2017年12月31日日曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 29

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の120ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、放埒な人と抑制のない人を次のように区別する。

「放埒な人は目の前の快楽をいつでも追求しなければならないと考え、それを自ら選択し、それに突き動かされるが、しかしこれに対して抑制のない人は、それを追求すべきだと思っていないにもかかわらず、追求してしまうのである」

アリストテレスは、われわれは知っているということを二通りの仕方で語っていると言う。

「われわれは「知っている」ということを二通りの仕方で語っている(知識をもってはいるが使用していない人も、知識を使用している人も、「知っている」と言われるのである)。それゆえ、為すべきでない事柄にかかわる知識をもってはいるがそれを使用していない人と、知りつつ現に使用してもいる人では、違いがあるだろう。すなわち、後者の場合であれば空恐ろしいことと思われるが、もし使用していないで抑制のないふるまいをするなら、空恐ろしい異常なこととは思われないのである」

2017年12月30日土曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 28

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の110ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、ソクラテスは抑制のなさなどありえないと考えたいたと言う。

「最善の事柄を考えながら、それに反して行為する人などありえず、もしそうした行為が為されるとすれば、それは行為者の無知によるものだから、とかれは主張する」

「かれ」とは、ソクラテスのことである。

また、アリストテレスによれば、ソクラテスの主張について、部分的には同意しつつ、ほかの点では同意しないという人々もいる。

「この人々は、知識より強力なものは何もないという点ではソクラテスに同意するものの、より善いと信じられた事柄に反して行為する人などいないという点には同意しないのである。そこでかれらは、抑制のない人は、知識ではなく信念をもっているから快楽に負けると主張する」

2017年12月29日金曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 27

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の100ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、抑制や忍耐強さを論じるのに、人々に真理としてあらわれている事柄、人々の通念の真理性を明らかにする必要があると言う。そして、そのような人々の通念として五つ挙げる。

「まず、抑制や忍耐強さは立派で賞讃すべきものであり、抑制のなさや柔弱さは劣悪で非難すべきものである。また抑制のある人とは、自らの推理にしっかり留まる人と同じであり、抑制のない人とは自らの推理にそむく人と同じである」

「そして、抑制のない人は自らの行為を劣悪だと知りながら、感情によってそれを為し、これに対して抑制のある人は自らの欲望が劣悪だと知っていて、分別のおかげでそうした欲望に従うことがない」

「さらに、節制の人は抑制のある忍耐強い人だとされるが、しかし、抑制のある忍耐強い人がすべて節制の人なのかといえば、そう考える人もいれば、そう考えない人もいる。ほかにも、放埒な人は抑制がなく、抑制のない人は放埒な人だとして両者を同一視する人もいれば、区別する人もいる」

「そして、思慮深い人が抑制のない人であることはあり得ないと言われることもあれば、思慮深さがあって頭がよくても抑制のない人がいると言われることもある」

「また、激情や名誉や利得についても「抑制のなさ」が語られる」

2017年12月28日木曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 26

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の90ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、生まれついた自然の徳と本来の徳とを区別する。

「だれでもそれぞれの人柄は、なんらかの仕方で自然にそなわっていると考えられる。つまり、われわれは生まれてすぐに「正し」かったり、「節制」があったり、「勇気」があったり、あるいはそのほかの「人柄」がそなわっていると考えられる。しかし、それにもかかわらずわれわれは、本来のあり方での善いものをこのような「人柄」とはどこか別のかたちで探し求めており、そうしたものがこれらとは別の仕方で自分の身につくことを求めるのである」

そして、本来の徳は思慮深さなしには生まれないと言う。また、ソクラテスは、徳について正しいところと間違ったところがあったと言う。

「およそどの徳も思慮深さであるとした点でかれは間違っていたが、思慮深さなしに徳はありえないとした点では正しかった」

そして、徳とは、正しい分別を伴う性向であると言い、こうした事柄にかかわる正しい分別が思慮深さであると言う。

2017年12月27日水曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 25

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の80ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、物わかりについて、次のように語る。

「物わかりとは思慮深さをそなえていることでもなければ、思慮深さを獲得することでもない。むしろ、人が学問的知識を発揮して何かを知る際、「学び知る」ということが「わかる」という意味で言われるのと同様に、思慮深さがかかわる事柄について他人が述べたことを判別するために、しかも立派な判別をおこなうために判断能力を用いることが、物わかりだと言われるのである」

