2018年4月24日火曜日

アリストテレス「形而上学」 61

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の下巻を読んでいる。75ページ程度まで、読み進めた。

第十巻第五章では、アリストテレスは、等の概念について考察する。

「一つのものに対してはただ一つの反対のものがあるだけなので、ひとは、どうして一と多とが対立するのか、またどうして等がより大またはより小に対立させられるのであろうか、という難問を提出するであろう」

「等は、大でもなく小でもないがしかし大でもあり小でもあるように自然的にそうできている、そして等はこれら両者に対して欠除的否定として対立しているものである、それゆえに、また、両者の中間のものでもある」

私が思うのは、等の本質は一、不等の本質は二であるということだ。

第十巻第六章では、アリストテレスは、一と多について考察する。もしも多が一に対して端的に対立しているものであるとすると、そこから幾つかの不可能な結論が出てくると言う。(1)一は少である、(2)二が多である、(3)小も或る多さである。そして、多は数を意味する場合に限り、一に対立していると言う。この意味においては、二もまた多である。それは、第一の多さとしてである。しかし、端的には二は少であると言う。

2018年4月23日月曜日

アリストテレス「形而上学」 60

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の下巻を読んでいる。70ページ程度まで、読み進めた。

第十巻第三章では、アリストテレスは、一と多について考察する。そのうちの一つの仕方は、一と多さの対立であり、これは不可分割的なものと可分割的なものとの対立である。一には、同、類似、等などの諸義があり、多さにも異、不類似、不等あんどの諸義がある。

第十巻第四章では、アリストテレスは、差別概念について検討する。まず、最大の差別性は反対性であることは明白であると言う。そして、事物の対立の仕方に、矛盾と欠除と反対性と相対関係とがあるとすると、欠除は一種の矛盾であり、反対性は一種の欠除であると言う。

2018年4月22日日曜日

アリストテレス「形而上学」 59

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の下巻を読んでいる。65ページ程度まで、読み進めた。

第十巻第二章では、アリストテレスは、「一」の実体すなわちその自然に関して、考察する。

「一というのはいずれの類の存在においても或る一定の自然のことであるが、そのいずれにおいてもそれの自然はこの一そのものではない、そうではなくて、あたかも諸々の色の場合に我々の探求すべき一が或る一つの色であったように、そのように実体の場合にも、一そのものは或る一つの実体なのである」

2018年4月21日土曜日

アリストテレス「形而上学」 58

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の下巻を読んでいる。60ページ程度まで、読み進めた。

第十巻第一章後半では、アリストテレスは、「一つ」であると言われるものについての考察を進める。

「「一つである」ということが、最も厳密には、その語義に忠実に定義する者にとっては、或る尺度であり、ことに最も主として量の尺度であり、つぎに性質の尺度である、ということは明白である、そして、なにものかがそうした尺度でありうるのは、そのものが量において、あるいは性質において、不可分割的なものである場合にである。こうしてそれゆえに、「一つ」であると言われる事物は、その事物がそのまま端的に不可分割的であるか、あるいはそれが或る一つのものであるかぎりにおいて不可分割的である」

2018年4月20日金曜日

アリストテレス「形而上学」 57

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の下巻を読んでいる。55ページ程度まで、読み進めた。

第十巻第一章前半では、アリストテレスは、「一つ」であると言われるものについて考察する。「一つ」であると言われるものは、四つの意味があると言う。(1)連続的なもの、とくに接触によってでもなく紐によってでもなく自然に連続的なもの、(2)全体的なもの、或る一定の型式または形相を有するもの、(3)数における個別的な説明方式、(4)形相における知識や認識のうちにあるもの。このように、一つであると言われるのは、自然的に連続的なものと全体的なもの、および個別的なものと普遍的なものである。

2018年4月19日木曜日

アリストテレス「形而上学」 56

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の下巻を読んでいる。50ページ程度まで、読み進めた。

第九巻第九章では、アリストテレスは、現実態は、善い可能態よりもさらにいっそう善くあり、さらにいっそう貴重であると言う。なぜなら、可能態はその反対のもののどちらでもありえるからである。そして、悪い物事の場合には、それの終りすなわち現実態の方が可能態よりもいっそう悪いと言う。

第九巻第十章では、アリストテレスは、物事の真偽についての、「ある」と「あらぬ」について考察する。まず、必然的であることは、真であるか偽であるかのどちらかであるが、偶然的であることは、真でもありえるし偽でもありえると言う。そして、非複合的事物の場合には、真というのはその事物を知っていることであって、ここには偽はなく、あやまりもなく、ただ無知があるだけであると言う。

2018年4月18日水曜日

アリストテレス「形而上学」 55

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の下巻を読んでいる。45ページ程度まで、読み進めた。

第九巻第八章では、アリストテレスは、現実態が可能態よりも先であることを論じる。まず、説明方式において現実態の方が先であることは明らかであると言う。時間においては、その種において可能的なものと同一であるところの現実的なものは、より先である。しかし、数においては先ではない。例えば、たねなどがそうである。そして、現実態は、実体においても、より先であると言う。また、イデア論について、次のような批判をする。

「もしもあの概念規定を事とする人々がイデアと呼んでいるような或るなんらかの実在または実体があるなら、学問それ自体よりも遥かにいっそう多く学問的ななにものかが存在し、運動それ自体よりもいっそう多く運動しているなにものかが存在しているというようなことになろう、というのは、これらのものの方がむしろいっそう多く現実態であって、あれらのイデアどもはかえってこれらのものへの可能態たるにすぎないからである」

2018年4月17日火曜日

アリストテレス「形而上学」 54

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の下巻を読んでいる。40ページ程度まで、読み進めた。

第九巻第七章では、アリストテレスは、可能態について検討する。まず、思想によってそう成る事物の場合には、妨げるものがないことが条件である。そうであれば、家の材料は可能的に家である。だが、それ自らの内部にその実現の原理をもっている事物の場合には、外部からそれを害するなにものもないかぎり、すべてそれ自らで現実的なそれになりえる。たとえば、精子は、まただそれだけでは可能的に人間であるとは言えない。注入され胎児に転化する必要があるから。それ自らの原理によって然るべき属性を具えたものであるとき、それがまさに可能的にそれであると言える。

2018年4月16日月曜日

アリストテレス「形而上学」 53

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の下巻を読んでいる。35ページ程度まで、読み進めた。

第九巻第四章では、アリストテレスは、可能なものについて検討する。「ものは存在することの可能なものである、しかし存在しはしない」と言うことは真でありえないことは明白であると言う。

第九巻第五章では、アリストテレスは、能力について考察する。まず、能力は、その或るものは生得的な能力、或るものは習性によるもの、或るものは学習によるものであると言う。そして、習性による能力または理性による能力をうるためにはそれに先だつ現実的活動が必要であると言う。そして、次のように言う。

「理性によっての能のあるものは、かれが、まさにその物事についての能力を自らもっているところのその物事を欲求しており、且つその能力に適応した事情のもとにおるときには、その物事をなすこと必然である」
瘠身

第九巻第六章では、アリストテレスは、エネルゲイア(現実活動・現実態)について述べる。現実態とは、「見ておった」ことと「見ている」こと、「思惟している」ことと「思惟していた」ことのように、現在進行形と現在完了形とが同時的な過程のことである。そうでない過程を運動と言う。

2018年4月15日日曜日

アリストテレス「形而上学」 52

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の下巻を読んでいる。30ページ程度まで、読み進めた。

第九巻第三章では、アリストテレスは、メガラの徒の学説について、反駁する。

「それによると、なにものも、ただそれが現に活動しているときにのみそうする能があるのであって、活動していないときにはその能力がない、たとえば、現に建築していない者は建築する能がなく、ただ建築する者が建築活動をしているときにのみそうする能がある」

これは明らかに不合理であろう。現に建築していないならば建築家ではないということになるからである。

2018年4月14日土曜日

アリストテレス「形而上学」 51

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の下巻を読んでいる。25ページ程度まで、読み進めた。

第九巻第一章では、アリストテレスは、ディナミスについて、そして、まず能力としてのディナミスについて、説明を始める。

「同じ種に属するそれらは、いずれもみな、或るなんらかの原理であり、それぞれ或る一つの第一の原理との関連においてディナミスと言われるのである、そしてこの原理というのは、他のもののうちにあり、または他のものとしてのそのもの自らのうちにあるところの、それの転化の原理のことである」

そして、能動と受動とは、或る仕方では、一つであるが、或る仕方では、別々であると言う。

第九巻第二章では、アリストテレスは、理性について検討する。まず転化の原理の或るものは無生物のうちにあり、他の或るものは生物のうちにあり、霊魂のうちにあり、霊魂の理性を有する部分のうちにあると言う。だから、能力も、その或るものは非理性的であるが、他の或る能力は理性を伴うものである。そして、認識を有するものは相反する両方の物事を作り出すと言う。

「相反する二つの物事が同じ一つのもののうちに生じることはありえない、しかるに、認識は説明方式を有することのゆえに或る能力なのであり、そして霊魂は運動の原理を含有している、健康によいものはただ健康のみを作り出し、熱くするものはただ熱さのみを、寒くするものはただ寒さのみを作り出すのに、認識を有する者は相反する両方の物事を作り出す。そのわけは、説明方式が、同様の仕方ではないにしても、とにかくその両方に関係するものだからであり、運動の原理を含有する霊魂のうちにあるものだからであり、だからしてかれの霊魂は、この同じ原理から発し、両方をこの同じ説明方式で連関させて、相反する両方の運動をひきおこしうるのである」

