大戦の一時期にだけ特に行われた教育であり、歴史的な事実とは言えないように思う。

象徴天皇制の廃止には、東京の一極集中を防ぐという効果もあるように思う。何しろあのようなところに皇居があるのであるから。官僚が喜びそうなことではある。あまり精神衛生上好ましくないように思う。東京の一極集中はつまらないと思う。象徴天皇制を廃止するのであれば、天皇の居住地は天皇が決めて良いであろう。京都でも大阪でも良い。京都に新しい御所を作っても良いのではないだろうか。

2017年10月27日金曜日

憲法改正案

憲法改正について最近、議論がなされているようなので、私の考えも書いておきたい。以前も一度書いたことがあるのだが、自衛隊は、現在の憲法の下では、違憲であるように思う。だから、自衛隊が合憲になるように憲法第二章を改正する必要がある。これが一つである。

もう一つは、天皇のことを記した憲法第一章である。私は、天皇が日本国の象徴であるとか、さらにもっと言えば、日本国民統合の象徴であるとか、そういったことは、明治維新の理念を継ぐものではあるが、実際のところ、明治維新後の東京政府が相次ぐ戦争と敗戦の一番の原因であるように思うので、捨て去ってしまって構わないように思う。昨日にも書いたが、首都機能は京都に移転して良いように思っている。憲法第一章は大幅に改定して良いように思う。

どのようにしたら良いかであるが、象徴天皇制はまず廃止して、天皇が行う国事もほとんどなしにして良いのではないかと思う。必要のある伝統的な儀式などについては継続して良いように思うが、憲法に記さなくても良いように思う。憲法に記すとしても、第一章ではなくて、後の方で良いのではないかと思う。

2017年10月26日木曜日

大阪府を都にすることよりもすべての都府県道を府にすること

大阪都構想の一つの目的は名称を大阪府から大阪都に変更することにあるように思う。もともと東京都も東京府だったのだから、大阪府も京都府も都に変更しても良いように思う。私が問題にしているのは、行政自体の問題ではない。名称の問題である。行政区はそのままでもいいし、変更してもいいように思う。私は、そのような行政の問題には詳しくないので、識者が決めてほしいように思う。いつか調べてみたい問題ではある。

しかし、京都府が都になると、京都都と、名称は困ったことになるように思う。実際のところ、東京都という名称に問題があったように思う。言い方は悪いが、東京都という名称は京都という名称の剽窃であろう。だから、大阪府と京都府を都にするよりは、東京都を東京府にすることの方が現実的であるように思う。

自治体に格があるという考え方は、私は古いように思う。だから、大阪府と京都府を都にするか、東京都を府にするかが良いように思う。現時的であるのは、東京都を府にすることであろう。日本の首都は京都であるという説もあるというのに、東京都という名称は場違いであろう。

そして、さらにそれを押し進めて、現在のすべての県と道も府にしてしまえば良いのではないかと思っている。私は都道府県という言葉は官僚的だと思うので使わないが、すべての都府県道を府にすれば、平等で良いのではないかと思っている。地方という言葉も同様の理由で使わない。すべての都府県道を府にすることは、地域の活性化という方針にも合うのではないかと思う。

私としては、大阪府は府という名称に誇りを持って、がんばってほしいと思っている。大阪都という名称は、京都府が残されるという問題がある。東京の都なんぞは京都の剽窃に過ぎない。首都は京都であるという説もあるくらいだから、大阪府の自治体は、近畿や畿内の文化に誇りを持って、他の地域へその魅力が伝わるようにしていってほしいように思う。

実際のところ、東京都は敗戦の責任を取って、首都機能を京都府に移した方が良かったのではないかと私は思う。軍事都市であった江戸よりも、文化都市であった京都の方が、平和憲法の下では首都にふさわしいのではないかと思う。明治維新の一番の間違いは首都機能を江戸に構築したことであろうと思う。今からでも、京都府に首都機能の移転をすれば良いのではないかと思う。

2017年10月25日水曜日

子供は共同体が育てる

子供は共同体が育てる。いつかそういう時代が来るような気がしている。子供が生まれたら、その時点で、子供は両親の元を離れ、寮のようなところに入る。だから、産みの親はあっても、育ての親はない。あるいは、育ての親は共同体である。義務教育の終了まで、子供は共同体に育てられる。だから、生まれによって教育の差はないし、教育に関してはまったく平等な機会が与えられる。

これは、一つの少子化対策でもある。共同体が子供を育てるのであれば、安心して親は子供を産むことができるからである。また、安心して親が子供を産めるように、共同体はその養育、教育システムをつくらなければならない。共同体が子供を育てるということは、ある種の倫理と合理性によるもので、少子化対策は二次的な結果ではある。社会主義的だと思われるかもしれないが、実際にある種の社会主義でもあるように思う。いじめなどの問題も当然減少するように思う。相続は廃止される。相続は贈与に相当することになる。習慣として、相続するということは減少するように思う。

