2017年10月13日金曜日

プラトン著「テアイテトス」 2

プラトン著「テアイテトス」を読み進めているのであるが、まだ、あまり読み進められてはいない。まだ序盤なのであるが、そこで行われているのは、テアイテトスの知識は感覚(感受)であるというテアイテトスの説に対しての、ソクラテスによる産婆術、反駁である。まだ、110ページ程度しか読んでいないのだが、今のところ大したことは書かれていないように思う。知識は感覚(感受)であるという考えはやや退屈ではある。

昨日、私は、知識とは、物の抽象化のことであるかもしれないと記した。正確には、物の抽象化の体系と言った方が良いのかもしれない。そのようなことについては何も触れられてはいない。このことについては、今後も考えていきたいと思っている。

知識は感覚(感受)であるということの産婆術は、まだ続けられている最中であり、感想を述べることはむずかしい。それでも、あえて、知識とは感覚(感受)であるということに、感想を付け加えるのであれば、知識には感覚(感受)が必要であろうけれども、知識とは感覚(感受)それ自体とは異なるであろうということである。

確かに、純粋な感覚(感受)は知識と似ている。白いとか大きいとかがそうである。しかし、私の説では、そのような知識は、物の抽象化によって得られるものである。本来の感覚(感受)はもっと混沌としているであろう。そのことを持って、知識とは感覚(感受)であるということは、おかしなことであるように思う。そのような感覚(感受)はすでに、そして暗に、抽象化されたものなのではないかと思う。