2017年11月22日水曜日

「語りえぬものについては沈黙しなければならない」という言葉

ヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」に、「語りえぬものについては沈黙しなければならない」という言葉がある。今回は、それについて少し考えてみたい。

まず、私が気にかかるのは、この言葉は、「あるものはあるべくしてある」という言葉の特殊な形になっているということである。だから、「あるものはあるべくしてある」という言葉が正しければ、この言葉は正しい。逆は真ではない。このことが、「論理哲学論考」の不思議な読後感の原因の一つになっているように思う。

もう一つ、この言葉の絶妙さは、この言葉は「論理哲学論考」の最後の言葉であるので、この言葉の後に、空白が続くということである。だから、そのことによって沈黙が示されている。

実際のところ、「語りえぬもの」とは何であったのかというと、安易なようではあるが、それは「神」のことであったのではないかと思う。「神」のことは、その当時のヴィトゲンシュタインにとって、そしておそらく、その後のヴィトゲンシュタインにとっても、「語りえぬもの」であったのではないだろうか。

私は、「神」のことは語りえることであるように思う。ヴィトゲンシュタインにとって、「語る」ということは、すごく完全性の高い、厳しいことであったのではないかと思う。それは、「語る」ということの捉え方の差異であって、本質的な差異ではないように思う。

2017年11月21日火曜日

検索でヒットしやすいページ

検索でヒットしやすいページというものがあるような気がする。同じアルゴリズムで集めたページだから、同じようなページがトップに並びやすいのかもしれない。大体、次のような特徴を持っているのではないか。こういうページがヒットしている印象がある。

・WordPressなどのツールを用いて作られている
・ページの文章量が多い
・文章の大きさや色が変化する
・どうしたらいいかなどのHow-toの情報がある
・ページ数が多い

こうして見ると、ぼくのサイトで適合するのはページ数が多いということくらいであろうか。WordPressなどのツールを使うのは、ドメインの取得とサーバーのレンタルに費用と手続きが必要になるから、あまりしようとは思わない。ページの文章量は、書きやすい量というものがあるので、あまり無理して増やそうとは思わない。文章の大きさや色を変化させるのは、読みやすいとは、ぼくはあまり思わないので、そうしようとは思わない。How-toの情報を載せるのは、このサイトにはまったくと言っていいほどないが、そうしてみようとは、やはり、あまり思わない。

2017年11月20日月曜日

心を鎮める 2

以前、心が騒がしくなるとき、心を鎮めるようにしているということを書いたように思うが、この心が騒がしくなることは、ぼくの持病みたいなものである。

昨日も、夕食を食べた後、心が騒がしくなり、心を鎮める必要があった。この心が騒がしくなるという現象は、原因もよくわからないし、それがどのようなものであるかについては説明がむずかしい。なったことのある人にしかわからないような感覚であるように思う。

この心が騒がしくなるという現象は、大体、2、3日に一度くらいの割合で起こるように思う。一度この現象が起こると、短い時で30分くらい、長い時で2時間くらいは、その現象が続く。結構、辛い心持ちである。原因がわかれば、少しは気が晴れるのであろうとは思うのだが、原因はよくわからない。

昔、転んで頭を打ったとき、視界が、壊れたアナログ放送のテレビのように、乱れたことがある。しかも、その状態が、1分くらいは続いたように思う。かなり驚いた。その時、ぼくは、人の脳は、本当に機械のようなものであるように思った。しかし、デジタル機械よりはアナログ機械に近いように思う。

ぼくは、心は機械を超越しているように思うけれども、心に機械のような部分があるということも確かなことではある。視覚や聴覚などは、機械として、ほとんど説明ができることではないだろうか。数ある錯視現象は、人の視覚が機械的であることを暗に示しているように思う。

2017年11月19日日曜日

プラトン著「饗宴」 3

プラトン著「饗宴」を読み進めている。162ページ中、100ページ程度まで読み進めた。集中できた時間があまりなかったせいもあって、前回から10ページ程度しか読み進められていない。内容は、アリストファネスの演説の後、アガトンの演説の一部始終と、最後の演説者であるソクラテスの演説がこれから始まろうするところまでである。

アガトンの主張は、讃美において正しい方法は、その本質を明らかにすることであるというものである。そこが、それまでの演説者との異なりだと言う。そして、次のように主張する。引用する。