このような養育、教育システムが実現するのはいつのことになるだろうか。百年先、二百年先かもしれない。しかし、私は、このようなシステムは合理的だと思うので、いつか実現することなのではないかと思う。

2017年10月24日火曜日

ソクラテスとダイモニオン、そして神について

ダイモーンとは、Wikipediaによると、「人間と神々の中間に位置する、あるいは善性あるいは悪性の超自然的存在で、下位の神格や死んだ英雄の霊など」のことである。和訳例は、「鬼神」、「神霊」、「精霊」。ダイモニオンとは「ダイモーン的なもの」を意味し、プラトンの描くソクラテスでは、ダイモニオンがダイモーンだとはまったく述べていないらしい。ソクラテスには、ダイモニオンの声が聴こえることがあり、「ソクラテスの弁明」には次のように記されている。

「これはすでに私の幼年時代に始まったもので、衷に一種の声が聴こえて来るのである。そうしてそれがきこえるときには、それはいつも私の為さんとするところを諫止するが、決して催進することをしない」

ダイモニオンの声は、何かをするとき、その肯定的なことを伝えるのではなくて、その否定的なことを伝えるということである。だから、ダイモニオンの声は、本質的に節制的であり、倫理的であるように思う。

私にとって、いや、おそらく私に限らず、ソクラテスの神秘的なところは、このダイモニオンと想起説なのであろうと思うのだが、このダイモニオンは想起説に比べると受け入れ易いように思う。しかし、人によるのかもしれない。

想起説は、魂にはすべての知識があり、新しい知識を得るということは、想起するということだというものである。これは、魂は一つということになるであろうし、現在の魂には、正しいとも正しくないとも証明されることはないように思う。それこそ、ダイモニオンの力なくしては。

ダイモニオンにも同じような問題があるように思う。それは、仮に何らかの声が聴こえたとしても、それがダイモニオンであるかどうか、どのようにして解るのかという問題である。私の知る限りでは、プラトンの著書では、ダイモニオンの声については、断定的に語られるのみであり、そのことについては語られていない。声の種類に差異があるのかもしれない。

しかし、それでも私には、ダイモニオンの声はあり得ることのように思う。ソクラテスが嘘を付いているようには思わないし、それくらいのことはあっても驚かない。想起説は、本質的に人間の知の限界を超えているようにも思えるが、ダイモニオンの声は、そうではない。よりあり得ることのように思う。

私は、ダイモニオンという言葉は使わないが、神の声が聞こえるように思うことはある。私にとって、神とは唯一にしてすべてであり、捉え切れないものである。だから、唯一にしてすべてであるということ自体、間違いであるということもあり得る。神とは、あるいは、そのような探求の行為を示すための言葉である。だから、私にとっては、神とは、本質的に、とてもメタな言語であるように思う。

神には、もう一つ、意味があるように思う。それは、ソクラテスの言うように、徴を与えてくれるものという意味である。これは、徴というものがまずあって、それに主体性を与えるというものである。だから、この意味での神は、徴というものが一次的であって、その主体性である神は二次的なものである。このような神は、いるかいないかということは本質的に仮定的であるように思う。そのことは、最初の意味の神と同じであるように思う。

2017年10月23日月曜日

プラトン著「メノン」 2

プラトン著「メノン」を読んでいる。70ページ程度まで読み進めた。ここまでで気に掛かったところは、メノンのパラドックスと呼ばれているものである。メノンのパラドックスとは次のようなものである。以下に引用する。

「人間は、自分が知っているものも知らないものも、これを探求することはできない。というのは、まず、知っているものを探求するということはありえないだろう。なぜなら、知っているのだし、ひいてはその人には探求の必要がまったくないわけだから。また、知らないものを探求するということもありえないだろう。なぜならその場合は、何を探求すべきかということも知らないはずだから」

これに対して、ソクラテスは想起という概念を用いて答える。ソクラテスによれば、魂は不死であり、魂がすでに学んでしまっていないようなものは、何ひとつとしてなく、もし人が勇気を持ち、探求に倦むことがなければ、徳についても、その他いろいろの事柄についても、それを想起できる。ソクラテスはそう信じていると。

このソクラテス、あるいはプラトンの想起説は不思議と言えば、不思議であろう。誰にでも了承されるというようなものではないように思う。メノンは、ソクラテスとメノンの召使との対話を見ることによって、了承したようではある。私は、まったく了承したということはない。正直なところ、そういうこともあるのかもしれないなという程度である。