アリストテレスは、察しのよさとは、高潔な人の正しい判断のことであり、思いやりとは、公平な事柄を正しく判別する察しのよさのことであると言う。そして、次のように語る。

「われわれは、経験豊かな人々、年長者たち、および思慮深い人々による論証なしの発言や判断にも、論証に劣らず注意を払わなければならない。なぜなら、そうした人々は経験によって事態を正しく見抜く眼をそなえているからである」

アリストテレスは、知恵はいかなる種類の生成にもかかわらない、何のために思慮深さが必要とされるのか、といった問題に対して、次のように答える。

「知恵と思慮深さはそれぞれが魂の知的な二つの部分の徳であるので、かりにどちらも何も生み出さないとしても、それでもこれらは必然的にそれ自体で望ましいものでなければならない」

「知恵も思慮深さも何かを生み出しはする。ただし、医術が健康を生み出すようにではなく、健康が健康を生み出すように、知恵は降伏を生み出すのである」

「人間の働きは思慮深さと人柄の徳に基づいて果たされる。というのも、徳は目標を正しく定め、思慮深さはその目標に達するためのもろもろの事柄を正しく定めるからである」

2017年12月26日火曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 24

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の70ページ程度まで、読み進めた。

思慮深さの分類はややこしい。

「政治学と思慮深さは、魂の性向としては同じものだが、その本質は同じではない。国にかかわる思慮深さのうち、ひとつは統括的な思慮深さとして「立法術」と呼ばれるのに対し、もうひとつが個別的な事柄にかかわる思慮深さであるが、この意味の思慮深さが「政治学」という、両方に共通の名前で呼ばれている」

「自分一人にかかわる思慮深さこそが思慮深さだとも考えられる。そして、こちらの思慮深さにも「思慮深さ」という共通の名前が付けられている。これに対して、ほかの思慮深さのうち、ひとつは「家政」であり、もうひとつは「立法術」であり、さらにもうひとつは「政治学」である。そして政治学は審議術と司法術に分かれる」

考え深さについては次のように語る。

「長い時間をかけて思案して到達すべき事柄に達する人もいれば、迅速に到達する人もいる。したがって、あまりに時間のかかる思案も、まだ考え深いものではない。考え深さとはむしろ、有益さという観点からみて正しいもの、つまり、到達すべきものの点でも、到達すべき仕方の点でも、またそのためにかけるべき時間の点でも有益であるという意味で、「正しいもの」なのである」

2017年12月25日月曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 23

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の60ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは知性について次のように語る。

「もしほかのあり方を許容しない物事と、ほかのあり方を許容する物事についてわれわれを真理に到達させ、けっして誤らせることのないものが、学問的知識と、思慮深さと、知恵と、知性であるとすれば、そして、そのうちの三つは原理にかかわることが不可能だとすれば(わたしは「三つ」と言うことで、思慮深さ、学問的知識、知恵のことを言っている)、残る可能性は、知性がそうした原理にかかわる、ということである」

ほかのあり方を許容しない物事と、ほかのあり方を許容する物事とは、簡単に言うと、偶然的な物事と、必然的な物事のことだと、私は思っている。

アリストテレスは知恵と思慮深さについて次のように語る。

「知恵とは、自然本性上もっとも尊い事柄を対象とする、知性と結びついた学問的知識である」

「思慮深さは人間的な事柄にかかわり、思案の対象となりうるものにかかわる」

これは、先ほどの分類で言えば、偶然的な物事にかかわるのが思慮深さで、必然的な物事にかかわるのが知恵だということであるように思う。アリストテレス的に言えば、ほかのあり方を許容しない必然的な物事は、思案の対象にはならない。そして、思慮深い人とは、人間にとって最善の事柄を推理に基づいて目指す人のことである。思慮深さとはそういうものであり、知恵とは異なる。

2017年12月24日日曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 22

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の50ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、技術について、次のように言う。

「ほかのあり方を許容する物事には、制作されるものと、為されるものがある」

「技術と「真なる分別をそなえた、制作にかかわる性向」とは同じものであることになる」

次に、アリストテレスは、思慮深さについて、次のように言う。

「思慮深い人の特徴と考えられているのは、自分自身にとって善い、利益となるものについて、部分的にではなく立派に思案できることである。「部分的にではなく」とは、たとえば健康のためとか強靭さのためにどういったものが善いのかを思案するのではなく、人生全体として善く生きるためにはどういったものが善いのかを思案するということである」