「すべての神は福であるが、エロスは、(もしこう語ることが許されることでありまた冒涜することにもならないならば、)すべてのうちでもっとも美しく、もっとも優れており、したがってまたもっとも福なる神である」

エロスがもっとも美しい神であるということもわからないことのような気がしないでもないが、なによりもわからないことは、エロスがもっとも優れている神だということである。ゼウスなどはどこに行ったのであろうか。そして、エロスには、公正と自制と勇気の徳があると、アガトンは主張する。芸術と創造に関しては、アガトンは、次のように主張する。引用する。

「この神は巧妙なる詩人である。他をもまた詩人にするほどである。まことに何人といえども、一たびエロスが触れさえすれば、『たといかつてはムーサ神に無縁であった者も』きっと詩人になるのである。この事は、エロスが総じてあらゆる芸術的創作において優れたる創造者であることの証左とするに足ると思う。なぜならば、自ら持ってもおらず、また知りもせぬものは、これを他に与えることもまた教えることもできないからである。まして一切生物の創造に至っては、あらゆる生物を発生せしめ、成長せしめるものはエロスの智慧であることに何人が異議を唱えるであろうか」

このようなことをアガトンはどのようにして知り得たのか、私にはわからない。わからないが、とにかくエロスはすごい神であるということがアガトンの主張である。芸術にも創造にも優れた神であるということである。

2017年11月18日土曜日

Amazon Prime

今日は何でもない日だ。日記でも書こう。Amazonでアリストテレスの「二コマコス倫理学」を注文した。アリストテレスの著書を読むのは初めてのことだ。「次へ」のボタンを連続でクリックしていたら、Amazon Prime会員というものに入会してしまった。確認のボタンはなかったように思う。しかし、この会員は、一ヶ月無料で、次月以降入会しなくてもいいというものであるので、料金は払わずに済むようだ。間違えて入会してしまう人はかなりいると思うので、そうでなければ問題があるように思う。

しかし、このAmazon Prime会員というものは何だろうか。少し調べてみたら、100万曲以上の曲が聴けるMusicと、映画やテレビ番組が見れるVideoというものがあるらしい。ぼくは、どちらにもあまり興味はないのではあるが、試しに、ペルソナ5のオリジナルサウンドトラックを聴いてみた。このゲームは以前プレイした。音質は良いような気がする。100万曲以上の曲があって、年間3900円の利用料なので、これは、人によっては、利用価値はあるかもしれない。

このペルソナ5のオリジナルサウンドトラックは、110曲、3時間46分もの長さがあるらしい。とても全部は聴いてられない。年間3900円だと、月額325円なので、まあ、安いと言えば安いのだろう。どれが人気のある曲かわかるようになっているらしいので、人気のある曲を聴いてみた。

Amazonの他にも、最近は、月額1000円程度の定額制の音楽サービスがあるようだ。検索してみたら、比較サイトが見つかった。ぼくは、今のところはそういうものには興味はないので、入会する予定はない。ビデオの月額料金定額制のサービスもいくつかあるようだ。これも、検索してみたら、比較サイトが見つかった。ビデオのサービスも今のところ興味はない。

2017年11月17日金曜日

プラトン著「饗宴」 2

プラトン著「饗宴」を読み進めている。162ページ中、90ページ程度読み進めた。パゥサニヤスの演説の後に、エリュキシマコスとアリストファネスの演説が続いた。エリュキシマコスの演説の要点は次のようなものである。引用する。

「エロスは単に美しき少年に対する愛として人間の魂の内に存在するのみならず、また他の多くのものに対する愛として、かつ他の事物の内にもあるもので、一切の動物の体内にも、大地の産出する植物の内にも、否、いわばありとあらゆる物の内に存在する」

アリストファネスの演説は、通常の感性からすると、かなり特殊なものであると言わざるを得ないように思う。アリストファネスによると、人間は、昔、男と女と男女の三種がいて、手足や顔などは、現在の人間の二倍分あった。それが、神の怒りを買い、現在の人間のような姿に分割され、昔、男女であったものは異性愛者に、男や女であったものは、同性愛者になったということである。だから、同性愛者のいることは、おかしなことではないということである。それどころか、男の異性愛者より、男の同性愛者の方が、より男らしいということになってしまう。アリストファネスの演説は、そのまま信じられるようなものではないように思うが、どこか考えさせられるところのある話ではあるように思う。