メノンのパラドックスについて、私なりの答えを考えておきたい。知っているものを探求する必要がないということはその通りだと思う。問題は、知らないものを探求するということはありえないことであるかどうかであろう。私としては、知らないものを探求するということはありえることであるように思う。知らないことであるから、確かに、探求している最中に、どの程度答えに近付いているかなどを測ることはできない。しかし、偶然、探求が答えに近付いていくということはありえることなのではないかと思う。そして、偶然、答えを手にするということも。

数学の証明などは、知らないことを探求する良い例なのではないかと思う。その答えは知らないが、一般的な答えを知っているということもある。一般的な答えをいくつか知っているが、その組み合わせ方は知らないということもある。そこに探求する可能性があるように思う。

2017年10月22日日曜日

プラトン著「メノン」

プラトン著「メノン」を読んでいる。徳は教えられるかというメノンの問いに対して、ソクラテスはそもそも徳とは何かを知らないと言う。そして、メノンに徳とは何かを知っているかと問う。それに対して、メノンは徳というものの種類を挙げる。男の徳、女の徳、子供の徳、年配の者の徳、自由人の徳、召使の徳など。正義、勇気、節制、知恵、度量の大きさなど。

しかし、ソクラテスは、それらの徳はすべて、ある一つの同じ相を持っているはずだと言う。そこに注目し、「まさに徳であるところのもの」を質問者に対して明らかにするのが、答え手としての正しいやり方であるべきだと言う。

しかし、果たしてそうだろうか。例えば、色とは何かについて理解するためには、色の種類を理解しなければならないだろうし、徳についても同じことが言えるのではないだろうか。まだ20ページ程度しか読んでいないけれども、とりあえず気になったところ。

2017年10月21日土曜日

ソクラテスは変人か

ソクラテスは変人か。僕は少しそう思っている。とは言え、もう少し本を読んでみないとはっきりしたことは言えないのだが。さらに、ソクラテスのことが記されている本は、プラトンなどによる間接的なものしかないのだが。

ソクラテスのどのあたりが変かと言うと、まず、議論を吹っ掛けるのが好きなところである。とにかくソクラテスは議論を吹っ掛ける。「クリトン」では死の直前であるのにも関わらず、クリトンに議論を吹っ掛けていた。それくらい好きである。

次に、ソクラテスの自身は知者ではないという立場である。自身は、知らないということを知っているという。それもまた、知なのではないか。よく解らない。何かがおかしい。そして、知者ではないという割には、雄弁である。知者ではない者は、普通、寡黙ではないのか。それがよく解らない。おかしなところである。ソクラテスには、沈黙の美徳というものがないようである。

すべては、デルフォイの神託の所為であるように思う。それで、ソクラテスの人生はすっかり変わってしまったようだ。神託の力は、ものすごいものである。その神託は正しいと仮定して、考えられたことが無知の知なのだから。ソクラテスのその敬虔さも不思議である。

かつての日本では、ソクラテスのような人間は、出家していたのではないかと思う。世間とは、合わないから、合わせる必要もないと。出家とは便利な制度である。現在では、流行らないようではあるが。ソクラテスと僧侶は、宗教が異なるだけで、同じような人たちなのかもしれないなと思う。

2017年10月20日金曜日

知識とは何か

知識とは何か。知識とは、以前にも書いたが、事物の抽象化の体系のように思う。例えば、木であれば、個物である木を何本も感覚して、そこから一般的な木というものが抽象化されるわけである。葉にしても、枝にしても、根にしても同様である。緑色や茶色なども同様であろう。

また、数字の足し算のように、抽象化された物の抽象的操作も知識と言い得る。この抽象的操作は、実際に様々な場面で現れるのであるが、足し算は個物から抽象化されるものと言うよりは、始まりはそうかもしれないが、抽象的思考によって知識となるように思う。

私の考えと、テアイテトスの言う3つの知識とはどれも異なる。私の考えでは、知識は真なるものに限らず、端的にあるということがその要件である。だから、空想されたことであっても、それは知識と言い得る。

Wikipediaでは、知識の一つの定義として、「知識とは正当化された真なる信念である」というものが提示されていたが、これは私には不服である。これだとテアイテトスの言う知識とほとんど変わらないように思うのだが、どうであろうか。

2017年10月19日木曜日

ソクラテスの印象

プラトン著「ソクラテスの弁明・クリトン」、同じくプラトン著「テアイテトス」を読んで、プラトンの著作を読んだのはこれが初めてなのであるが、ソクラテスの印象が大分変わった。

これまでのソクラテスの印象は、無知の知のある者ということで、寡黙な人物なのかなと思っていたが、どの本に出てくるソクラテスもとても雄弁であった。これでは、ソフィストとフィロソファーの異なりがよく解らないと思った。