2018年4月13日金曜日

アリストテレス「形而上学」 50

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。最後まで、読み進めた。

第八巻第六章では、アリストテレスは、「人間」は、たとえば「動物」と「二本足」のような多ではなくて、何故一なのであるかという問題について検討する。

「事物の最も近い質料とその型式とは、前者は可能的に、後者は現実的に、同じであり一つである、だからあたかも一の原因はなにかと問い、さらにその一であることの原因はなにかと問い求めるごときである。というのは、すでに各々の事物はそれぞれ或る一つのものであり、その可能的なあり方と現実的なあり方とはなんらか一つなのであるから。それゆえに各々の事物をその可能態から現実態へと動かす者があるという以外には、他になんらの原因もない。だが質料を有しないものはすべて無条件的に全く一つのものである」

2018年4月12日木曜日

アリストテレス「形而上学」 49

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。310ページ程度まで、読み進めた。

第八巻第四章では、アリストテレスは、質料的実体について語る。

「質料的実体に関して我々の忘れてならないことは、たとえすべての事物が同じ一つの第一のものから生じ、または同じものどもをそれら諸事物の生じる第一の諸原因としているとしても、すなわち同じ質料がそれらの生成の原理として働いているとしても、しかもなお各々の事物にはそれぞれに最も近い固有の或る質料があるという事実である」

現代的に言えば、素粒子、原子、分子など、質料には粒度があるということであろう。

第八巻第五章では、アリストテレスは、相反する事物の質料について語る。

「相反するものどもに対してそれぞれの事物の質料はどのような関係にあるか」

「なにゆえに酒が、酢の質料ではなく、また可能的にも酢ではないのか?」

「生者も可能的には死者であるのではないか?」

「これらの消滅態は酒または生者にとっては付帯的にであって、ただ生者の質料が、その所有態の消滅のゆえに、それ自ら、死者の可能態なのであり質料なのである、そのように酒の質料なる水が酢の質料なのである」

2018年4月11日水曜日

アリストテレス「形而上学」 48

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。305ページ程度まで、読み進めた。

第八巻第三章では、アリストテレスは、実体についてさらに語る。

「語節がたんに幾つかの字母と複合とから成るものでもなく、あるいは家が煉瓦その他と複合とから成るものではない」

「なぜなら複合そのことや混合そのことは複合されまたは混合されてその事物を成したところの諸要素から成るものではないからである」

「人間も、実は、たんにただ「動物と二本足と」であるのではなくて、かえって、もしこれらが質料であるとすれば、これらより以外になお或るなにものかが存在しなくてはならない、しかもこの或るなにものかは、人間の構成要素でもなく構成要素から成るものでもなくて、これこそその実体である」

2018年4月10日火曜日

アリストテレス「形而上学」 47

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。300ページ程度まで、読み進めた。

第八巻第一章では、アリストテレスは、実体について総括する。一般に認められている実体とは、自然的諸実体、すなわちたとえば、火、土、水、空気およびその他の単純物体、つぎに植物とその諸部分、動物とその諸部分、そして天界とその諸部分である。また、或る人々は、独自の見地から、諸々のエイドスや数学的諸対象を実体であると説いている。普遍も類もともに実体ではないということは既に語られた。非感覚的であるイデアと数学的諸対象とに関しては、後に検討されなければならないと言う。

感覚的事物の基体をなしている質料としての実体は一般に認められているものどもであるが、これは可能的存在としての実体である。第八巻第二章では、アリストテレスは、感覚的事物の現実的存在としての実体がいかなるものであるかについて述べる。たとえば、アルキタスは次のように語る。「ネーネミア(空のおだやかさ)」とはなにか? それは「空気の大きな広がりにおける静けさ」である。ここでは、「空気」は質料であり、「静けさ」は現実態であり実体である。あるいは、「ガレーネー(海のおだやかさ)」とはなにか? それは「海の面の滑らかなこと」である。ここでは、「海」は質料であり、「面の滑らかさ」は現実態であり実体である。感覚的実体には、このように、質料、現実態である型式、そして両者から成るものがある。

2018年4月9日月曜日

アリストテレス「形而上学」 46

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。295ページ程度まで、読み進めた。

第七巻第十六章では、アリストテレスは、イデア論を批判する。

「エイドスを語る人々は、それらを離れて存在するものと説いているが、いやしくもそれらが実体であるかぎり、この点ではかれらは正しい、しかし、かれらは、「多くのものの上に立つ一つのもの」がエイドスであると説いている点では、正しくない。その正しきをえなかった理由は、実際にどのような事物があのような実体——すなわち個別的な感覚的実体とは別に存在する不滅な実体——であるかをあげ示すことが、かれらにはできなかったからである」

第七巻第十七章では、アリストテレスは、実体についてさらに検討する。

「(1)それが或る一つの要素である場合には、ここでもふたたび、いま我々の述べたのと同じ論が当てはまる、すなわち、たとえば肉は、この或るなにものかとあの火と土とから成るということになり、こうして無限に至るであろう。しかしまた、(2)その或るなにものかが或る要素から成るものだとすれば、それは明らかにただ一つの要素からではなくて一つより多くの要素から成っているはずである」

2018年4月8日日曜日

アリストテレス「形而上学」 45

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。290ページ程度まで、読み進めた。

第七巻第十五章では、アリストテレスは、まず、実体は結合体と説明方式の二種に区別されると言う。そして、結合の意味での実体には生成や消滅があるが、説明方式には生成も消滅もないと言う。そして、個別的な感覚的諸実体には、定義も論証も存在しないと言う。なぜなら、消滅しうる事物は、それの認識を有する者にとっても、それが感覚範囲から消え去ったときには、不明瞭だからであり、そして、たとえその事物の説明方式は霊魂のなかにそのまま保存されていても、もはやそれの定義も論証もありえないであろうからである。そして、いかなるイデアも定義されえないと言う。なぜなら、イデアも、イデア論者によれば、一種の個別的なものであり離れて存するものであるからである。

2018年4月7日土曜日

アリストテレス「形而上学」 44

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。285ページ程度まで、読み進めた。

第七巻第十四章では、アリストテレスは、イデアを説く人々を批判する。イデアを説く人々は、諸々のイデアをそれぞれ実体であり離れて存するものであると説くとともに、同時にまたそれぞれのエイドスを類と種差とから成るものとしている。動物それ自体が人間のうちにも馬のうちにも存在するとすれば、それは数においては一つであるか異なるかである。一つであるとすると、明らかに不都合である。異なるとすると、動物を自らの実体とするところのものどもが、言わば無限に多くあるということになる。

2018年4月6日金曜日

アリストテレス「形而上学」 43

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。280ページ程度まで、読み進めた。

第七巻第十三章では、アリストテレスは、普遍は実体ではないと言う。そのことについて検討する。(1)普遍的な述語であればなにでも実体を示しているとすることは不可能なことである。普遍がすべての個物の実体であることはありえない。そうかと言って、もしそれが或るいずれか一つの個物のであるとすれば、この或る一つはその他のいずれの個物でもあるという結果になる。(2)たとえ普遍がこのように個々の事物の本質としての実体ではありえないにしても、普遍は各々の本質のうちに内在しておりはしないか。しかし、性質の方が実体よりも個物よりも先であるということは不可能である。(3)諸事物に共通に述語となるものどもは、いずれも事物をこれと指し示すものではなくて、事物をこのようなものとして指し示すものである。(4)いかなる一つの実体も、それを成す諸実態を現実的に存するがままに自らのうちに含むということは不可能である。

2018年4月5日木曜日

アリストテレス「形而上学」 42

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。275ページ程度まで、読み進めた。

第七巻第十二章では、アリストテレスは、それの説明方式がすなわち定義であると我々の言うところのそれが一つであるのは、そもそもなにによってであるか、という難問について検討する。

アリストテレスは次のように言う。

「たしかに或るものの定義のうちに含まれる諸要素は一つであらねばならない、なぜなら、定義は一種の説明方式であり、一つの実体の説明方式であるからして、この定義は或る一つのものの説明方式であらねばならない、そしてそのゆえは、我々の主張する通り、実体は或る一つのものであり、或るこれなるものを意味するからである」

2018年4月4日水曜日

アリストテレス「形而上学」 41

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。270ページ程度まで、読み進めた。

第七巻第十一章では、アリストテレスは、部分についての考察をさらに進める。(1)青銅にも石にも木にも伴ない現われる円のごときにおいては、これらが、青銅にしても石にしても、円の実体のなんらの部分でもないことは明らかである。(2)もし青銅の円のみしか見たことがなければ、青銅を思想のうえで抽離することは困難である。人間の形相を抽離しえないのは、他の種を経験したことがないからではないか。

そして、エイドスについて考察を進める。次のような結論が出てくると言う。(1)多くのものには明らかにそれぞれ異なる形相が認められるのに、この多くのものに通じて一つのエイドスがあるということになる。(2)一つのエイドスをすべてのエイドスのエイドスそのものであるとしうることになり、その他のエイドスはすべてエイドスではないということになる、しかもこうなるとなにもかもすべて一つだということになる。このような難問が存在する。

2018年4月3日火曜日

アリストテレス「形而上学」 40

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。265ページ程度まで、読み進めた。

第七巻第十章では、アリストテレスは、各々の部分の説明方式が全体の説明方式のうちに含まれるべきなのか否か、そして、もし部分が全体よりも先であるとすれば、そして鋭角は直角の部分であり指は動物の部分であるとすれば、鋭角の方が直角よりも先であり指の方が人間よりの先であるということになりはしないか、という疑問について検討する。

結論から言うと、アリストテレスは、どちらが先であるとも端的には言えないと答えざるをえないと言う。

なぜなら、直角の説明方式は、鋭角の説明方式には分割されないで、かえって鋭角のは直角のに分割されるからである。つまり、鋭角を定義する場合にはひとは直角の概念を用いる。すなわち、鋭角は「直角より小である」というふうに。同様に、指はその全体である人間によって定義される。