異性愛者と同性愛者について、自分なりに、考えてみたい。異性愛者と同性愛者の異なりは、地面に立てて置いた棒が、左に倒れるか、右に倒れるかのような異なりであるように思う。その異なりは、偶然的で、外力のあり方によって、変わってくる。その外力は、実際のところ、社会的なものである。異性愛者も同性愛者も、偶然的に、そうなるように外力が働いて、成長したに過ぎない。倒れた棒のように、一度確定した性については、後年変化することは、ないか、とても少ないように思う。

2017年11月16日木曜日

恋とは何か

恋とは何であろうか。恋という字は、変という字に似ている。恋とは、自分が変になってしまいそうなくらい、異性の相手のことが好きだということであろうか。いや、違うか。変だということとは関係のないことかもしれない。恋とは、ただ、異性の相手のことが好きだということかもしれない。

しかし、その異性の相手の好きだということが、ある程度以上大きいことのようにも思う。ところで、ここで気づいたのではあるが、同性の相手のことが好きだということも、恋なのかもしれない。特に、古代のギリシアでは、少年愛は普通に見られたことであったらしいので、そのような定義の方が自然であるのかもしれない。

恋とは、異性であれ同性であれ、ただ、相手のことが好きであるということ。それで、正しいのかどうかは、よくわからない。盲目的に好きだという条件を加えてもいいかもしれない。

恋というものがどのようなものであれ、ぼくは、随分と長いこと、恋というものをしていないように思う。それは寂しいことのように思われるかもしれないが、本人としては、そうでもない。きっと、恋というものが消失してしまっても、愛という形で残るように思うので、それは寂しいことではないように思う。その行く先は、人類愛であろうか。

2017年11月15日水曜日

愛とは何か

愛とは何であろうか。自分にないものを求めることであろうか。これは、抽象的な、しかし普遍的な愛のことである。求めること。だから、philosopherという言葉には、愛という言葉が含まれるのであろうか。日本語の哲学者という言葉には愛という言葉は含まれないけれども。それで良かったのであろうか。

日本語には、求道者という言葉がある。これは、この言葉だけでは、何をしている人のことなのかよくわからないように思う。philosopherという言葉にもそういうところがあるように思う。求道者という言葉は、意味としては、philosopherという言葉に近いところがあるかもしれない。

それで、愛については、わかったような気になるけれども、果たして、これで本当に良かったのであろうか。もし、こんなに簡単なことであったのであれば、大して問題になるようなことではなかったように思う。

愛という言葉を聞いて、もう一つ思い浮かべる言葉は、慈悲という言葉である。慈悲とは、自分にないものを求めるということであろうか。いや、大分異なることのように思う。もしかしたら、異なりはそれほどないのかもしれないけれども。やはり、愛ということを知るには、そう簡単には行かないようである。

慈しむこと。これも一つの愛の形であろうか。何だか他にも、愛の形はありそうではある。しかし、本質的には、求めることと慈しむことの二つなのかもしれない。

2017年11月14日火曜日

心を鎮める

心を鎮めること。ぼくは、どうしても、心が騒がしくなるというようなことが、よくある。これは、多分、ほとんどの人が体験したことのない騒がしさであるように思う。

そんな時に、心を鎮めようとするのであるが、これが大変である。鎮まれと言って静まるものでもないし、どのようにしたら鎮まるのかもよくわからない。

大抵にして、ぼくのやっていることは、騒がしさの大元を探して、それを鎮めようとすることである。どうするかと言うと、とにかく物質的なものより、精神的なものに集中することである。

しかし、これでも上手く言語化できているのかよくわからないし、ぼくの行為によって、騒がしさが鎮まっているのか、ただ時が流れて騒がしさが自然に鎮まっているのかも、よくわからない。とにかくこの騒がしさというものは、鎮まらないと困るという代物なのである。

これを書いている今も、実は、心が騒がしい。落ち着けようと、鎮めようとしているのであるが、十分に効果があるのかどうか疑わしい。ふとしたきっかけで、鎮まったりもするのだ。ぼくが、心のことを十分に把握しているとは言えない。より善く知りたいものだ。

2017年11月13日月曜日

ある秋の日のこと

昨日は、秋の紅葉を見るため、家の近くにある山寺に行った。が、ほとんど紅葉はなかった。少し早かったらしい。その代わりというわけではないが、山寺で仏像を見てきた。久しぶりに仏像を見たような気がする。