ソクラテス自身は、自らに知識はない、しかしその知識のないことは知っているという立場なのだが、そうは見えない。どの本を読んでみても、ソクラテスには知識があるようにしか見えなかった。とは言え、2冊しか読んでいないので、他の本も読んでみて考えてみたいとは思っている。

「テアイテトス」では、ソクラテスはテアイテトスに対して、3度、産婆術を試みるのであるが、そのどれもが失敗に終わっている。元はと言えば、産婆術のことを知りたくて「テアイテトス」を読んだので、空振りに終わった感はある。しかし、これほどのページ数を費やさなくても、可能な議論であったように思うのだが。

2017年10月18日水曜日

プラトン著「テアイテトス」 6

プラトン著「テアイテトス」を最後まで読み進めた。知識とは何かについてのテアイテトスの第1の説「知識とは感覚である」は、173ページで否定された。有とか真とかは、感覚器官ではなくて、心が捉えることだと。

そして、174ページにて、知識とは何かについてのテアイテトスの第2の説「知識とは真なる思いなしである」が提出された。この説は、229ページにて、裁判官は知識がなくても正しい思いなしができるとして否定された。第1の説に比べると、その否定は早かった。それでも、結構な量の議論が交わされていた。

そして、229ページにて、知識とは何かについてのテアイテトスの第3の説「知識とは真なる思いなしに言論を加えたもの」が提出された。この言論というものは、真なる思いなしを証明するようなものだと考えられるが、それを知っているということはすでに知識を持っていることになるので、この説は否定されるということのようである。

全体的に、この本はむずかしい本だった。知識とは何かという議論は、現代の哲学にも通じるものがあると思うし、意義深いのかもしれない。

2017年10月17日火曜日

習慣を脱する

習慣を脱すること。人は過去の自分を肯定したいような気になるものだ。それが習慣であろう。習慣を脱するということは、過去の自分を否定するということである。そのためにはアイデアが必要であろう。何か、考えなければならない。新しいアイデアが必要である。それが新しい習慣を作るであろう。その習慣をも脱したいということもあるであろう。それは、同じことの繰り返しである。過去の自分を否定すること。

新しい習慣をも否定すること。何もすべての習慣を否定する必要はないであろう。例えば、歩くことである。もっと良い歩き方というものもあるのかもしれないが、歩き方というものはほとんど完成されているであろう。

類義語事典などが使えるのかもしれない。あるいは、自分で類義語を考えても良い。使うことが習慣になっている言葉を改めるのに、そうすることが良いのかもしれない。間違いは正した方が良い。正確ではなかったことは正確にした方が良い。一般的な言葉で置き換えた方が適切なのであれば、そうした方が良い。

2017年10月16日月曜日

プラトン著「テアイテトス」 5

プラトン著「テアイテトス」を読み進めているのであるが、かなり退屈である。これが講義であれば、完全に寝ていた。時間がなかったこともあるが、昨日から10ページ程度しか読み進められていない。

本文では、知識とは思いなしの真なるものであるかという対話をしているはずなのであるが、相変わらず寄り道が多過ぎて、肝心なところはあまり進んでいないように思う。

知識とは思いなしの真であるかどうかについては、2日前の記事にすでに書いた。その考えはまだ変わっていないし、付け足すこともあまりないだろう。空想的知識は、真でも偽でもないのではないかということであった。だから、真ではない知識はあり得るのではないかということであった。あえて言えば、フィクションは偽であろうか。

2017年10月15日日曜日

プラトン著「テアイテトス」 4

プラトン著「テアイテトス」を読み進めているのであるが、現在、180ページ程度まで読み進めた。昨日も書いた通り、知識と感覚とは異なるということが、やっと、173ページで明らかになった。ここまで長かった。いくつも議論に寄り道があった。全体が267ページだから、およそ7割と言ったところか。

本書によると、知識が感覚と異なるというのは次のような理由によってである。感覚は感覚器官を通して得られるもので、有、似ている、似ていない、同じ、異なる、美、醜、善、悪などは、感覚器官では到達できない。それらは心が到達できるものである。あるということにも到達できないのだから、まして、真というものには到達できない。だから、知識は感覚とは異なる。

これだけの結論を得るのに、寄り道はあるが、173ページもかかるのだから大したものだ。ソクラテスは私が高校生の頃に抱いていたイメージと比較すると、すごく雄弁である。ソクラテスは自らに知識はないと言うが、とてもそうは見えない。無知の知のことは置いておくとしても、ソクラテスは知者であるように思う。