2018年4月2日月曜日

アリストテレス「形而上学」 39

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。260ページ程度まで、読み進めた。

第七巻第八章では、アリストテレスは、生成について述べる。そこでは、プラトン的なイデア論は批判される。

「そしてこの全一的なこれ、たとえばこの「カリアス」とか「ソクラテス」とかは、特定の「この青銅の球」に対応するものであり、そして「人間」とか「動物」とかは「青銅の球一般」に対応するものである。だからして、或る人々が個々の事物とは離れて別に実在するものとして説くを慣わしとしているエイドスのような意味で形相を事物の原因とすることは、明らかに、事物の生成にとっても存在にとっても全く無用である、なおまた、すくなくもそれだけのためには、形相がそれ自体で存在する実体を要しない」

第七巻第九章では、アリストテレスは、技術的な生成と自己偶発的な生成の差異について述べる。そして、生成についてさらに論を進める。

「生成する事物の或るものは技術を有する者がいなくては存在しえないであろうが、他の或るものは技術家がいなくても存在しうる」

「形相は生成しないということを実体について説明してきたが、この我々の論は実体についてのみでなく、同様に他のすべての第一のもの——すなわち量、性質およびその他の述語諸形態——についても均しく妥当する」

2018年4月1日日曜日

アリストテレス「形而上学」 38

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。255ページ程度まで、読み進めた。

第七巻第七章では、アリストテレスは、生成について述べる。生成する事物は、或るものは自然により、或るものは技術により、或るものは自己偶発により、生成する。そして、生成とは、或るものによって、或るものから、或るものに、である。

自然的生成については、これらの事物がそれから生成するところのそれは質料であり、それらがそれによって生成するところのそれは自然的に存在する或るものであり、生成してそれになるところのそれは、人間とか植物のような、我々が特に最も実体であると言うところのものである。

自然的生成の他の生成は制作と呼ばれる。制作は、技術からか、能力からか、思想からかである。或る制作は、自己偶発から生じることもある。この生成の過程には、推理と呼ばれる過程と制作と呼ばれる過程とがあり、その出発点である形相からの過程は推理であり、この推理の結論から始まる過程は制作である。

2018年3月31日土曜日

アリストテレス「形而上学」 37

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。250ページ程度まで、読み進めた。

第七巻第六章では、アリストテレスは、各々の事物とそれの本質とが同じものであるか、あるいは異なるものなのか、それについて検討する。

まず、アリストテレスは、「色白い人間」のように、付帯性との複合において言われるものの場合では、実体とその本質は異なるように思われると述べる。その理由は、「人間」と「色白い人間」とは同じものであり、したがって「人間の本質」もまた「色白い人間の本質」と同じものになるであろうからである。

私には、「人間」と「色白い人間」は異なるもののように思える。だから、この説明には了解しない。そして、「色白い人間の本質」の一つは「人間」であるように思う。そして、「人間の本質」は「考えること」であるように思う。このように、本質を考えることは起源を求めることであるように思うのであるが、どうであろうか。

次に、アリストテレスは、それ自体で存在すると言われるものの場合には、そのものとそれの本質とが同じであることは必然的であろうと述べる。このことについては、特に異論はない。

2018年3月30日金曜日

アリストテレス「形而上学」 36

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。245ページ程度まで、読み進めた。

第七巻第五章では、アリストテレスは、実体にのみ定義があり、述語的存在の定義は必ずなにかを加えることによってでなくてはありえないと述べる。たとえば、「奇」や「雌」は、数や動物があって定義される。

そして、ものの定義はそのものの本質の説明方式であり、本質はただ実体にのみ、あるいはすくなくとも最も主なる、第一義的の、端的な意味では、実体にのみ属するものであると述べる。

2018年3月29日木曜日

アリストテレス「形而上学」 35

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。240ページ程度まで、読み進めた。

第七巻第四章では、アリストテレスは、実体を規定する意味の一つである、各々の事物のなにであるかについて研究する。

まず、アリストテレスは、言語形式上の問題について述べる。それによると、各々の事物のなにであるかというのは、その各々がそれ自体でなにであると言われるそのなにかのことである。君の君であることは、君が教養的であることではない。君は、君自体で教養的であるのではない。君は、君自体で或るなにかであり、このなにかがまさに君の本質である。そのように言う。

そして、次に、アリストテレスは、それらが事実上いかにあるかを研究することも必要であると言う。そして、ここでもまた、事物のそもそもなにであるかは、なにであるかがそうであるのと同様に、第一義的、端的には、実体に属し、そして次には、実体以外の述語的諸存在にも属すると言う。

2018年3月28日水曜日

アリストテレス「形而上学」 34

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。235ページ程度まで、読み進めた。

第七巻第三章では、アリストテレスは、まず、実体は四つの意味で用いられていると言う。(1)もののなにであるか、(2)普遍的なもの、(3)類、(4)基体。これら四つである。そして、基体には三つあると言う。(1)質料、(2)型式、(3)これら両者から成るもの。これら三つである。

アリストテレスは、実体とは、他のいかなる基体の述語でもなくてそれ自らが他の述語の主語であるところのそれであるという定義では、不明瞭であるだけではなく、質料こそ実体であるということになってしまうと言う。

しかし、アリストテレスは、これは不可能であると言う。なぜなら、離れて存するものであることとこれと指し示しうるものであることとが最も主として実体に属すると認められているからであると言う。

アリストテレスは、質料や、質料と型式とから成るものは、実体であることが明らかであり、第三の実体、型式としての実体については、これを研究吟味する必要があると言う。

2018年3月27日火曜日

アリストテレス「形而上学」 33

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。230ページ程度まで、読み進めた。

第七巻第一章では、アリストテレスは、ある(または存在)というものには二つの意味があると言う。(一)もののなにであるか、またはこれなる個物、(二)どのようにあるか、あるいはどれほどあるか、あるいはその他のそのように述語される物事のそれぞれ。そして、第一というものには三つの意味があり、そのすべての意味において、実体は第一であると言う。(一)説明方式において、(二)認識において、(三)離れて存在すること。

第七巻第二章では、アリストテレスは、実体とはなにであるかについて答える。(一)実体は、その最も明瞭な形では、物体に属するものと思われている、(二)或る人々は、物体の諸限界を実体であると考えている、(三)他の或る人々は、感覚的諸物体よりもさらに多数の且つさらに優れて実在する永遠的なものどもを実体であるとしている。

2018年3月26日月曜日

アリストテレス「形而上学」 32

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。225ページ程度まで、読み進めた。

第六巻第二章では、アリストテレスは、端的な存在を四つに分類する。(一)付帯的な意味での存在、(二)真としての存在と偽としての非存在、(三)述語の諸形態、(四)可能的な存在と現実的な存在。これら四つである。そして、付帯的な物事には学は存在しないと言う。

第六巻第三章では、アリストテレスは、生について語る。

「このこと(生)の始まりを求めてたどる過程は或る始まりまではたどりうるが、この始まりより先にはもはや他の始まりは求められない。すると、これが或る特定の偶然的なことの始まりであるに相違なく、これよりほかにはこのことの生じる原因はないであろう。しかし、このように始まりをさかのぼり求めてどのような始まりに、どのような原因に達するであろうか、それが果して質料としての原因にか、目的としてのそれにか、あるいは動かす者にか、これは重要な研究課題である」

第六巻第四章では、アリストテレスは、真偽について語る。

「偽とか真とかいうは、たとえば善は真であるとか悪はただちに偽であるとかいうように、事態そのもののうちに存することではなくて、ただ思想のうちにあることにすぎない、のみならず単純な概念や事物のなにであるかを示す実体概念については、その真偽は思想のうちにさえ存しない」

2018年3月25日日曜日

アリストテレス「形而上学」 31

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。220ページ程度まで、読み進めた。

第六巻第一章では、アリストテレスは、学について説明する。学には、理論的な学、実践的な学、制作的な学の三つがある。理論的な学には、さらに、自然学、数学、神学の三つがある。そして、学の類のうちでは、理論的な学がもっとも望ましく、理論的な学のうちでは、神学がもっとも望ましいと言う。そして、第一の学について次のように述べる。

「もし自然によって結合された実体より以外にはいかなる実体も存在しないとすれば、なるほど自然学が第一の学であるであろう、しかし、もしなにか或る不動な実体が存在するならば、これを対象とする学の方がいっそう先であり第一の哲学であり、そしてこのように第一であるという意味でこの学は普遍的でもあろう、そして存在をただ存在として研究すること、存在のなにであるかを研究し、また存在に存在として属するその諸属性をも研究すること、これこそはまさにこの哲学のなすべきことである」

2018年3月24日土曜日

アリストテレス「形而上学」 30

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。215ページ程度まで、読み進めた。

第五巻第二十九章では、アリストテレスは、プセウドス(偽、虚偽、誤謬)を三つに分類する。(一)事態としての偽、(二)偽なる立言、(三)偽なる人間。これら三つである。(一)と(二)に差異があるのかどうかは、私にははっきりとは解らない。

第五巻第三十章では、アリストテレスは、シンベベーコス(付帯的、偶然的)を二つに分類する。(一)或る物事に属しそれの真実を告げはするが、しかし必然的にでもなく多くの場合にでもないこと、(二)それぞれの物事にそれ自体において属するものではあるが、その物事の実体のうちには存しないこと。これら二つである。