「思慮深さは学問的知識でもなければ、技術でもないということになるだろう。思慮深さが学問的知識ではないのは、行為として為される物事が、ほかのあり方を許容するものだからである。また、思慮深さが技術ではないのは、行為と制作とは、別の種類のものだからである」

「思慮深さとは「人間にとっての善悪がかかわる行為の領域における、分別をそなえた真なる性向」である」

「思慮深さは、分別をそなえた性向にすぎないものでもない。その証拠に、そうした性向には忘却がありうるが、思慮深さには忘却はありえないのである」

2017年12月23日土曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 21

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の40ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、行為における真理を支配する能力は三つあり、それは知覚と知性と欲求であると言う。アリストテレスは、徳のある人間について次のように言う。

「人柄の徳とは選択にかかわる性向であり、選択とは思案的欲求であるのだから、したがってまさにこの理由から、選択がすぐれたものであるためには、分別は真実のもので欲求は正しいものでなければならないが、それだけではなく、分別が肯定するものと欲求が追求するものとが、一致してもいなければならない」

アリストテレスは、魂が真理を把握するような、そうした魂の性向は、数としては五つあるとする。それは、技術、学問的知識、思慮深さ、知恵、知性の五つである。そして、学問的知識は、必然的なものであり、したがって、それは永遠的なものでもあると言う。

2017年12月22日金曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 20

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の30ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、中間を選ぶのは正しい分別であると言う。しかし、それは真実ではあるが、何も明らかになっていないと言う。

「魂のさまざまな性向についても、たんに真実のこととして以上のことが語られているという事態に甘んじることなく、これに加えてさらに、「正しい分別」とは何なのか、そしてその基準とは何なのかということも規定しなければならないのである」

アリストテレスは、魂には分別をもつ部分と分別をもたない部分の二つの部分があると言う。分別をもつ部分にはさらに二つあると言う。

「ひとつは、存在するもののうち、ほかのあり方を許容しない原理に従っている事柄についてわれわれが考察するときにはたらかせている部分である。もうひとつは、ほかのあり方を許容する原理に従っている事柄についてわれわれが考察するとき、はたらかせている部分である」

「そして、これら二つの部分のうち、一方を「学問的に知る部分」、他方を「推理して知る部分」と呼ぶことにしよう」

2017年12月21日木曜日

日本の未来は明るい

日本の未来は明るいなどと言うと、何を言っているんだと思われそうな気はするが、ぼくは、実際に、日本の未来は明るいと思っている。

まず、少子化であるが、これは時間が解決する問題であるように思う。根拠を問われると、まったくないとしか言いようがない。しかし、ぼくは、この問題には楽観的である。大切なことは、子供を親が育てるだけではなくて、社会が育てるような仕組み、習慣を作ることであるように思う。

次に、デフレーションであるが、ぼくは経済の専門的な知識はないが、適切な物価に落ち着いているだけのことのように思う。100円ショップなどは、デフレーションに大きく貢献しているように思うが、とても便利であるように思う。このデフレーションは、商品開発の賜物であるという側面もあるように思う。

新しい商品というものが現れなければ、デフレーションが起こることは仕方のないことであるように思う。例えば、電気自動車が普及してくると、それはしばらくの間は、インフレーションに貢献するのではないかと思う。

2017年12月20日水曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 19

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。上巻の417ページ、最後のページまで、読み進めた。

アリストテレスは、自分に対する不正は不可能であると言う。例えば、自殺は自分に対する不正ではなく、国に対する不正であると言う。

「怒りにより自らの喉をかき切る人は、自発的に、正しい分別に反してそうしているのであるが、この行為を法は許容していない。したがってこの人は不正をなしていることになる。では、この人はいったい、いかなる相手に不正を為しているのだろう? むしろかれは国相手に不正を為しているのではないだろうか?」

私は、別の観点から、自分に対する不正は不可能であることはあり得ることであるように思う。なぜならば、ある側面から不正であることであっても、それを行為することは何らかの意味で正しいことであり得るからである。このことは、アリストテレスも否定してはいないように思う。

2017年12月19日火曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 18

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。上巻の410ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、「自発的に不正をされることがあるか?」、「自分自身に不正を為すことは可能か?」について問う。アリストテレスによれば、それらは可能だということである。