2017年10月14日土曜日

プラトン著「テアイテトス」 3

プラトン著「テアイテトス」を読み進めているのであるが、昨日から30ページ程度、140ページまでしか読み進めることはできなかった。本文は、知識とは感覚であるか否か、という当初の議論からかなり脱線しているように思う。正直に言うと、少し退屈であるように思う。この本を読んでいると、ソクラテスといわゆるソフィストの異なりがよく解らなくなってくるのであるが、どうであろうか。

ページを先にめくってみると、173ページで、テアイテトスが「今こそ知識が感覚と異なるものだということは、この上なく明瞭になったわけです」と言うところがある。長かった議論であるが、現在のページからあと30ページ程度のところで、知識とは感覚であるということが否定されるわけである。知識とは感覚であるという言説に代わって、173ページから174ページにかけて、知識とは思いなしの真なるものであるという新しい言説が現れる。今度は、この言説に対して対話がなされるというわけである。

知識とは思いなしの真なるものである。これは正しいだろうか。まず私に気にかかるのが、「思いなし」と「思い」との異なりは何であろうかということである。簡単に本文を調べてみたが、それについて書かれてある部分は見つからなかった。だから、このことは置いておく。

思いなしていて、それが真であれば、それは知識なのであろうか。思いなしは動的なものであり、知識は静的なものであるように思うのだが、どうであろうか。仮にそのことは置いておくとしても、例えば、竜が飛んでいるということを思いなしているとき、それが真であるとか、偽であるとかいうことを語り得るのであろうか。しかし、唯の空想であっても、それは知識だと言い得るのではないかと思う。だから、思いなしが知識であるために、真であるという条件は厳し過ぎるように思う。

2017年10月13日金曜日

プラトン著「テアイテトス」 2

プラトン著「テアイテトス」を読み進めているのであるが、まだ、あまり読み進められてはいない。まだ序盤なのであるが、そこで行われているのは、テアイテトスの知識は感覚(感受)であるというテアイテトスの説に対しての、ソクラテスによる産婆術、反駁である。まだ、110ページ程度しか読んでいないのだが、今のところ大したことは書かれていないように思う。知識は感覚(感受)であるという考えはやや退屈ではある。

昨日、私は、知識とは、物の抽象化のことであるかもしれないと記した。正確には、物の抽象化の体系と言った方が良いのかもしれない。そのようなことについては何も触れられてはいない。このことについては、今後も考えていきたいと思っている。

知識は感覚(感受)であるということの産婆術は、まだ続けられている最中であり、感想を述べることはむずかしい。それでも、あえて、知識とは感覚(感受)であるということに、感想を付け加えるのであれば、知識には感覚(感受)が必要であろうけれども、知識とは感覚(感受)それ自体とは異なるであろうということである。

確かに、純粋な感覚(感受)は知識と似ている。白いとか大きいとかがそうである。しかし、私の説では、そのような知識は、物の抽象化によって得られるものである。本来の感覚(感受)はもっと混沌としているであろう。そのことを持って、知識とは感覚(感受)であるということは、おかしなことであるように思う。そのような感覚(感受)はすでに、そして暗に、抽象化されたものなのではないかと思う。

2017年10月12日木曜日

プラトン著「テアイテトス」

プラトン著「テアイテトス」を読んでいる。この本には、知識についてというサブタイトルが付いている。同じプラトン著「ソクラテスの弁明」と比べると、文章はやさしいのだが、内容はむずかしいように思う。解説と訳注を除くと、全体で267ページで、現在読み終えたのは、70ページくらいである。

ここまでの部分で、主な内容は、知識とは何かというソクラテスとテアイテトスの議論である。おそらくこれは終盤まで続くように思う。また、ソクラテスによる産婆術の説明があって、その産婆術によって、テアイテトスが知恵を生み出そうとしている。そういう内容である。

ぼくは、その産婆術のことが説明されているという理由から、この本に惹かれて購入した。知識とは何かということに興味があった訳ではない。産婆術とは、ソクラテス自身には知恵はなく、ソクラテスが、真なるものと偽なるものの精査を行い、相手が知恵を生み出すことを助けるということのようである。しかし、解ったような解らないような説明ではあると思う。

知識とは何かという議論において、現在のところ、テアイテトスから提出されている考えは、知識とは感覚(感受)であるということである。ただし、訳注によると、感覚(感受)の原語には、ものの感じがある、覚えがあるというだけでなく、感得する、見てとる(看取)、認知するの意味もあるので、すぐに「知る」に結びつくことができるということである。

知識とは何かという問いは私にはむずかしい。まず、思い付くのは、知識には外延と内包があるということだろうか。簡単に言って、外延とは物の集まりのことで、内包とは物の性質のことである。内包とは、まさに、感覚(感受)のことであるかもしれない。このことは、「テアイテトス」の中で、後々に議論されることかもしれない。