(二)の例として、三角形の内角の和が二直角であることが挙げられているが、これは付帯的であり偶然的ではない例であるように思われる。

2018年3月23日金曜日

アリストテレス「形而上学」 29

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。210ページ程度まで、読み進めた。

第五巻二十六章では、アリストテレスは、ホロン(全体)を三つに分類する。(一)全体が自然的にそれらから成っていると言われるところのそれら諸部分のいずれの一つも欠けていないそれのこと、(二)それのうちに包含される諸部分が或る一つの統一的なものであるようにそれらを包含するところのそれのこと、(三)それに始めと中間と終りとのある量的なもののうち、それらの位置のいかんがそのものになんらの差別をも生ぜしめないものが総体と言われるのに対し、差別の生じるものは全体と言われる。これら三つである。

第五巻二十七章では、アリストテレスは、コロボン(毀損された、不具の)について説明する。数や水や火などは毀損されない。毀損されるには、それの位置がそれの実体と関係をもっていなければならない。また、その欠けた部分がそれの実体の存続にかかわるような重要な部分でもあってはならない。

第五巻二十八章では、アリストテレスは、ゲノス(種族、類)を四つに分類する。(一)同じ形相をもつ事物の連続的な生成の存する場合、(二)或る事物の存在がそれに由来するところのそれらの第一の動者。(三)平面が平面的諸図形の類であるとか、立体が立体的諸図形の類であるとか言われるような意味、(四)事物の説明方式に含まれる第一の要素。これら四つである。

2018年3月22日木曜日

アリストテレス「形而上学」 28

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。205ページ程度まで、読み進めた。

第五巻二十二章では、アリストテレスは、ステレーシス(欠除)を四つに分類する。(一)或る事物が、自然的に所有していてもよさそうな或る属性を、所有していない場合、(二)或る事物が、それ自体においてあるいはそれの類において所有しているのが自然的であるところのものを、所有していない場合、(三)自然的にはそれを所有すべきものであり且つそれを所有しているべき時期にありながら、それを所有していない場合、(四)各々の事物の強制的除去。これら四つである。

第五巻二十三章では、アリストテレスは、エケイン(もつ、たもつ)を四つに分類する。(一)なにものかを自らの自然または自らの衝動に従って処理すること、(二)或る物事がこれを受容しうる或る基体のうちに内在している場合、(三)包含するものがこれによって包含されるものどもに対して、(四)それ自らの衝動によって或るものが運動しまたは行為するのを防ぎ止めるところのもの。これら四つである。

第五巻二十四章では、アリストテレスは、ト・エク・ティノス・エイナイ(或るものから……ある)という言い方を六つに分類する。(一)質料としての或るものからあるとの意、(二)運動の第一の始まりとしての或るものからの場合、(三)質料と型式との複合体からというような場合、(四)形相がその部分からという場合、(五)或るものの部分がそれらの諸義のいずれからいずれかに適応している場合、(六)時間的に或るもののつぎにという場合。これら六つである。

第五巻二十五章では、アリストテレスは、メロス(部分)を四つに分類する。(一)それにまで或る量的なものがなんらかの仕方で分割されるところのそれ、あるいは、それらのうちでただこの量的なもの全体の尺度となるもののみが部分と言われる場合、(二)それらにまで或る種類のものがその量とは無関係に分割されるところのそれら、(四)それぞれの事物の本質を明らかにする説明方式の要素。これら四つである。

2018年3月21日水曜日

アリストテレス「形而上学」 27

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。200ページ程度まで、読み進めた。

第五巻第十七章では、アリストテレスは、ペラス(限り、限界)を四つに分類する。(一)それぞれの事物の窮極の端、(二)或る大きさを有するものの形相、(三)事物の終り、(四)個々の事物の実体、本質。これら四つである。

第五巻第十八章では、アリストテレスは、カト・ホ(それでのそれ)を五つに分類する。(一)それが各々の事物の形相または実体である場合、(二)それにおいて或る属性の生成し存在するのが自然である場合、(三)「なんのためにかれは来たのか」という場合、(四)「かれの正しい推理の、またはあやまった推量の原因はなにか」という場合、(五)ものの位置。これら五つである。

さらに、アリストテレスは、カト・ハウト(それ自らで、それ自体において、自体的に)を五つの分類する。(一)そのものがそれ自体においてその本質である、(二)およそそのもののなにであるかのうちに含まれているあらゆるもの、(三)或る基体がなんらかの属性をそれ自らのうちに第一の基体として受容しあるいはそれ自らの部分の一つのうちにそれを受容している場合、(四)自らより以外には他にいかなる原因をも有しないもの、(五)或る基体がそれのみ自ら離れて単独にそれ自体でそうようにあるとき、ただこの基体にのみ属するそのような属性。これら五つである。

第五巻第十九章では、アリストテレスは、ディアテシス(配置、案配、状況)というものは、部分を有する事物の、それの場所または能力または種に関しての、配列のことであると説明する。

第五巻第二十章では、アリストテレスは、ヘクシス(所有、所有態、持前、状態)を三つに分類する。(一)なにものかを所有しているものと所有されているそのなにものかとのあいだの或る現実活動、(二)事物の或る種の状況、(三)その事物に(二)のような配置をもった部分がある場合。これら三つである。

第五巻第二十一章では、アリストテレスは、パトス(受動相、様態、属性、限定)を四つに分類する。(一)それによって或る事物に変化が生じうるところのその事物の性質、(二)諸性質の現実態、(三)とくに有害な諸変化や諸運動、(四)不幸や苦痛のうちの大なるもの。これら四つである。

2018年3月20日火曜日

アリストテレス「形而上学」 26

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。195ページ程度まで、読み進めた。

第五巻第十五章では、アリストテレスは、プロス・ティ(関係、相対性、関係的、相対的、字義的には、なにかに対してどうあるかという意味)を三つに分類する。(一)二倍が半分に対し、三倍が三分の一に対し、あるいは一般に何倍かのものがその何分の一かのものに対し、またはどれだけか超過しているものがそれだけ超過されているものに対してのような場合、(二)能動するものが受動するものに対してのような場合、(三)測られるものがこれを測る尺度に対し、認識されるものが認識に対し、感覚されるものが感覚に対してのような場合。これら三つである。

第五巻第十六章では、アリストテレスは、テレイオン(全くの、完全な)を三つに分類する。(一)それ以外にはそれのいかなる部分も、その一つの部分さえも、見いだされえないようなもの、(二)巧みさや良さの点においてそれの類のうちにはそれを超えるなにものもないようなもの、(三)それの終りに達したもの。これら三つである。

2018年3月19日月曜日

アリストテレス「形而上学」 25

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。190ページ程度まで、読み進めた。

第五巻第十二章では、アリストテレスは、ディナミス(能力、可能性)を五つに分類する。(一)他なるもののうちに存し、あるいは他なるものとしてそれ自らのうちに存する物事の運動や転化の原理、(二)その受動、(三)その事柄を巧みにまたは意図の通りに遂行しうる能力、(四)その受動、(五)それのゆえに物事が端的に非受動的であり不変的であるか、または容易には悪く転化させられないような性を所有せる状態。これら五つである。

第五巻第十三章では、アリストテレスは、ポソン(量、分量、本来の語義はどれだけ、いかほど、等々の意)について説明する。ポソンには、数えうる量であるときと、測られうる量であるときとがある。それぞれ、多さ、大きさである。さらに、ポソンは、それ自体においてそうであるときと、付帯的にそうであるときとがある。

第五巻第十四章では、アリストテレスは、ポイオン(性質、本来の語義はどのような、いかような、等々の意)を四つに分類する。(一)実体の差別相(種差)、(二)不動な数学的諸対象、(三)転化する実体の所属性、(四)徳や罪過、一般に善いことや悪いこと。これら四つである。しかし、これら四つは、性質(一)にまとめられると言う。

2018年3月18日日曜日

アリストテレス「形而上学」 24

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。185ページ程度まで、読み進めた。

第五巻第十章では、アリストテレスは、アンティケイメナ(対立、対立したもの)について説明する。それは、矛盾する判断、反対のもの、相対関係にあるもの、欠除と所有、生成や消滅の始まりと終りなどである。さらに、エナンティア(反対、反対のもの、相反するもの)と、へテラ・トー・エイデイ(種において異なるもの)についても説明するが、その差異は僅かである。

第五巻第十一章では、アリストテレスは、プロテロン(より先、前)とヒステロン(より後、後)を四つに分類する。(一)その各々の類のうちに或る始まりがあるとした場合に、どちらがこの始まりにより近くあるか、(二)認識においてより先であるか、(三)より先なる事物の諸限定、たとえばまっすぐであることの方が平たくあることよりも先であると言われる、(四)或るものは他のものがなくても存在しうるがゆえにより先であり、他のものはこの或るものなしには存在しえないからより後である。これら四つである。

2018年3月17日土曜日

アリストテレス「形而上学」 23

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。180ページ程度まで、読み進めた。

第五巻第八章では、アリストテレスは、ウーシア(実体)を四つに分類する。(一)単純物体、またこれらから構成されたもの、(二)他の基体の述語となることのない諸物体のうちに内在していてこれらの各々のそのように存在するゆえんの原因、たとえば生物では、それに内在する霊魂、(三)諸実体の部分としてこれらのうちに内在し、これらの各々を限定してこれとして指し示すところのもの、それがなくなればその全体もなくなるような部分、たとえば、面に対する線、(四)もののなにであるか(本質)。これら四つである。

第五巻第九章では、アリストテレスは、タウタ(同じ、同一)を二つに分類し、それにまつわる物事について考察する。(一)付帯性において、(二)それら自体において。付帯性においてというのは普遍的な属性と対比的なものである。それら自体においてというのは、それらの質料がその種やその数において一つである場合、それらの実体(本質)が一つである場合とがある。