「もし不正を為すこととは単に限定ぬきに「自発的に或る人に損害を与えること」であり、また自発的な事柄とは、だれを相手に、どのような手段で、どのように為すか知っていて為すことであり、そしてまた抑制のない人は、自発的に自分自身に損害を与えるのなら、そのような人は自発的に不正をされることになるだろうし、自分自身に不正を為すことは、可能だということになるだろう」

私はこの考え方に充分に賛成はしない。自発的に自分自身に損害を与えるとしても、それは何か理由あってのことであるから、ある意味では、正しいことであると言えるように思う。どちらにしても先の疑問は、私にとっては、疑問のままである。

そして、アリストテレスは、衡平と正しさの異なりについて次のように述べる。これは常識的な考え方であるように思う。

「衡平は正しさであるが、法に基づいたものではなく法的な正しさを是正するような正しさである」

2017年12月18日月曜日

閉塞感のない社会

現代の日本は、閉塞感のある社会だとよく言われているように思う。なぜだろうか。昔の日本は、それほどは言われていたなかったように思う。やはり、経済成長が頭打ちになったことが原因であろうか。経済成長だけの問題ではないのかもしれない。自殺者数の推移を見ると、ここ10年程度は下がってきているようである。しかし、20年ほど前に大きく上がったようである。

閉塞感を感じている世代というものがあるのかもしれない。バブルの景気が子供のころに終わった世代、ちょうど私くらいの世代がそれにあたるのかもしれない。団塊の世代と呼ばれている世代も景気と不景気と両方を経験しているので、閉塞感を感じている世代なのかもしれない。団塊の世代は、壮年期に不景気を迎えているので、こちらの方がより閉塞感を感じている世代なのかもしれない。

しかし、個人的には、日本の社会が閉塞しているという考え方には反対である。そのようなものはものの見方一つで変わるようなものであるように思うから、肯定的な見方で未来を見てほしいという風に思う。

個人的な考えでは、日本の社会が閉塞しているという考え方は、10年くらい前がピークであったように思う。最近、少しずつ変わってきているように思う。何が原因であろうか。多分、そのような状況に慣れてきたのではないかと思う。実際に閉塞感を吹き飛ばすような何かがあったようには思わない。多分、最近の10代は、閉塞感という言葉を聞き慣れていないのではないかと思う。いい傾向ではないかと思う。

どちらにしても閉塞という言葉はよくないように思う。失われた10年だか20年だか、そういう言葉もあったように思うが、それもよくない言葉であるように思う。あまりに経済偏重な見方ではないだろうか。

言葉というものは大事であるように思う。言葉が変われば、行動が変わる。そういう風に思う。未来とは、未だ来ないもののことである。どうせだったら、よい風に考えたいものだ。

2017年12月17日日曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 17

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。上巻の390ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、「正しさ」は「限定ぬきの正しさ」と「国における正しさ」の両方の意味があると言う。

「「国における正しさ」とは、自足のために生活をともにしている人々のあいだに成り立つ正しさのことであり、そのような人々は自由であると同時に、比例関係に基づいて等しいにせよ数の点で等しいにせよ、互いに平等である」

アリストテレスは、国における正しさには、自然本性的なものと法的なものがあると言う。しかし、或る人々は、すべてのことは取り決め次第で動き、自然本性と関係しないことであると言う。それに対して、アリストテレスは次のように言う。

「この点は、かれらの言うようにはなっていないのだが、或る限定された意味ではそうなっているとも言える。たしかに、いやしくも神々のもとではかれらの言うようなことは、おそらくまったくないのに対し、われわれのもとでは、自然によるものはなんらかあるとはいえ、すべてはゆらぐのである」

次に、アリストテレスは加害を三種に分ける。過失と不正行為と不正の悪徳による不正行為の三種である。過失とは、不条理ではないが、そこに悪徳がからんでいるのでもない場合であり、不正行為とは、知っていて、しかしあらかじめ思索したわけではない場合であり、不正の悪徳による不正行為とは、自分の選択からだれかに害を加えた場合である。

2017年12月16日土曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 16

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。上巻の370ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、もう一種類の正義として、矯正的正義について語る。矯正的正義とは次のようなものである。

「利得と損害では「より多いもの」と「より少ないもの」が互いに反対の関係になっていて、善がより多く、悪がより少ないのが利得であり、その反対が損害である。そして、等しさとはこの両者の中間であって、このような等しさのことをわれわれは「正義」と言っている。したがって、是正することの正義とは、損害と利得の中間であるということになるだろう」