また、知識とは、単語や文のことであるようにも思う。だから、知識とは、物の集まりや物の性質を指し示すものであると言えるかもしれない。どのようにして、それが指し示せるのかと言うと、物の類似性や、物の抽象化によってであるように思う。例えば、「大きい」ということを知っているということは、「大きい」ということを様々な物から抽象化しなければならないだろう。だから、知識とは、物の抽象化のことであるかもしれないと思う。このことは、元々興味を持っていたことではないのだが、本を読み進めるにあたって、考えて行きたいことである。

2017年10月11日水曜日

瞑想する

瞑想してみる。瞑想は目を瞑ってもできることだし、目を開けながらでもできることだし、歩きながらでもできることだと思う。私のお気に入りの方法は、椅子に座って、時に目を開けたり、時に目を瞑ったりしながら、瞑想するという方法である。つまり、目を瞑るということには固執しないという方法である。寝転んで瞑想するのも良い方法であるように思うのだが、椅子に座って瞑想するのが私のお気に入りの方法である。

瞑想していると、邪念が消失していくように思う。それでいて、どこか心地良い体験であるように思う。慣れてくると、椅子に座っているだけで、瞑想しているような心持ちになるような気がしてくる。このような瞑想の方法は、一般的ではないだろうが、すでにある方法なのだろうか。少しネットで調べてみたい。調べてみると、椅子に座って瞑想するという方法はすでにあるようだ。多くの瞑想法で大切にしていて、私があまり重視していないのが、呼吸法である。私は、呼吸法については特に気にしてはいない。瞑想法によっては、呼吸に意識を持っていくというものもあるようだ。私は、呼吸への意識は雑念の一種のように考えている。

瞑想というものは本当に自由であると私は思う。私のように、椅子に座って、目を開けたり、瞑ったりして、瞑想をしても良いと思うし、他にどんな瞑想法があっても良いと思う。仏教、特に上座仏教には、サマタ瞑想と、ヴィパッサナー瞑想というものがあるらしいが、詳しくは知らない。またいつか、時間があるときに調べてみたいと思う。

2017年10月10日火曜日

ソクラテスの弁明 3

三つめに興味を持ったところは、本文ではなく注釈にある。引用する。ただし、丸括弧は私が補った。

「一般にギリシャ人はこの語(徳)を解して、或る物がそれに固有なる目的遂行のために具備する性質、すなわち優秀、堪能、有効、実際的能力等と做した。されば固有の意味における『倫理的徳』は、単に特殊の場合、すなわち意思のarete(徳、正確には二つめのeの上部に横線)に過ぎない」

この古代ギリシャ人の使う「徳」という語は、おもしろいと思った。現代風に言えば、目的を為す可能性といったところであろうか。あまり良い訳ではないかもしれないが。このような「徳」という概念が、人の意思だけではなく、物一般に使われていたというところに興味を持った。こうして考えてみると、正常に働く機械には「徳」を持つものが多い。現代は、このような「徳」のありふれた時代だとも言えそうだ。

「ソクラテスの弁明」と一つの本に収録されていた「クリトン」も読んでみた。「クリトン」は、死刑を宣告されて牢獄に入れられたソクラテスと、逃亡を勧める友人のクリトンとの対話篇である。クリトンの勧めは、ソクラテスに拒まれる。要点を伝える部分を引用する。

「お前がこの世を去るなら、今ならお前は不正を――われわれ国法からというよりも、人間から――加えられた物としてこの世を去るのだ。しかるにもしお前が脱獄して、無恥千万にも、不正に不正を、禍害に禍害を報い、かくてわれわれに対するお前の合意と契約とを蹂躙して、また最も禍害を加えてはならない者――すなわちお前自身と友達と祖国とわれわれと――にこれを加えるなら、その時、われわれはお前の存命中を通じてお前に怒りを抱くだろうし、またあの世ではわれわれの兄弟なる冥府の国法も、親切にお前を迎えてはくれまい」

ソクラテスは正義を通し、処刑されることを選ぶ。そうソクラテスは主張する。脱獄は違法だから、ソクラテスの言うことは正しい。しかし、裁判で、無実を主張するもっと良い方法があったのではないかという風には思う。そこは、また改めて考えてみたいところだ。

2017年10月9日月曜日

ソクラテスの弁明 2

昨日から読んでいるソクラテスの弁明であるが、最初の方はつまらないと感じていたが、だんだんとおもしろいと感じるようになってきた。

どのあたりがおもしろかったかと言うと、まず、ソクラテスが知者と言われている人々よりも普通の人々の方が賢いと言うところが一つである。その部分を引用する。

「神意に従って探求した結果、私は、最も令名ある人々はほとんどすべて最も智見を欠き、これに反して尊敬せらるること少き他の人々がむしろ智見において優れていることを認めた」