2018年3月16日金曜日

アリストテレス「形而上学」 22

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。175ページ程度まで、読み進めた。

第五巻第七章では、アリストテレスは、オン(ある、存在する、または、存在、存在するもの)を二つに分類する。(一)付帯性において、(二)それ自体において。この二つである。さらに、「ある」は、真や偽であること、可能性または完全現実態、これらのことを示す。(二)の場合、オンは次の八つに分類される。実体・本質、性質、分量、関係、能動、受動、場所、時間。この八つである。「ある」と言ってもこのような八つがある。さらに、アリストテレスの著書の「範疇論」では、状況と状態の二つの範疇が加えられて、それらは、アリストテレスの十範疇、存在の範疇と呼ばれているらしい。

2018年3月15日木曜日

アリストテレス「形而上学」 21

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。170ページ程度まで、読み進めた。

第五巻第六章は、ヘン(一つ、一、統一)と言われるものについての説明である。ここでのアリストテレスの分類は多岐に渡り、複雑である。しかし、実体において一つであるということの説明は簡単である。(1)連続性において、(2)種において、(3)説明方式において。この3つである。多であることは一であることの逆である。連続性において多であるか、種において多であるか、説明方式において多であるかである。

古代ギリシア語には、冠詞があったらしいが、アリストテレスが一であることにこだわるのはそういったことにもよるのであろうか。アリストテレスが一であることにこだわるもう一つの理由は、ヘンという古代ギリシア語は、統一といった意味も持ちえるからというものである。どちらにも日本語にはない事情である。

私が思うのは、同じものが複数あるゆえに、数という概念が生まれ、同時に一という概念が生まれたということである。だから、一と多の概念が生まれる順序は同時的でるように思う。

2018年3月14日水曜日

アリストテレス「形而上学」 20

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。165ページ程度まで、読み進めた。

第五巻第四章は、自然についての説明である。現代の自然科学の観点からは、アリストテレスの自然論はとても古いものである。しかし、その本質は突いているように思う。次のような説明がそれである。

「第一義的の主要な意味で自然と言われるのは、各々の事物のうちに、それ自体として、それの運動の始まりを内在させているところのその当の事物の実体のことである、というのは、事物の質料が自然と言われるのは、質料がこの実体を変容しうるものなるがゆえにであり、また事物の生成し生長する過程が自然と呼ばれるのも、この過程がまさにこの実体から始まる運動なるがゆえにであるから」

第五巻第五章では、アリストテレスは、アナンカイオン(必然的な)とは「そうあるより他ではありえないこと」であると言う。このことに、異論はない。また、「或るものはその必然的であることの原因を他にもつが、或るものは他になにももたないで、かえって他の物事がこの或るもののゆえに必然的とされている」と言う。このことにも、異論はない。

2018年3月13日火曜日

「我思う、ゆえに我あり」という文の解釈

こういうことを考えたことがある。デカルトの方法序説にある「我思う、ゆえに我あり」という文は、我が思うということは、「ゆえ」に我があるということであるというようも解釈できのではないかと。言い替えると、「我思う」ということは疑いえないことかもしれないが、「ゆえ」もまた疑いえないことではないかということである。「ゆえ」は、英語で言うと、「reason」であり、「理性」でもある。この文は、そういったことをも表現してしまうようにも思う。

実際に、理性が存在することは疑いえないことではないだろうか。疑うことができるのは理性が存在するからであるように思う。「我思う、ゆえに我あり」という文は、「ゆえあり、ゆえに我思う、ゆえに我あり」という文に置き替えられるように思う。

2018年3月12日月曜日

アリストテレス「形而上学」 19

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。160ページ程度まで、読み進めた。

第五巻第二章では、アリストテレスは、アンティオン(原因)の種類として、四つ挙げる。(一)事物を生成し内在するもの、(二)事物の形相または原型、(三)物事の転化または静止の第一の始まり、(四)物事の終わりまたは目的。この四つである。

第五巻第三章では、アリストテレスは、ストイケイオン(構成要素、元素)の種類として、二つ挙げる。(一)事物を構成し内在するもの、(二)微小で単純で不可分的なもの。この二つである。さらに細かくそれらを六つの例に分けて説明している。

ここで、アリストテレスが行うのは徹底的な分類である。おそらく、そういったことは、アリストテレス以前の哲学者は行っていなかったのであろう。以降の哲学者でもあまり変わらないのかもしれない。分類することで、本質的であることに到達できると考えているのであろう。そういったことが、アリストテレスの言う第一の哲学に課された仕事なのであろうか。

しかし、第一の哲学が何であるかという問いは、私にはむずかしい。論理学の論理が、それに当たるようにも思うのではあるが。それは宗教的な性格も持つようにも思う。例えば、生や死とは何かというような問題でがそれである。どうしようもない。諦観という倫理が問われているようにも思う。とは言え、世界に対して、私たちは開かれているのだというようにも思う。

2018年3月11日日曜日

アリストテレス「形而上学」 18

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。155ページ程度まで、読み進めた。

第五巻第一章では、アリストテレスは、アルケー(原理)の種類として、六つ挙げる。(一)それから運動を始めるもの、(二)それから始めれば最善であるもの、(三)それから事物が生成しその事物に内在するもの、(四)それから事物の運動や転化が自然的に始まるもの、(五)事物を動かす意志のある或る者、(六)それから事物が第一に認識されるもの。この六つである。

このことの是非はむずかしい。よく六つも挙げられたものだと思う。(四)と(五)など、重複する可能性がありそうなものもあるように思う。

2018年3月10日土曜日

アリストテレス「形而上学」 17

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。150ページ程度まで、読み進めた。

第四巻第六章では、アリストテレスは、論拠のないものに論拠を求めるということを戒める。また、或るものはそれ自体において存在し、真実は相対的な現われではないと言う。

第四巻第七章では、アリストテレスは、「二つの矛盾したもののあいだにはいかなる中間のものもありえず、必ず我々は或る一つについてはなにか或る一つのことを肯定するか否定するかのいずれかである」と言う。

第四巻第八章では、アリストテレスは、或る者はすべては偽であると言い、他の或る者はすべては真であると言うが、どちらも正しくないと言う。それはそうだろう。

2018年3月9日金曜日

アリストテレス「形而上学」 16

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。145ページ程度まで、読み進めた。

第四巻第五章の残りの半分を読んだ。

アリストテレスは、矛盾律を原理としなければ、必然性を認めることも不可能であると言う。原理であるものを原理でないとする仮定にどれだけの意味があるのであろうか。それはよくわからない。アリストテレスも、それは唯の論証ではなく弁駁的な論証であると言っている。

「しかるに、かれらの説は、こうした必然性をことごとく破棄するものである、というのは、かれらはなにものの実在性をも認めないだけに、それだけなにものにも必然性は存しないことになるからである。なぜなら、必然的なものというのは、このようにもあり他のようにもあるということの不可能なもののことなので、もしなにものかが必然的にそうであるとすれば、そのものがそうあり且つそうあらぬということはないはずだからである」

2018年3月8日木曜日

アリストテレス「形而上学」 15

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。140ページ程度まで、読み進めた。

第四巻第五章の半分まで読んだ。

アリストテレスによると、「存在するものが同時にそうあり且つそうあらぬ」という見解の持ち主が過去に幾人もいたということである。にわかには信じられないが多分そうなのであろう。これがどういうことを意味しているのか、私にはまだよくわからない。

「またここで想起されるのは、アナクサゴラスが或る友人たちに寄せた文句である、それは物事が人々にそう判断されるようにそうあるというのである。またひとの言うところでは、ホメロスも明らかにこの見解をもっていたもののようである、というのは、かれはヘクトルが打たれて気を失って「異様な思慮にふけりつつ」横たわっていたと歌っているからである。これは思慮を失った者も或る思慮をもっているとの意である、——むろん同じ思慮をというのではないが。であるから、もしこの両方とも思慮であるならば、存在するものが同時にそうあり且つそうあらぬとされることは明らかである」

2018年3月7日水曜日

アリストテレス「形而上学」 14

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。135ページ程度まで、読み進めた。

第四巻第四章の残り半分を読んだ。

アリストテレスの矛盾律の弁駁的論証はむずかしい。訳注によると、弁駁的論証とは「或る見解の反対または否認の不可能なことを示すことによってその見解を支持擁護する一種の帰謬法的論証」のことである。現代の論理学では、矛盾からはあらゆる命題が真であることが証明されると思うが(偽ならばAは真)、アリストテレスも同じようなことを述べているはずであるとは思う。だから、正しくないと弁駁的に論証されるのであろう。ただし、その形式はむずかしい。

アリストテレスの考察は例えば次のようなものである。

「もしすべての者がひとしく偽を語るとともに真を語る者だとすると、このような者には、なんらの意味のある声を出すことも物を言うこともできないであろう。なぜなら、かれは、これを語ると同時にこれでないことを語るはずだから。そして、もしかれがなにごとをも判断することなしにただ無差別に考え且つ考えないとすれば、かれと植物とのあいだになんの異なるところがあろうか」

ここでは、矛盾は単に論理学的形式ではなくて、行為の理論にも及んでいるようである。

2018年3月6日火曜日

アリストテレス「形而上学」 13

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。130ページ程度まで、読み進めた。

第四巻第四章の半分まで読んだ。

まず鍵になるところは、矛盾律というものは論証されるものではないということである。それは存在の原理であるから、論証の前提になるものであるということであろう。

「論証の論証をと無限に追い求めて、しかも結局なんらの論証もえられないことになろう」

しかし、アリストテレスは、矛盾律の論証はできなくても、弁駁的に論証することはできると言う。

「ただもしその反対論者が一言でもなにかを言うならば」

しかし、論証と弁駁的論証の区別はむずかしい。本当にそのような区別はあるのであろうか。例えば、机の上に林檎があり、同時にその林檎が机の下にあるということは可能であるとする。そうするとその林檎の数は1であり2である。このことは不可能である。こういったことを弁駁的論証と呼ぶのであろうか。一般的に言えば、異なる場所に一つの存在が存在することはない。それは弁駁的に論証されるのであろう。