仏像を見ると、心が和むような気がする。なぜだろうか。やはり、日本人だからであろうか。どうだろうか。仏像にはいわゆるアウラ(オーラ)というものがあるような気がする。

アウラについて語った哲学者は誰だったであろうか。確か、大学生の時に、講義のレポートのために、その哲学者の書いた本を読んだことがある。検索してみた。そうだ、ヴァルター・ベンヤミンだ。本の名前は、「複製技術時代の芸術作品」だ。懐かしい。

Wikipediaで知ったのだが、ベンヤミンには、「パサージュ論」という未完の草稿群があるらしい。読んでみたいような気はするが、ぼくには少し敷居が高い。パサージュとは、19世紀前半にパリにつくられたアーケード街のことらしい。そこにベンヤミンはユートピアを見たという。

文化という面においては、資本主義は間違っていなかったように思う。それは歴史が証明しているように思う。だが、間違っていなかったのは、人間が善き人間性を持っているからであったように思う。

2017年11月12日日曜日

プラトン著「饗宴」

プラトン著「饗宴」を読み進めている。162ページ中、70ページ程度、読み進めている。とは言え、訳者の記した序説が40ページ程度あるので、実質的には、ほとんど読み進めていない。

この本は、序説によると、エロス(愛)について、ソクラテスを含む数名が、エロス(愛)について、演説するという内容であるようだ。一番、驚いたのは、その論者の中のパゥサニヤスが、異性に対するエロス(愛)よりも、同性へのエロス(愛)の方が尊いと考えており、これが、当時のギリシアではそれほど驚くものではないように記されているというところである。特に、少年愛を尊いもののように考えていたようである。

どうであろうか。エロス(愛)について、現代と古代のギリシアでは大きな異なりはあるのであろうか。エロス(愛)のあり方は、時代や地域によって、大きく変わるものなのであろうか。この本によると、その答えには肯定的であるように思う。それでも変わらない部分がきっとあって、それがこの本の重要なところであるように思う。

2017年11月11日土曜日

Macが壊れたが、しかし

Macが壊れた。SafariとメールとApp Storeが使えなくなった。メッセージは使えたので、友人にGoogle Chromeを送ってもらったところ、これは使えるようだった。他にもiTunes Storeなども使えなくなったようだ。原因は不明である。インターネットラジオなども使える。

しかし、メールは普段Gmailを利用していたので、Google Chromeを使えるということは、インターネットとメールは使えるということだから、再インストールするまでもないのかもしれない。2009年のMacBookを利用しているのだが、そろそろ新しいMacBook Proに買い換えようと思っていたところなので、しばらくこのまま使い続けるのも良いかもしれない。

結局、付属していたSnow Leopardをインストールして、El Capitanを経由してから、High Sierraをインストールし直した。El Capitanを経由するところが、面倒ではあるが、そうしなければならないと公式に書かれていた。

2017年11月10日金曜日

Adversarial Example 2

昨日、活性化関数のReLU(Rectified Linear Unit)をmax(0, x)からmax(0, x-ε)に変更したら良いのではないかと書いたが、Adversarial Exampleの微小な信号でも総和をとって活性化関数に入力される時点では、大きな信号に変わるのかもしれないと思い直した。

そうすると、総和をとる前に微小な信号を0か0の近くに変更するような関数を通さなければならないのかもしれない。それは、通常のニューラルネットワークのモデルとは少し異なるものになってしまうことが難点ではある。

この方法で良いのかどうかは、シミュレーションしてみなければ解らないように思う。ただ、ぼくには、シミュレーションプログラムを書く程の余裕も実力もないように思う。理論的に計算する方法があれば良いのではあるが、それをする方法は思い付かない。

この方法の他の方法はやはり有効なのではないかと思っている。特にSigmoid関数の取り扱い方は重要であるように思うし、Adversarial Exampleのクラス自体を学習することも良い方法なのではないかと思っている。

2017年11月9日木曜日

Adversarial Example

Adversarial Exampleというものがあるらしい。これは、機械学習において、分類器へ提示する入力に、人間にはほとんどノイズのようにしか思えないような信号を足して、分類器に誤分類をさせるというものである。詳しく知りたい方は、Googleなどで調べてみてほしい。

これを防ぐ方法を考えてみたのだが、ニューラルネットワークの活性化関数のReLU(Rectified Linear Unit)を、max(0, x)からmax(0, x-ε)に変更するという方法はどうであろうか。εは微小な正の数である。こうすると、ノイズのような信号には反応しなくなり、分類の結果にも大きな影響は表れないように思う。