私の考えでは、この矯正的正義は、民事裁判では有効であるように思うが、刑事裁判で有効であるかどうかについては疑問が残る。

アリストテレスは応報を正義と考えることには否定的である。しかし、それが共同の絆になることもあると言う。

「交換をおこなっている人間同士の共同においては、この種類の正義、すなわち等しさによらないで比例関係に基づいて応報する正義が、共同の絆になっている。なぜなら、人々が比例関係に基づいてお返ししあうことにより、国家は維持されてゆくからである」

訳注によれば、この種の正義は、第三の正義と言えるかどうか、解釈が分かれるそうである。

そして、アリストテレスによれば、事物の交換のために必要となるものが貨幣である。アリストテレスは貨幣について次のように述べる。

「すべてのものを結びつけているそのひとつのものとは、必要なのである。なぜなら、人々が何も必要としないとか、同じようには必要としないなら、交換が成り立たなくなるか、あるいは同じ交換というものが成り立たなくなるかだからである。そして、その一方で、貨幣は取り決めにより、いわば、当事者たちの必要を交換可能なかたちで代理するものとして生まれたのである」

私の考えでは、人にとっての価値は、貨幣のように均質なものではなくて、それぞれのものである。人は、自分の持っている事物よりも、相手の持っている事物の方が価値が高いと感じれば、それを交換したいと思うであろう。そして、その価値感は、人それぞれであるように思う。

2017年12月15日金曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 15

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。上巻の350ページ程度まで、読み進めた。

ここでは、アリストテレスは正義の徳について語っている。正義の徳の特徴は、「他人のものである善」であると語っている。

「正義の徳はもろもろの徳のうちでただひとつ「他人のものである善」であると思われている。それは、他人との関係におけるものだからである。なぜなら正義の徳は、支配層のためであれ、共同体の仲間のためであれ、他人にとって有益な事柄を為すからである」

まず、アリストテレスは、徳の部分としての正義の徳を探求すると言う。そして、部分的と言える正義の徳が存在するように、部分的な不正の悪徳も存在すると言う。

「人柄におけるほかの不良性に基づいて活動をおこなう人は、「不正」を為してはいるのだが、なんら貪欲なことを為していない。たとえば、臆病さゆえに盾を投げ捨てた人間や、苛立ちやすさゆえに悪口を言う人間や、さもしさゆえに財貨で他人を援助しなかった人間がそうである。他方、人が貪欲に、より多く取るとき、しばしば、これらのほかの不良性のどれひとつにも基づいておらず、また不良性全部あわせてそれらに基づいているというわけでもないのだが、しかし、たしかになんらかの不良性には基づいているのであり(なぜなら、われわれはその人を非難するからである)、つまり「不正」に基づいているのである」

部分的正義の第一の種類は、配分的正義というものである。配分的正義とは、その価値に比例して、その事柄を配分するというものである。訳注によると、例えば、部長が課長の1.3倍の働きがあるとき、部長に課長の1.3倍の給料を出せば正しい配分になる。1.5倍や1.0倍の給料にすると正しくないことになるということである。

2017年12月14日木曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 14

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。上巻の330ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスによれば、滑稽さにおいて超過する人は、「悪ふざけの人」や「低俗な人」であり、滑稽なことを言う人に機嫌を損ねるような人は、「野暮ったい人」や「堅苦しい人」であり、そして、ぴったりふさわしい冗談を言う人は、「機知に富んだ人(エウトラペロス)」と呼ばれる。機知は、娯楽における中間性の徳である。

機知は中間性の徳だったのか。確かに、機知というものは、むずかしいように思う。機知には、正解がないような気もする。これを中間性と言って良いのかどうかは私にはわからない。原語を知らないから充分に理解できていないのかもしれない。ふざけるときはふざけるし、しっかりするときはしっかりするということであろうか。そこの見極め方が、中間性なのかもしれない。

次に、アリストテレスが挙げるのは羞恥心である。アリストテレスによれば、羞恥心は徳ではない。羞恥心は「不名誉に対する一種の恐怖」と規定され、これは、性向というより、感情に似たものであり、徳は性向だからである。どうやら、徳のある人は、羞恥心を感じずに、節制を持って行為するということのようである。