私は、矛盾律は原理であると思う。公理ではなくて、定理であるようだが。弁駁的論証というものはまったく意味がないことではないのであろうが、非常に有意義なものであるとも思えない。

2018年3月5日月曜日

AIの仕事

最近、AIが進歩しているという。どのような仕事が人によるものからAIによるものに変わるのだろうか。

聞いた話では、自動車の自動運転がそうであるようだ。個人的にも、長距離トラックの運転などは、近い将来、AIに代わってもいい仕事ではないかと思う。きつい仕事でもあるし、機械的な運転により安全性が高まる可能性もある。

他にAIに代わられそうな仕事としてぼくに思い浮かぶのは、レジ打ちだ。客がレジを打つというサービスはあるが、機械がすべてレジ打ちをするというサービスはまだないだろう。しかし、現状のAIの技術の延長で、このような仕事はAIにとって可能になるのではないだろうか。もし、商品を棚に並べるような仕事もAIにできるのであれば、将来的には、無人の店舗なども出現するのかもしれない。

その結果、起きることと言えば、AI産業の活性化と商品の値下がりではないだろうか。また、デフレーションだ。

2018年3月4日日曜日

アリストテレス「形而上学」 12

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。125ページ程度まで、読み進めた。

第四巻第三章では、アリストテレスは、数学の公理は哲学の分野にあると述べる。それは、存在の公理でもあるからである。そして、哲学により、第一に前提される原理として、矛盾律を上げる。現代的に言えば、それは、公理というより定理であるようにも思うのではあるが。アリストテレスの矛盾律は次のようなものである。

「同じものが同時に、そしてまた同じ事情のもとで、同じものに属し且つ属しないということは不可能である」

「反対のものどもが同じものに同時に属することは不可能である」

2018年3月3日土曜日

アリストテレス「形而上学」 11

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。120ページ程度まで、読み進めた。

第四巻第一章では、「存在を存在として研究し、またこれに自体的に属するものどもをも研究する一つの学がある」ということを述べる。

第四巻第二章では、それは哲学であると述べる。そして、哲学のすることについて次のように述べる。

「存在を存在として研究し、またこの存在としての存在の諸属性を研究するのは一つの学のすることである、そしてまた明らかに、この同じ一つの理論的の学が、ただ実体を研究するだけでなく実体の諸属性をのも、すなわち前述の諸概念をはじめ、先と後、類と種、全体と部分その他このような概念をも研究すべきである」

この章では、「一」と「存在」が類似的であるということが述べられているようだが、私が思うのは、「二」があるから、「一」があるということだ。そうでなければ、ただ「ある」ということでしかなかったであろう。

2018年3月2日金曜日

デフレーションは悪いことなのか?

日本の経済はデフレーションだと言われているし、言われていたが、それは悪いことなのだろうか?

物価が下がる要因には、企業の努力によって生産コストが下がるという場合もあるだろう。それは悪いデフレーションであるとは言えないように思う。同じ商品をコストを抑えて生産することは、良いことだからである。例えば、100円均一ショップなどがそうであろう。これらは、生産コストを下げることによって、価格を抑えることに成功しているように思われる。そういうコツコツしたことが、日本人は得意なのではないかと思う。

デフレーションが悪いことなのかどうか、政治家や市民には、もう一度考えてみてほしいように思う。その上で、政策決定をしなければいけないように思う。

私が思うのは、デフレーションの要因は生産の自動化と中国での生産である。生産の自動化によるデフレーションは良いことだと思う。中国での生産が要因であるデフレーションはどうであろうか? 中国で生産するから、安くなるし、中国の賃金が低いから、日本の賃金も低くなりやすい。これは、地理的にも、文化的にも、合理性という観点からも、解消はむずかしいことであるように思う。

日本が取り組むべきなのは、新しい製品への投資であるように思う。インフレーションが起こる要因は、私には、他に考えられない。日本人はあまり投機というものが得意ではなかったのかもしれない。少しずつ良い方向に変わってきているはずであるとは思う。

2018年3月1日木曜日

アリストテレス「形而上学」 10

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。110ページ程度まで、読み進めた。

第三巻第五章は、「諸々の数や物体や平面や点がなんからかの意味で実体であるのかあるいはそうではないのか」という難問についての考察である。

「物体さえも、実体たる点においては、面よりも劣っており、面は線よりも、線は点よりも劣っている、というのは、物体はこれらによって限界されており、そしてこれらは物体なしにでも存在しうるのに物体はこれらなしには存在しえないと考えられるから、というのである」

第三巻第六章は、いくつかの難問についての考察である。ぼくに刺さったのは次の文章である。

「もし原理が普遍的ではなくて、なんらか個別的なものであるとすれば、原理は認識されないものであるということになろう、けだし、いかなるものについてもその認識は普遍的だからである。したがって、いやしくも原理についてなんらかの認識があってほしいならば、これらの原理より先に他の原理が、これらを普遍的に述語し説明する原理として、存在しなくてはならない」

2018年2月28日水曜日

アリストテレス「形而上学」 9

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。105ページ程度まで、読み進めた。

第三巻第四章は、いくつかの難問について考察である。その一つは、次のような難問である。

「果して一とか存在とかいうは、ピタゴラスの徒やプラトンの説いたように、実体より以外の或る属性的なものではなくて、それ自らしょ存在の実体なのであるのか、あるいはそうではなくて、かえって或るなにものかが別にそれらの基体として存するのではあるまいか」

これに対しては次のように考察される。

「どちらにしても困難がある、すなわち一が実体でないとしておあるいは一それ自体が実体として存在するとしても、どちらにしても数は実在するものではありえなくなる」

「実体であるとする場合には、存在について生じたのと同じ困難が生じる。すなわち一それ自体よりほかの一の存するのに至るのが、それは一であらぬものからにちがいないが、存在するものはすべて一であるか多であるかであり、しかも多の各々は一であるから」

何だかすっきりしない考察であるように思うが、これらの難問は後にも考察されるようである。

2018年2月27日火曜日

アリストテレス「形而上学」 8

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。100ページ程度まで、読み進めた。

第三巻第三章は、「ものの原理とか元素とかいうのは、果してそのものの類のことなのか、それともそのものに内在する構成部分のことなのか」という問いへの考察である。この章では、考察するだけにとどまり、最終的な解答は提示しない。

「むしろ不可分なものどもの述語となるもの[種]の方が類よりもいっそう優れて原理であるように見える、だがまたもや、それではどうして種の方がいっそう優れて原理であると解さるべきなのかとなると、これも容易には答えられない」

2018年2月26日月曜日

アリストテレス「形而上学」 7

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。90ページ程度まで、読み進めた。

第三巻第一章では、哲学的な難問を列挙していく。

第三巻第二章では、先に挙げた難問のいくつかに検討を加えていく。ぼくに刺さったのはこの文章である。

「かれらの言うところは、人間それ自体とか馬それ自体とか健康それ自体とかが、それぞれそれ自体でというより以上にはなんの限定もなしにただ存在するというのであるが、それはあたかも、神々を存在すると主張しながらその神々を人間の姿をしたものと想像している人々と同じことをしているもののようである、というのは、この人々のいう神々は人間の永遠化されたものにすぎないが、かれらの説くエイドスもまたそれぞれ感覚的事物の永遠化されたものにすぎないからである」

この文章は次の難問への考察である。

「果してただ感覚的な実体のみが存在すると主張さるべきか、あるいはこれらのほかにも別の実体が存在するとさるべきであろうか」

2018年2月25日日曜日

アリストテレス「形而上学」 6

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。80ページ程度まで、読み進めた。

第二巻第一章は、真理性の程度についての説明である。

「たとえば火は、最も熱いものであるが、それは火が他のすべてにとって熱さの原因であるからである。だからそのようにまた、派生的に真であるものどもにとっては、それらの真理性の原因たるものはそれ自ら最も高度に真なるものである」

第二巻第二章は、原因の有限性についての説明である。

「理性を有する者は、なにかのために行為する、そしてこのなにかが限界であり、目的は限界である」

「いかなる無限なものも存在しえない、かりに存在するとしても、すくなくとも無限であることそのことは無限ではない」

「もし原因の種類が無限に多くあったならば、同じくまた知識はありえなかったであろう」

第二巻第三章は、対象の論証の仕方についての説明である。

「数学的推理におけるがごとき厳密さは、あらゆる対象について要求さるべきではなくて、ただ質料を具有しないものの場合にのみ要求さるべきである。まさにそれゆえに、この数学の方法は自然学の方法ではない、そのわけは、おそらく、およそ自然は、すべて質料を具有しているからであろう」

2018年2月24日土曜日

Computer Technology and Science

日本のIT(Information Technology)は、世界に遅れをとっていると言う。私が思うのは、ITという名称が今一つだということだ。実際に来ているのは、デジタルコンピュータの時代であるように思う。

情報技術革命は、例えば、活字印刷の発明などもそうであるし、曖昧な概念であるように思う。実際のところ、情報技術自体は、その時代から大きく進展してはいないように思う。進展したのは、デジタルコンピュータと通信速度の技術であろう。日本で大きく進歩したのは、携帯電話ととゲームとパソコン(ハードウェア)であるように思う。

何というか、ITという用語は、技術的に正確な用語ではないように思う。その正確性は、技術の進展のためには、大切なことであるように思う。ITという言葉は、当時のビジネス現場から現れた言葉のようで、あまり学問的な言葉ではないように思う。実際に、大学などでITという言葉はあまり使われていないであろう。大学などでは、情報学(Informatics)という言葉が使われることがあるようである。この言葉も、曖昧であるように思う。Compter Scienceという言葉の方が、正確であるように思う。