おそらく、無知の知という点に関して、知者と言われている人々よりも普通の人々の方が賢いというこであろうが、直接的な言及はなかった。しかし、そうだとすると、ソクラテスが最も賢いというアポロンの神託は何だったのだろうかという気はしてくる。この点に関して、ソクラテスの言うことには説得力はないように思う。

二つめに感銘を受けたのはここである。引用する。

「思うに、死とは人間にとって福の最上なるものではないかどうか、何人も知っているものはない、しかるに人はそれが悪の最大なるものであることを確知しているかのようにこれを怖れるのである」

これは言い過ぎかもしれないなと思ったが、確かにそういうことはあるように思う。ソクラテスは死を怖れていないという。しかし、死自体は怖れないとしても、死に伴う病や怪我については、少しは怖れることは自然ではないだろうか。ソクラテスの言うことには、疑問点は多い。

2017年10月8日日曜日

ソクラテスの弁明

「ソクラテスの弁明」を読んでいて、今はまだ最初の方なのだが、これがあまりおもしろくない。小説のネタにしょうかと思っていたけれども、どうしようかなと考えている。

内容はおもしろいように思うのだが、文章が退屈なのだ。読んでいて疲れてしまうような文章だ。これを読むんだったら、ネットで「ソクラテスの弁明」を調べて、読んだ方がおもしろいんじゃないだろうかという気がしてくる。

ということで、調べてみた。そこで少しおもしろいことがわかった。ある哲学研究者によると、ソクラテスには無知の知があったという言い方は間違いであり、ソクラテスには不知の自覚があったという言い方が正しいということである。しかし、これは一般の読者にとっては、些細な違いでしかないように思うのだが、どうだろうか。

確かに無知の知という言葉より、不知の自覚という言葉の方が正確であるような気はするが、指し示している内容は同じなので、どちらでもいいのではないかという気はする。

同じウェブページで、岩波文庫版より光文社古典新訳文庫版の方がおすすめという記述もあった。岩波文庫版は訳が古いらしい。これは好みになるのかなと思う。僕が買ったのは岩波文庫版なので少し残念だ。

2017年10月7日土曜日

最近小説を書いている 4

最近小説を書いている。これで3作目だ。哲学のことをネタにしようと考えているので、岩波文庫のプラトン著の「ソクラテスの弁明・クリトン」と「テアイテトス」を読んで勉強しようと思っている。プラトンの著作はこれまでに読んだことはない。

その前に、読み掛けの上遠野浩平著の「ブギーポップは笑わない」を読まなければ。これも、有名な本らしいので、楽しみのためではあるが、小説の勉強のために買ったという側面もある。最近どのような小説が良いとされているのか、興味があったので。とは言え、20年近く前の作品なのだが。

ただし、「ブギーポップは笑わない」は、語り手が、セクションによって変わるという特殊な構成だから、通常の小説では、そこはあまり参考にはならないかもしれない。ウェブなどを見ると、そのことは、この小説の魅力であるように語られているようだが。

評価が高いから良い小説だとは限らないし、この本を選択したことが正しいと言えるのかは、よく解ってはいない。どちらにしても、おもしろい本だとは思う。楽しんで読んでいる。

と書いて、置いておいたところで、「ブギーポップは笑わない」を読み終えた。途中からおもしろくなってきた。そういう小説だった。

2017年10月6日金曜日

心を整える

小説を書いたり、読んだりしていると、心が乱れてくるような気がする。そういうときに、大切になるのが、心を整えるということだ。

心を静かにし、呼吸を整え、浮かび上がる邪念を捨て去りと、口に出して言うことは簡単なことだが、実行することはそれほど簡単なことではないだろう。

今、この文章を書きながら、心を整えるということをしている。浮かび上がる言葉を丁寧に書き連ねているつもりだ。

今、「ブギーポップは笑わない」という小説を読んでいるところだ。とは言っても、まだ25ページしか読んでいない。これからおもしろくなるのかもしれないが、今のところはそれほどおもしろくはない。そこそこおもしろいと言えばおもしろいのだが。

心を整えて、綺麗な心で、生活を送りたいものだ。人の心は、言葉で構成されているように僕は思う。だから、綺麗な心で生活を送るということは、綺麗な言葉で生活を送るということだ。言葉が変われば、行動が変わる。行動が変われば、生活が変わる。生活が変われば、人生が変わる。そのように思う。

何かを「したい」ではなく、「する」ということが大切だと思う。それも言葉である。

2017年10月5日木曜日

無知の知

善とは何かと問われた時、善とは何だろうなと答えに詰まることは普通であるように思う。この時、答える者には無知の知があるのではないだろうか。だから、ほとんどの人には無知の知があるのではないだろうかという気がしてくる。