2017年12月13日水曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 13

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。上巻の320ページ程度まで、読み進めた。

人柄の徳についての話が続いている。ここで、まず、アリストテレスが挙げる徳は、名前のない徳である。その両極は、「へつらう人」と、「目くじらを立てる人」あるいは「口やかましい人」である。名前のない徳ではあるが、この性向にもっとも近い言葉は、「フィリア(真の友人らしい篤実さ)」であるということである。

フィリアについては、次のように述べられる。

「この人がしかるべき仕方で[ほかの人々と]つきあうだろうということ、そして、かれは[あくまで]美と有益性を考慮に入れた上で相手にいやな思いをさせないことを、あるいは相手が気持ち良くやれる助けとなれることを目指すだろう」

「大言壮語」と「自己卑下」の中間性も名前がないとされる。しかし、訳者によると、日本語では「正直」や「誠実」が、この徳にある程度近いということである。この「自己卑下」は、ギリシア語では「エイローネイア(空とぼけ)」と言い、ソクラテスもこの態度の人であると言われたということである。

2017年12月12日火曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 12

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。上巻の300ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスによれば、志の高さもまた徳である。例によって、この徳は中間性であり、その超過は「うわべだけの人」であり、その不足は「卑屈な人」である。志の高い人はどのような人であるかと言うと、自分が大きなことに値する者であるとみなし、しかも実際にそうである人だということである。

志の高い人は、現代で言えば、(徳のある)有名人みたいなものではないかと思う。彼らの中には、まさに志の高い人が幾人もいるのではないかと思う。そう考えると、私も含めて、庶民にはあまり関係のない徳だと言えるかもしれない。ちなみに、志の高い人は、ギリシア語で「メガロプシュキア」であり、直訳すると「大きな魂の人」である。まあ、しかし、大きな魂の人になりたいものではある。

志の高い人については、次の文章が印象的であった。

「志の高い人は他人を軽んじ、そしてそれは正当なことであるのに対し(かれの判断は真実のことだから)、多くの人々が他人を軽んずるのは、その人々の勝手にすぎないからである」

この文章は、「志の高い人」ではなく、原語の直訳である「大きな魂の人」を知らないと、上手く理解できないように思う。

アリストテレスによれば、温和さは、もろもろの怒りにかんする中間性である。ただし、中間はじつは無名であり、便宜的に「温和さ」を中間のものに適用しているとのことである。その超過は「苛立ちやすさ」であり、その不足は、名前がないようではあるが、「愚か者」や「無感覚」と言及されている。アリストテレスは、この中間性である「温和さ」を徳として説いている。

2017年12月11日月曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 11

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。上巻の280ページ程度まで、読み進めた。

この本は倫理についての本であるが、本を読んで倫理的な人間になることはできるのであろうか。この問いは、根本的な問題で、プラトンの「メノン」にも出てきた問いである。例えば、徳は中間性であることを理解したとして、その最善を行くことができるのであろうか。多分、実践の中で徳が磨かれて、そのような行為に近づいて行くのであるように思う。結局、自分で考えて生きることが大切であることには、変わりはないように思う。

さて、ここでは、アリストテレスは物惜しみのなさという徳について語っている。物惜しみしない人は気前の良い人であるが、気前の良い人だからといって、それで物惜しみしない人であるというわけではないようである。

「物惜しみのなさ」という中間性に対して、その不足は「物惜しみ」と呼ばれ、その超過は「俗悪さ」あるいは「趣味の悪さ」のように呼ばれるということのようである。原文では、「物惜しみのなさ」は否定形ではないようではあるが。物惜しみしないということは、財貨のある人間にしかできない、特殊な徳ではあるように思う。

物惜しみしない人は自分自身のために出費する人ではなく、公共性のある事柄のために出費する人のことであるようである。例えば、奉納物や祭儀の設備や供犠、同様に宗教的なことにかかわる行事全般が、それであるようである。

古代のギリシアでは、宗教的な行事に出費することが、徳のある行為であったようである。現代の日本とは、随分と事情が異なるように思う。私の周りでは、宗教的な行事に出費する人は、ほとんど聞いたことがないし、それが、特に徳のある行為だとも思わない。それだけ、時代も国家も違ってしまっているということであろう。現代の日本では、このような出費は、災害時や貧困国に対する支援が、まず思い起こされるように思う。