情報というものに、それほど重きを置くかということである。何だかそれは居心地が悪いような感じがする。

2018年2月23日金曜日

アリストテレス「形而上学」 5

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。70ページ程度まで、読み進めた。

第一巻第九章は、アリストテレスによるプラトンのイデア論批判である。ここで、エイドスはイデアと同じような意味で用いられている。

「他の事物がエイドスからであるということも、これが普通に言われる意味でのからであるということは、どうみても不可能である。エイドスは原型であり他の事物はこれに与かると語られているが、こう語ることは空語することであり、詩的比喩を語ることにほかならない」

「感覚の対象であるところの事物を、どうして感覚をもたないで知りえようか? しかも知りうるということになろう、もしも、あたかも複合音がこの音に特定の字母から構成されているように、すべての事物を構成しているところの諸要素が同じであるとすれば」

2018年2月22日木曜日

アリストテレス「形而上学」 4

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。60ページ程度まで、読み進めた。

第一巻第七章では、アリストテレスは、四種の原因の他に原理、原因を述べる者はいない。そして、これら四種は必要であると言う。私は、それが過ぎたものであることは否定しえないのではないかと思う。このことについては、後で語られることなのかもしれない。

第一巻第八章では、アリステレスは、まず、質料的な原理を挙げる者について批判する。

「第一かれらは、ただ物体の構成要素のみをあげて、非物体的なものについては、非物体的なものも存在しているのに、これについてはそれをあげていない。つぎにまたかれらは、生成と消滅とについてその原因を語ろうと試み、すべてについてその自然を研究している人々でありながら、運動の原因を見おとしている」

ピタゴラス学徒については、次のような二つの疑問を提示する。

「かれらは、一方では数の諸属性や数そのものを、天界にその始めから今でもなお存在し生成している物事の原因であると解しながら、他方では、数といえばただそれらから世界が合成されているところの数あるのみで、その他にはいかなる数も存在しないと解しているが、どうしてこのように解することができようか? かれらは、世界の或るこれこれの領域には「意見」と「好機」とがあり、そのすこし上方あるいは下方に「不正」と「決断」あるいは「混合」があるとしたとき、そしてその論証として、これらの各々はそれぞれ数であるとし、しかもすでにその場所には数から合成された多くの大きさのある物体があるはずである(なぜならこれらの数の諸属性がそれぞれその場所に配置されているから)としているのであるが、そうだとすると、これらの各属性が、すなわちそれぞれ数であると解されているところのこれらの数が、果してあの諸天体を合成しているところの数と同じものなのか、あるいはそれとは異なる他のものであるのか?」

2018年2月21日水曜日

アリストテレス「形而上学」 3

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。50ページ程度まで、読み進めた。

第一巻第五章は、ピラゴラス学徒についての説明である。ピダゴラス学徒とは次のようなものである。長くなるが引用する。

「数学の諸原理のうちでは、その自然において第一のものは数であり、そしてかれらは、こうした数のうちに、あの火や土や水などよりもいっそう多く存在するものや生成するものどもと類似した点のあるのが認められる、と思った、——ために数のこれこれの受動相は正義であり、これこれの属性は霊魂であり理性であり、さらに他のこれこれは好機であり、そのほか言わばすべての物事が一つ一つこのように数の或る属性であると解されたが、さらに音階の属性や割合も数で表されるのを認めたので、——要するにこのように、他のすべては、その自然の性をそれぞれ数にまねることによって、作られており、それぞれの数そのものは、これらすべての自然において第一のものである、と思われたので、その結果かれらは、数の構成要素をすべての存在の構成要素であると判断し、天界全体をも音階であり数であると考えた」

第一巻第六章は、プラトンの哲学の説明である。プラトンはピタゴラス学徒の影響を受けていた。プラトンは、感覚的事物とエイドスの中間に、数学の対象たる事物が存在すると主張した。そして、プラトンは、ここでアリストテレスの関心のある原理、原因に関しては、二種の原因について考えていた。

「かれがただ二種の原因だけを用いたということである、すなわち、もののなにであるかを示すそれと質料としてのそれとを、けだし、明らかにかれのエイドスは他のすべての事物のなにであるかを示す原因であり、それぞれのエイドスにとってはさらに「一」がそれであった。そしてその質料はなにであったかというに、——すなわち、感覚的事物の場合にはエイドスによってその事物のなにであるかが述べられたが、そのようにエイドスの場合には「一」によって述べられるところの当の基体たる質料はなにであったかというに、——それは明らかに「二」であった、すなわち「大と小と」であった」

2018年2月20日火曜日

アリストテレス「形而上学」 2

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。40ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスによると、原因というものには四通りの意味がある。

「そのうちの一つ(1)は、物事の実態でありなにであるかである、けだしそのものがなにのゆえにそうあるかは結局それの説明方式に帰せられ、そしてそのなにのゆえにと問い求められている当のなには窮極においてはそれの原因であり原理であるからである。つぎにいま一つ(2)は、ものの質量であり基体である。そして第三(3)は、物事の運動がそれから始まるその始まりであり、そして第四(4)は、第三のとは反対の端にある原因で、物事が「それのためにであるそれ」すなわち「善」である、というのは善は物事の生成や運動のすべてが目ざすところの終りだからである」

原理を水や空気や火や土のような質料因だけを考えていては、次のようなことが説明できない。

「材木にしても青銅にしても、これらはいずれもこれら自らの転化の原因ではない。すなわち、材木が自らで寝台を作りはせず、青銅それ自らが銅像を作りもしない、かえってなにか他の或るものがこうした転化の原因である」

「或る人が理性を動物のうちに存するように自然のうちにも内在するとみて、理性をこの世界のすべての秩序と配列との原因であると言ったとき、この人のみが目ざめた人で、これにくらべるとこれまでの人々はまるでたわごとを言っていたものかともみえたほどである」

この或る人とは、アナクサゴラスのことである。原子論もまた、物体は形態と配列と位置により差別化されると言うだけであって、始動因については何も説明しない。

2018年2月19日月曜日

アリストテレス「形而上学」

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。30ページ程度まで、読み進めた。

「すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する」

これが最初の文章である。

第一巻第一章では、技術、経験、知恵について、語る。

「知恵と名づけられるものは第一の原因や原理を対象とするものである」

「経験家もただたんになんらかの感覚をもっているだけのものとくらべればいっそう多く知恵ある者であり、だがこの経験家よりの技術家の方が、また職人よりも棟梁の方が、そして制作的な知よりも観照的な知の方が、いっそう多く知恵がある、と考えられるのである」

第一巻第二章では、知恵をただ知恵のためだけに愛するということが問われている。

「まさにただその無知から脱却せんがために知恵を愛求したのであるから、かれらがこうした認識を追求したのは、明らかに、ただひたすら知らんがためにであって、なんらの効用のためにでもなかった」

そして、神的な学について、次のように語る。

「最も神的な学は最も畏敬さるべき学であるが、この学のみは二重の意味で神的だからである。すなわち、どのような学でも、それが神の所有だるに最もふさわしい学であれば、それは神的であり、そしてまた、それが神的なものを対象とする学であれば、これもまた神的である」

2018年2月18日日曜日

プラトン著「プロタゴラス」 16

光文社古典新訳文庫のプラトン著「プロタゴラス」を読んでいる。最後まで、読み進めた。

最後の部分はエピローグである。ソクラテスは言う。ソクラテスは、最初は徳は教えることができないと言っていたのに、徳の部分である正義や節度や勇気などが知識であることを証明しようとしている。だが、そうすれば徳は教えることができるということが明白になってしまう。反対に、プロタゴラスの言うように、徳は知識とは別のものであるとすれば、それを人に教えることができないことは明らかであると。そういうアポリアに到達する。

最後は、ソクラテスは、徳は教えることができるのかできないのかという問題をプロタゴラスと再び考察したいと申し出るが、プロタゴラスは、別の用事に取り掛からなければならないから、またの機会にしようと言う。ソクラテスも同様のことを言い、その場で別れる。

2018年2月17日土曜日

プラトン著「プロタゴラス」 15

光文社古典新訳文庫のプラトン著「プロタゴラス」を読んでいる。190ページ程度まで、読み進めた。

ソクラテスは、プロタゴラスとの対話において、恐ろしいものと恐ろしくないものについての知恵が勇気であることになるのではないかと問いかける。しかし、プロタゴラスは、うなずく気もなく黙っている。プロタゴラスは、かつて、無知であるにもかかわらず勇気のある人がいると主張していたからだ。

「ソクラテス、君は勝ちたい一心で、わたしに答えを強いるのだね。それなら、ひとつ、きみを喜ばせてあげることにしよう。すでに同意されたことから考えれば、そのようなことはありえないと思う。わたしはそう主張しよう」

簡単には負けないプロタゴラス。しかし、ソクラテスの目的は、本当に、勝つことであったのであろうか?