答えに詰まることと無知の知は違うということだろうか。確かに、知らないということと、知らないということを知っていることには差異があるように思う。しかし、先程の例では、ほとんどの者が、知らないということを知っているように思う。

私は冷蔵庫が何故冷やすことができるのかをよく知らないし、エアコンが何故空気を暖めたり、冷やしたりできるのかをよく知らない。そして、その知らないということを知っている。これは無知の知とは異なることなのだろうか。私はソクラテスの無知の知について、詳しくは知らないし、その知らないということを知っているので、いつか調べてみたいと思っている。

ソクラテスのことはプラトンの著作に書いてあるということを聞いたことがあるように思う。だから、プラトンの著作を読めば良いのだろうなと思っている。無知の知について、これ以上のことを語るのはプラトンの著作を読んでからの方が良いのだろうなと思っている。しかし、プラトンの著作はたくさんあるので、どれを読めば良いのか迷う。とりあえずは、「ソクラテスの弁明」と「テアイテトス」を読もうと考えている。

2017年10月4日水曜日

知っていることと言語化していることの差異

知っていることと言語化していることの差異は何であろうか。言語化していると、そのことについて、いわゆる哲学的考察ができるようになると思う。哲学的考察には、知っていることの言語化が欠かせないように思う。哲学的考察とは言語的な活動だからである。例外はあるかもしれないが、簡単には思い付かない。

あるいは、身体が知っているということがある。我々は歩くということを知っているが、歩くということを言語化している者は少ない。もし、歩くということを言語化できれば、歩くロボットを作ることができるだろう。この場合、歩くことができるということと、歩くロボットを作ることができるということが、知っていることと言語化していることの差異である。

だから、言語化するということは、学問をするということと密接な関係があると思う。数学も含め、学問は言語的活動だからである。

2017年10月3日火曜日

微笑みとは

微笑みとは不思議なものである。微笑みとは何であろうか。微笑みとはおもしろくないことだし、おもしろいことのように思う。そのことがおもしろいことなのかもしれない。そうだとすると、微笑みは、究極の笑いの一つであるかもしれないと思う。

我々は、ユーモアにより、ゆるくつながっているように思う。何故だろうか。それは、世界の外が、本質的に「無」であるからかもしれない。我々は、ほとんど皆、微笑みのことを知っているし、世界の外が本質的に「無」であることを知っている。そのように思う。

無知の知という言葉があるが、我々は、皆、無知であることを知っているのではないだろうか。知っているのに知っていないのように振る舞うのではないだろうか。なんとなくそのように思う。

微笑みとは、無知の知の一つではないだろうか。無知を知ることはおもしろいことのように思う。だから、そのことは微笑みとして現れるのではないだろうか。そのように思う。

2017年10月2日月曜日

語り得ないこととは何であろうか

語り得ないことは沈黙しなければならない。これは有名なヴィトゲンシュタインの論理哲学論考の一節である。この語り得ないことは何を指しているのだろうか。私は、語り得ないことは「ない」ことなのではないかと思っている。そうだとすると、語り得ないことは沈黙しなければならない、という文章は、語り得ないことはないし、ないことは沈黙しなければならないという文章と本質的に同一的であろう。

あらゆる哲学者の語っていることは、おそらく、語り得ることだろう。語り得ないことは、その叙述の外にあるであろう。どのような無意味な叙述でさえも、それが無意味であるという指摘によって、有意味に変わるので、語り得ることであろう。だから、語り得ないことは「ない」ことであるのではないか思っているのである。

語り得ないことは沈黙しなければならないという文章は、あるものはあるべくしてあるという文章の特殊系であろう。その文章には、あるものはあるべくしてあるという文章が隠されているように思う。私は、ヴィトゲンシュタインは、あえてそのようにしたのだろうと思っている。

あらゆることは語り得る。このことが正しいことなのではないだろうか。語り得ることの外に語り得ないことが「ない」。

2017年10月1日日曜日

笑いの全体主義 2

笑いのファシズムは言い過ぎたかなと思う。笑い、特に笑顔は平和的なものであるから、例え、仮に、それが流行していたとしても、全体主義や、ましてやファシズムとして、語ることは行き過ぎた行為であったかもしれないなと思う。

笑顔とは不思議なものである。特に、おもしろくもないのに、顔に浮かべる微笑みは不思議である。そのような微笑みは、それ自体が赦される誤りであり、ユーモアであろう。そのユーモアは他者へ伝わる。そのような微笑みは、他者をも微笑みにする。それはただの流行とは本質的に異なることかもしれない。それは全体主義ともファシズムとも異なることかもしれない。微笑みの広がりとは、小さな共感の積み重ねであろう。