2017年12月10日日曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 10

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。上巻の260ページ程度まで、読み進めた。

ここでは、アリストテレスは、いくつかある人柄の徳のうちに一つである、気前良さについて論じている。例によって、気前良さは中間性であり、その超過と不足は浪費とさもしさである。

個人的には、勇気と節制に比べると、気前良さが中間性であるということは納得できる。支払いすぎるのは浪費だし、支払わなさすぎるのはさもしさである、確かに。

とは言え、個人的には、財貨を贈与することはほとんどしないし、それがさもしいことなのかと言われれば、納得できないところもあるように思う。

また、やはり、気前良さが中間性であるということは、少し納得できないところがあるようにも思う。私の考えでは、気前の良いということは、他人によく奢るということである。ここに、「よく」という曖昧な言葉があるので、程度が重要であるということには納得できるのだが。やはり、この徳は中間性なのかもしれない。

2017年12月9日土曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 9

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。上巻の240ページ程度まで、読み進めた。

ここでは、アリストテレスは、人柄の徳の一つとして、節制を取り上げる。アリストテレスによれば、節制は、快楽と苦痛をめぐる「中間性」である。快楽と苦痛の「超過」は「放埒」であり、快楽の感じ方が足りない者は、それほど多くないため、このような類型の人間には名前がない。

私の考えでは、節制とは、短期的な快楽よりも長期的な善を優先することであるように思う。勇気の場合でもそうであったが、アリストテレスとは考え方が異なる。私の考えでは、節制は「中間性」ではないように思う。

どうしてこういうことが起こるのであろうか。アリストテレスの、徳とは「中間性」であるという考えが間違っているのであろうか。そうではないように思う。「中間性」であるようには思えなかった私の考えが、実は、「中間性」であったということは、ありそうなことである。どちらでも語り得ることであるということは、ありそうなことであるように思う。このことについては、もっと考えてみたい。

2017年12月8日金曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 8

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。上巻の220ページ程度まで、読み進めた。

ここでは、アリストテレスは、人柄の徳の一つとして、勇気を取り上げる。アリストテレスによれば、勇気は、「恐れ」と「自信」の大きさの中間性である。

私の考えでは、勇気とは、正しく逃げないことである。ただ逃げないことだとすると、アリストテレスの言うように、向こう見ずな人が含まれてしまうように思う。

正しく逃げないことは、簡単なようで、難しいことである。正しさが伴っていないといけないからである。そして、それは、物理的な場合もあるし、心理的な場合もある。

正しく逃げることというのは、何と呼んで良いのかはわからないが、大抵の場合、物理的なことであるように思う。物理的に危機に面しているときに、正しく逃げるということがあり得るように思う。

心理的に正しく逃げるということも、あり得ないことではないように思うが、なかなか想像が付きづらいように思う。それよりは、正しく逃げないこと、つまり勇気、の方がよくあることであるように思う。正しく向き合って、解消すること、その前段階が勇気であるように思う。

そう考えると、私は、徳とは中間性であるというアリストテレスの見解について、一つの例ではあるが、反例を挙げていることになる。正しく逃げないということは、中間性だとは思われないからだ。このことについては、もっと考えてみたい。

2017年12月7日木曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 7

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。上巻の200ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、徳も悪徳も自発的なものであると言う。

「こうして、目的が願望の対象であり、思案および選択の対象は目的のための事柄であるので、それらにかかわる行為は、選択に基づいた自発的なものである。さまざまな徳のはたらきはこうした事柄にかかわっている。こうして、徳はわれわれ次第であり、悪徳も同様である」

徳については、まとめて、次のように語る。

「徳とは、中間性であるということ、特定の行為から生じる性向であるということ、自らに基づいて為されるものであるということ、われわれ次第でありそして自発的なものであるということ、そして正しい理由が命じるところに従うものであるということ」

上巻のこのようなところで、結論のようなことが出てしまって良いのであろうか。ここからは、しばらくは、個別的な徳について語られるようではある。

2017年12月6日水曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 6

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。上巻の180ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは徳について次のように語る。

「徳は感情と行為にかかわるのだが、それらが自発的な場合には賞讃と非難が生じ、他方で意に反したものの場合には赦しが、そして時には憐れみまでもが生じる」

このようにして、自発的な行為と意に反した行為を分ける。

そして、選択について次のように語る。

「選択が自発的なものであることは明らかだが、だからといって自発的なものと同一の事柄というわけでもなく、選択よりも自発的なもののほうが範囲としては広い」

「選択された対象とは、われわれ次第のもののうちで、思案され欲求されたものであるのだから、選択とは、われわれ次第のものへの思案的な欲求ということになるだろう。われわれは、思案した上で判定した場合に、思案に基づいて欲求しているのである」