自分でプログラミングをする程の余裕と実力はないので、プログラミングして試すことはできないのだが、誰かプログラミングすることのできる人がいれば試してみてほしい。すでにDeep Learningなどのプログラミングしている人であれば、簡単な変更で試すことができるように思う。分類器をプログラミングすることは、様々なヒューリスティックに決定されている定数などを決定しなければならないので、詳しく知らない者にとっては、むずかしい。

Adversarial Exampleの起こる本質的な原因を考えてみたい。Adversarial Exampleが起こるのは、分類集合より大きな集合を学習しているためだと考えられるように思う。これは、過学習の逆である。だから、分類集合の数を増やすことが、解決策の一つになるように思う。特に、Adversarial Exampleのクラス自体を学習してしまうという方法は、良い方法なのではないだろうか。先の方法もそうだが、既知の研究について調べてはいないので、すでに提案されている方法かもしれない。

もう一つ、理由として考えられるのが、Sigmoid関数の利用である。まさに正解が表れたとき、1に近い数字を出力するように、Sigmoid関数が学習されれば良いのであるが、通常の勾配による学習では、そうはならないであろう。小さな入力でも、1に近い出力を出すように学習してしまっている可能性があるように思う。Sigmoid関数を使うのであれば、そのあたりを考慮しなければならないように思う。

2017年11月8日水曜日

脳の表現はアナログ

視野の右上の部分が、視野の左下ではなく、なぜ視野の右上に見えるのかという問題を巡って、過去二回、様々なことを考えてきた。しかし、決定的なことは、十分には、解っていないように思う。

脳と通常のコンピュータとの異なりと言えば、脳はアナログで、通常のコンピュータはデジタルだということであろうか。アナログコンピュータというものもあるらしいが、私は詳しいことは知らない。もしかしたら、それは脳と似たような部分があるのかもしれない。

脳がアナログであるということが、心を表現するにあたって、何か決定的な役割を果たしているのであろうか。実際のところ、私にはそれはよく解らない。その可能性はあるような気もするし、そうではない可能性もあるように思う。

アナログとデジタルの異なりについて、解りやすいものは次のようなものである。二進数で、1000と111はアナログでは1の異なりしかないが、デジタルではすべての桁が異なる。つまり、デジタルでは、データとしての数の異なり方が単純ではなく、途中で大きく変わってしまうということがある。

このことは、通常のコンピュータが心を持つかということを考察するにあたって、大きな問題になるかもしれない。アナログでは、1000と111の異なりは、物理的にも1であるのに対して、デジタルでは大きく異なるということである。そのようなものが、心を表現し得るのであろうか。そういう問題である。

2017年11月7日火曜日

神経細胞の配線長と心

昨日、心の内で近いと感じられるものは、近くの神経細胞によって表現されているかもしれないということを書いた。後で少し考えてみたのだが、このことについては、もう一つの仮説もあり得るかもしれない。それは、神経細胞の配線長が短くなるように、神経細胞が配置されているという仮説である。神経細胞の配線長が短くなると良いという理由は、信号の遅延が小さくなるということと、エネルギー効率が良くなるということの二つが挙げられるであろう。

ここで気に掛かるのは、視覚や聴覚などの情報を処理する脳の領野は先天的に形成されるのか、後天的に形成されるのかということである。私は、脳のほとんどの部分は先天的に形成されるように思っているのではあるが、ウェブで調べてみたところ、子猫に縦縞模様のみを見せて育てるという実験があり、このように育てられた猫は横縞模様の見えない猫に育つそうである。だから、神経細胞の接続は、ある程度は、後天的なものであるということであろう。どの程度、先天的か、後天的かという具体的な問題は、私には解らない。このことは大事なことではあるが、胎児の段階での成長を先天的なものに含めるか、後天的なものに含めるかという問題もある。私は、それを先天的なものに含めて考えている。

どちらにしても、神経細胞は、効率的に配線するように、総配線長が短くなるように成長し、心の内で近いと感じられることは、近くの神経細胞によって表現されるようになるという仮説はあり得ることだと考えられるように思う。しかし、これでは、視野の右上にある部分が、なぜ視野の左下になくて、視野の右上にあるのかということは、解らないように思う。なんらかの意味で、最善なのであろうとは思うのだが。

