2017年11月6日月曜日

脳の不思議な力

われわれがものを見るとき、視野の右上にある部分がなぜ左下になく右上にあるのかということを考えてみると少し不思議であるように思う。ある神経細胞が活動すると、それは視野の左下にものがあるのではなく、視野の右上にものがあるというように、対応する神経細胞によって、視野の部分が決まっているのであろうか。しかし、視野の右上にある部分が視野の左下にあっても、そのものが見えていることには変わりはないはずではある。

この議論はクオリアについての議論と似ているようにも思うが、ぼくは違うものであるように思う。クオリアについての議論は哲学的な議論であるが、この議論は脳科学的な議論になるように思う。視野の右上にあるものが、視野の左下ではなく、視野の右上にあるということは、神経細胞のどのような活動によって表現されているのかという問題である。

仮説としてすぐに思い浮かぶのは、視野の内で近くにあるものは、近くにある神経細胞によって表現されているということである。しかし、そうだとしても、まだ十分に脳は不思議である。神経細胞の近くにあることが、心の近くにあることを表現するなんて。このことは突き詰めると、熱の近い感覚とか、皮膚の近くの感覚とか、あらゆる近くの感覚について成立しそうではある。

そうすると不思議なのは、どこかで、視覚とか、聴覚とか、触覚とか、脳の内で切り替わる部分があるはずであり、そこでは近くにある神経細胞がまったく異なることを表現しているということである。もしかしたら、そのような脳の領域は、つながりが切断されているのであろうか。そのようなことは聞いたことがないが、あり得ないことではないように思う。

大脳の二次元的な地図の上に心が表現されているはずであり、それが領野である。二つの領野が近いことは、何かを表現しているのであろうか。あらゆる心が二次元空間に表現されるということである。視覚については解るが、触覚や聴覚は二次元空間と何か関係があると考えられるのであろうか。二次元空間によって統合された心を表現する。それが脳の不思議な力である。脳は、ある意味では、より高次元の空間にあるものなのかもしれない。どちらにしても、脳が統合された心を表現することは、不思議なことであるように思う。