このように選択というものについて、重きを置く。

2017年12月5日火曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 5

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。上巻の160ページ程度まで、ちょうど第二巻の「人柄の徳の総論」まで、読み進めた。

要点を述べると、昨日と重なる部分はあるが、人柄の徳は「中間性」であるということである。しかし、「中間性」は言葉で規定することは容易ではないと言う。

「立派にやることから小さく外れた人は、問題の外れが超過だろうが不足だろうが、非難されない。しかし大きく外れた人は非難される。そのような人は目立ってしまうからである。だがそれでは、どの程度までが、どの範囲で非難されるか? ――これも、言葉で規定するのは容易でない。というのも、知覚されるようなほかのものにしても、同様に言葉で決めてゆくことは容易でないからである。なぜなら、こうしたものはすべて個別的なものであって、個別的なものの判別は知覚にゆだねられているからである」

「中間性」は、実際の場合には、個別的なものであるから、言葉で規定することは容易ではないということであろう。

2017年12月4日月曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 4

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。上巻の140ページ程度まで、読み進めた。

途中、大切なことがさらっと述べられた。

「魂のなかにあらわれるものは感情と能力と性向の三つであるので、徳はこれらのどれかであることになる」

この三つしかないのであろうか。随分と動物的な魂であるように思う。ロゴスなどはどこに入るのであろうか。

そして、アリストテレスが言うには、徳とは、

「選択を生む性向であり、それはわれわれにとっての中間性を示す性向である」

ということであり、ここでの中間性とは、

「[その人の]分別によって中間性と定まり、かつ思慮深い人ならば中間性と定めるような定め方において定まるものである」

ということである。

中間性という言葉がキーワードであるように思う。さまざまな徳は、超過と不足に対する中間性として理解されるようである。例えば、怒りについては、中間性は「温和さ」であり、超過は「苛立ちやすさ」であり、不足は「ふぬけ性」であるということである。このように、徳は、中間性によって理解されるようである。

2017年12月3日日曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 3

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。上巻の120ページ程度まで、読み進めた。

文章は平易なのではあるが、内容はややこしい。当然のことを言っているようにも思うのではあるが、なかなかすんなりとは入ってこない。

この辺りは、徳に関する記述が主である。例えば、次のようなことを言っている。

「そしてわれわれは、さまざまなはたらきに伴って感じる快楽と苦痛を[魂の]もろもろの性向がいかなるものかを明かしてくれる徴とすべきである」

そして、次のようなことを言う。

「実際、身体的快楽を慎み、かつ慎むことそのことに喜びを感じる人が節制の人であり、慎むことなどいやだと苦痛に感じる人は放埒な人である。また、恐ろしいことにも踏みとどまり、かつそのことを喜ぶか、あるいは少なくともそのことをいやだと感じないような人が、勇気ある人であり、踏みとどまることはいやだと苦痛に感じる人は、臆病な人である」

このように、人間の徳は、快楽と苦痛にかかわりをもつようなものであるということである。

2017年12月2日土曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 2

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。上巻の100ページ程度まで、読み進めた。

まだ、この本を読み進めて間もないし、これからおもしろくなっていくのだろうと思っているが、とりあえず、引っかかったところは、幸福は賞讃よりも祝福の方がふさわしいという部分である。引用する。

「最善のものには[賞讃より]もっと偉大でもっと素晴らしいものがふさわしいことは明らかであり、事実そのように思われているのである。実際、われわれは神々と、人間のなかでももっとも神的な人たちを「祝福」し、「幸福と呼んでいる」のである。そしてこれは、さまざまな善の場合も同様である。正義を賞讃するようにして「幸福を賞讃する」人はだれもおらず、より神的でより素晴らしいものとして幸福を「祝福する」のである」

そして、アリストテレスは、幸福は、完全な徳に基づく魂のなんらかの活動であると言う。そして、さらに、徳は、知的な徳と人柄の徳に二分されると言う。

ここまでが、第一巻、「幸福とは何か――はじまりの考察」で、次からは、第二巻、「人柄の徳の総論」となる。