例えば、身体の後方を見る第三の目があって、その視界が視野の左上のウィンドウの中に表示されるということはあり得ることであろうか。こうなると、とても機械的であろう。どこにそのウィンドウがあれば最善であるのかも、よく解らない。このような生物がいるとして、どのような視覚を獲得していると考えられるのであろうか。あるいは、見えるとしたら、端的に言って、ただ見えるのであろうか。われわれには、想像できないことであるとしても。

2017年11月6日月曜日

脳の不思議な力

われわれがものを見るとき、視野の右上にある部分がなぜ左下になく右上にあるのかということを考えてみると少し不思議であるように思う。ある神経細胞が活動すると、それは視野の左下にものがあるのではなく、視野の右上にものがあるというように、対応する神経細胞によって、視野の部分が決まっているのであろうか。しかし、視野の右上にある部分が視野の左下にあっても、そのものが見えていることには変わりはないはずではある。

この議論はクオリアについての議論と似ているようにも思うが、ぼくは違うものであるように思う。クオリアについての議論は哲学的な議論であるが、この議論は脳科学的な議論になるように思う。視野の右上にあるものが、視野の左下ではなく、視野の右上にあるということは、神経細胞のどのような活動によって表現されているのかという問題である。

仮説としてすぐに思い浮かぶのは、視野の内で近くにあるものは、近くにある神経細胞によって表現されているということである。しかし、そうだとしても、まだ十分に脳は不思議である。神経細胞の近くにあることが、心の近くにあることを表現するなんて。このことは突き詰めると、熱の近い感覚とか、皮膚の近くの感覚とか、あらゆる近くの感覚について成立しそうではある。

そうすると不思議なのは、どこかで、視覚とか、聴覚とか、触覚とか、脳の内で切り替わる部分があるはずであり、そこでは近くにある神経細胞がまったく異なることを表現しているということである。もしかしたら、そのような脳の領域は、つながりが切断されているのであろうか。そのようなことは聞いたことがないが、あり得ないことではないように思う。

大脳の二次元的な地図の上に心が表現されているはずであり、それが領野である。二つの領野が近いことは、何かを表現しているのであろうか。あらゆる心が二次元空間に表現されるということである。視覚については解るが、触覚や聴覚は二次元空間と何か関係があると考えられるのであろうか。二次元空間によって統合された心を表現する。それが脳の不思議な力である。脳は、ある意味では、より高次元の空間にあるものなのかもしれない。どちらにしても、脳が統合された心を表現することは、不思議なことであるように思う。

2017年11月5日日曜日

プラトン著「パイドン」 4

昨日の続き。魂の不死を説くソクラテスに対して、ケベスは、何度も輪廻転生を繰り返した魂は、いつか消滅するのではないかと反論した。つまり、魂は不死ではないと。それに対して、ソクラテスは次のように言う。引用する。

「魂は、自分が常にもたらすもの[生]とは反対のもの[死]を、けっして受け入れないのではないか」

ソクラテスの言う魂は、正確に言えば、魂のイデアのことのようである。ソクラテスは、非偶数のイデアが、偶数のイデアを受け入れないように、魂のイデアは、死のイデアを受け入れないと言っているようである。したがって、魂は不死であると。

これは、どうであろうか。魂が不死であることは、定義であると言っているのと変わりがないように思う。定義であるのであれば、それは、証明されて当然のことであろう。果たして、プラトンの記述するソクラテスの言論に、それ以上の価値があるのかどうかは、ぼくには解らない。

どちらにしても、プラトンの記述するソクラテスが、魂は不死であると考えていたことには変わりがない。「ソクラテスの弁明」でのソクラテスは、魂が消滅することはあり得ると言っていたように思うので、この「パイドン」でのソクラテスとは、立場が微妙に異なるようではある。

2017年11月4日土曜日

プラトン著「パイドン」 3

プラトン著「パイドン」を読み終えた。この本の主な目的は、魂の不死を証明することのようである。シミアスとケベスが、魂の不死を説くソクラテスに、それぞれ反論する。シミアスの反論は次のようなものである。引用する。

「もしも魂がなんらかのハルモニアー(調和)であるとすれば、われわれの肉体が病気やその他の災いのために度外れに弛緩させられたり緊張させられたりするときには、魂はもっとも神的なものであるにもかかわらず、直ちに滅亡せざるをえないことは明らかです」

(本文とは直接関係のないことではあるが、Macでは「直ち」は「ただち」から変換できなかった)

これに対して、ソクラテスは次のように答える。一つだけ挙げるということはむずかしいことではあるが。シミアスの反論は、想起説と矛盾すると言うのである。引用する。

「もちろん、君の言う調和は、君がなぞらえたようなもの[魂]ではない。竪琴や弦が先ずあって、それから未だ調律されていない音が生じ、それらすべての最後に調和が合成され、そして、それが最初に滅びるのだ。すると、君のこの説はどうしてあの[学習とは想起であるという]説と調和するのだろうか」

ケベスの反論については、次回に回す。

2017年11月3日金曜日

魂と理性

魂と理性は本質的に同じものであるのではないかと昨日の記事に書いた。少し調べてみたけれども、そのようなことを主張している過去の哲学者はいないようである。だから、このことについて、もう少し考えてみたいと思う。

魂と対比されるのは肉体であるけれども、理性と対比されるのは何であろうか。これはむずかしい問題ではある。本能や感情や情動であろうか。一言で示すのは、よりむずかしい問題であるように思う。ここでは、一言で示すという問題は保留にしておきたい。とにかく、そのようなものであるということにしておく。

魂と理性が本質的に同じものであるということは、肉体は本能や感情や情動と本質的に同じものであるということである。私には、そのようなことは、本当のことであるように思える。プラトン、ソクラテスの言う通り、魂が肉体に汚されることがあるように、理性が本能や感情や情動に汚されることがあるように思う。どちらも、そのような状態から、浄めるということが大切なことであるように思う。

プラトン、ソクラテスの言う通り、神のもとに到達するのは、哲学によって浄められた魂であるのであれば、それは、本能や感情や情動から浄められた理性であるということになるように思う。それは、名前を付け替えられただけのことのようにも思えるが、本当のことであるように思う。

このように、魂と理性には類似性があるように思う。このことは、魂と理性が本質的に同じものであるということが、起因しているように思う。少し強引に過ぎる結論のようにも思うが、そのように思う。

2017年11月2日木曜日

魂について

Wikipediaによると、魂は、古代ギリシアの言葉で、プシュケーというらしい。プシュケーは、もともとは息を意味しており、転じて生きること、命、心、魂を意味するようになったらしい。また、日本語でも、生きるという言葉は、息が原義だと考えられているらしい。どちらにしても、息から心や魂を意味するようになったのは、ギリシア語に特有のことであろう。

プラトンの記すソクラテスは、魂という言葉を多用するので、ギリシア語では、魂は、息や命を意味するということを知っておくことは大切なことであるように思う。

魂というものがあるのかどうかという問題に対して、ぼくは肯定的である。来世もあるように思う。しかし、輪廻転生については、あまり肯定的ではない。どちらかと言うと、来世は、空間が六次元になるとか、時間が二次元になるとか、その他、現世に対して、超越的なものであるように思う。しかし、そのように確信しているというわけではない。

魂は、もっとも自分らしい自分であるように思う。魂と理性の異なりは何であるかという問題はむずかしい。ほとんど異なりはないように思う。同じようなことの異なった側面であるように思う。理性というものを拡大解釈しているように思われるかもしれない。確かに、そういうところはあるように思う。しかし、ぼくは、どちらも同じようなもののことであるように思う。

2017年11月1日水曜日

プラトン著「パイドン」 2

プラトン著「パイドン」を読み進めている。176ページ中、110ページ程度まで読み進めた。印象的だったところは二つある。

一つは、肉体は合成的で、魂は非合成的であり、合成的なものは解体されるが、非合成的なものは解体されない。だから、魂は不死であるというところである。そして、肉体は変わり、輪廻転生することもあり得るというものである。そして、ソクラテスは次のように言う。

「常に自己同一を保ち同じように有るものが、非合成的であり、これに対して、時によってその有り方を変えけっして自己同一を保たないものが、合成的である」

もう一つは、魂は浄めなければならない、そして、魂を浄めるということは、まさに、哲学することであるというところである。浄められた魂は、死後、神的なもののもとに到達し、汚れた魂は獣に転生することもあり得るという。

大分、宗教的な話題になってきたように思う。この本の副題は「魂の不死について」というくらいだから。そして、ソクラテスは自身を神アポロンの下僕と見なしていたらしいから。私は輪廻転生はあまり信じていないから、これからこの本を読み進めるにあたって、考え方が変わることがあるのかもしれないと楽しみにしている。