2018年2月16日金曜日

プラトン著「プロタゴラス」 14

光文社古典新訳文庫のプラトン著「プロタゴラス」を読んでいる。180ページ程度まで、読み進めた。

ソクラテスは、大衆は次のようなことを言うと言う。

「人間はしばしば、悪いことを、それが悪いことだとわかっていて、しかも、それをしないでいることができるのに、快楽に駆り立てられ、目がくらんで、それをしてしまう」

「人間は、よいことだとわかっていても、そのときの快楽に征服されて、それをしようとはしない」

ソクラテスは、そのようなことは無知ゆえに起こると言う。

「快楽と苦痛——これはよいものと悪いものだった——を選択するときに間違える人がいるなら、それは知識を持っていないからだ」

2018年2月15日木曜日

プラトン著「プロタゴラス」 13

光文社古典新訳文庫のプラトン著「プロタゴラス」を読んでいる。170ページ程度まで、読み進めた。

ソクラテスは、プロタゴラスに、快いものはよいものであり、苦しいものは悪いものであるかと問う。プロタゴラスは、次のように答える。

「快いもののなかにはよいとはいえないもの、また苦しいもののなかには悪いとはいえないものがある。他方、そうだといえるものがある。そして、よいとも悪いともいえない第三のものもある」

ソクラテスは、大衆は次のように主張すると言う。

「何をするのが最もよいかをわかっていて、しかもそれをすることができるのに、それをしようとはせずに、他のことをしてしまう人がたくさんいる」

私は、それは意識にある考えと意識にない考えの異なりのように思うが、この時点でのソクラテスの考えはそれとは異なる。

ソクラテスは、大衆にとって喜びが悪いものであり得る事態について、次のように語る。

「きみたちは、喜び自体を悪いものと呼ぶこともある。だがそのような場合には、それをした結果として、その喜びに含まれるよりも大きな快楽が奪われたり、そこに含まれる快楽よりも大きな苦痛が生じたりしているのだ」

苦しみについても同様である。

2018年2月14日水曜日

プラトン著「プロタゴラス」 12

光文社古典新訳文庫のプラトン著「プロタゴラス」を読んでいる。160ページ程度まで、読み進めた。

ソクラテスは、最初の質問に戻る。知恵、節度、勇気、正義、敬虔。これら五つの名前は、一つのものなのか。プロタゴラスが初めに言ったように、それらは徳の部分だとして、それらは独自のものなのか。プラタゴラスは、それらは徳の部分であり、互いによく似ているが、勇気だけはまったく異なるものだと答える。

ソクラテスは、勇気のある人は大胆ですかと問う。プロタゴラスはそうだと答える。それで、ソクラテスは、知恵のある者は大胆である例を示し、知恵は勇気であることになるかと問う。プロタゴラスは、大胆な人は勇気があるかという問いに対しては、すべてがそうとは限らないと答えると言い、そのことを否定する。

「勇気のある人は大胆だとはいえるが、大胆な人であればすべて勇気があるとはいえないのだ。大胆さは、力のように、技術から生じて人間にそなわることもあるし、怒りや狂気から生じることもある。これに対して、勇気のほうは、心の素質が優れ、かつそれを上手に育てなければ生じてこないのだ」

2018年2月13日火曜日

プラトン著「プロタゴラス」 11

光文社古典新訳文庫のプラトン著「プロタゴラス」を読んでいる。150ページ程度まで、読み進めた。

ソクラテスは、シモニデスの詩は、「わたしは、すべての人を愛し、ほめたたえる」という部分で、ピッタコスに語りかけていると言う。シモニデスは、何も悪いことをしなければ、それで十分であると考えており、その点でピッタコスを非難しているとソクラテスは言う。このようにして、ソクラテスは、プロタゴラスの質問に対する答えを終える。しかし、ソクラテスは、詩に関する論議はこれで終わりにしたいと言う。その理由は、優れた人たちは、自分たちだけで、自分たちのものだけを使って互いに交わり、自分たちの言葉だけで互いにやり取りして、お互いを試すものだからと言う。しかし、プロタゴラスは、この後どうするのかはっきりとしなかった。そこで、アルキビアデスはカリアスに対して、プロタゴラスの態度は立派なものではないと言う。

「プロタゴラスは、恥じ入ってしまった。(すくなくとも、ぼくにはそう見えたよ。)なにしろ、アルキビアデスはこんなことを言うし、さらにカリアスをはじめ、出席者のほぼ全員が彼にお願いしたからね。そして、彼はとうとう、対話するほうを選んだんだ。そして、答えるから質問してくれと言った」

2018年2月12日月曜日

プラトン著「プロタゴラス」 10

光文社古典新訳文庫のプラトン著「プロタゴラス」を読んでいる。140ページ程度まで、読み進めた。

シモニデスの詩は、名声の高いピッタコスを打ち負かし、知恵に関してよい評判を得るということに目的があったとソクラテスは言う。そして、プロタゴララスの言うようにシモニデスの詩は矛盾してはいなく、〈ある〉と〈なる〉については、次のような違いがあるということをソクラテスは語る。

「よい人であること——すなわち、よい人でありつづけること——は不可能である。これに対して、よい人になることならできるが、しかし、その同じ人が悪い人になることもありうる。最も長いあいだ最もよい人でいられるのは、神々の愛する人々なのだ」

2018年2月11日日曜日

プラトン著「プロタゴラス」 9

光文社古典新訳文庫のプラトン著「プロタゴラス」を読んでいる。130ページ程度まで、読み進めた。

プロタゴラスは、ソクラテスに、人間教育における最も重要な部分とは、詩歌を解する能力であると言う。そこで、あるシモニデスの詩を挙げ、それは正しくないことを語っていると言う。それに対して、ソクラテスは、その詩は正しいことを語っていると言う。その詩とは、次のようなものである。

ほんとうによい人になることこそ困難だ
手足も心もまっとうな、欠点なき人となることは
〈数行欠落〉
わたしには、ピッタコスの言葉も正しいとは思えない
賢者によって語られた言葉だとしても
彼は言う——立派な人であることは困難だと

プロタゴラスは、シモニデスは自分と同じことを言っているピッタコスを非難していると言うのである。それに対して、ソクラテスは、〈なる〉と〈ある〉は異なることであるから、この詩は矛盾していないと言う。

2018年2月10日土曜日

プラトン著「プロタゴラス」 8

光文社古典新訳文庫のプラトン著「プロタゴラス」を読んでいる。120ページ程度まで、読み進めた。

ソクラテスは、ソクラテスの質問に対して、長い答えをするプロタゴラスに、短く答えるように求める。そして、ソクラテスは、プロタゴラスはそのことに不満を持っているように考える。そのことに関して、周りにいた人間が、適切な長さになるように監督を付けることを提案するが、ソクラテスはそれはプロタゴラスに失礼だとして拒否する。その代わりに、ソクラテスは、自身が質問を答える側に立ち、短く答えるということをしてみせるので、その後に、プロタゴラスに質問するということを提案する。

「全員が、そのようにするのがよいと賛成してくれた。いっぽうプロタゴラスは嫌がったのだが、結局は無理やり同意させられ、まずは彼のほうが質問し、十分に質問したら、こんどは短い言葉で質問に答えることになった」

2018年2月9日金曜日

プラトン著「プロタゴラス」 7

光文社古典新訳文庫のプラトン著「プロタゴラス」を読んでいる。100ページ程度まで、読み進めた。

プロタゴラスは、ソクラテスのトリック(のようなもの)に引っかかる。ソクラテスの質問に対して、プロタゴラスは、無分別の反対のものとして、知恵と節度と二つの異なるものを答え、さらに、ひとつのものにはひとつの反対のものがあると答えてしまう。それで、プロタゴラスの答えは矛盾したものになってしまう。

「だって、一方の主張では、ひとつのものにはひとつの反対物があるだけで、それより多くはないはずなのに、他方の主張では、無分別というひとつのものに、知恵だけでなく節度という反対物まであることが判明したわけですからね」

2018年2月8日木曜日

プラトン著「プロタゴラス」 6

光文社古典新訳文庫のプラトン著「プロタゴラス」を読んでいる。90ページ程度まで、読み進めた。

ソクラテスは、プロタゴラスに、正義と敬虔は異なるものであるかを問う。プロタゴラスはそうだと答える。そこから、ソクラテスは、そうだということは、不正な性質を持つ敬虔や不敬虔な性質を持つ正義があることになるのかと問う。それに対して、プロタゴラスは、正義と敬虔は少し似たところがあるが異なるものであると答える。

『ぼくはびっくりして、彼に向かって言った。「あなたはほんとうに、正義と敬虔のあいだの関係は、互いにその程度の小さな類似点しか持たないようなものだとお考えなのですか?」 彼は言った。「そこまで小さなものではない。かといって、きみが信じていると見受けられるほどの類似性もないのだ」』

2018年2月7日水曜日

プラトン著「プロタゴラス」 5

光文社古典新訳文庫のプラトン著「プロタゴラス」を読んでいる。80ページ程度まで、読み進めた。

プロタゴラスは、徳は教えられるものだと言う。徳を教えられないと考えるのは比較する対象を間違っているからであると言う。例えば、野蛮人と比較すると、徳は教えられるものだと考えることが妥当であるように思われると言う。優れた徳の持ち主である父親が子供に徳を教えられないように見えるのは、生まれながらの才能のためであって、不思議なことではないと言う。

「ソクラテス、これでわたしは物語と理論の両方をきみに語り終えたことになる。その内容は徳は教えることができるというこち、アテネ人たちもそのように考えているということ、そして、優れた父親の息子がつまらない人物になったり、つまらない父親の息子が優れた人物になったりするのは、なんら不思議なことではないということであった」

2018年2月6日火曜日

プラトン著「プロタゴラス」 4

光文社古典新訳文庫のプラトン著「プロタゴラス」を読んでいる。70ページ程度まで、読み進めた。

プロタゴラスによって語られた物語によると、神々によってつくられた人間のすべては、ゼウスの使者のヘルメスによって、国をつくらせるために謙譲心と道義心を与えられた。そして、プロタゴラスは、そのことから、すべての人間は政治をするのにふさわしいと語る。

「さてソクラテス、これでわたしは、きみに次のことを明らかにしたことになる。すなわちひとつは、きみの同国人たちは政治的問題に関しては鍛冶屋の助言であろうが靴職人の助言であろうが聞き入れるが、それはもっともなことだということ。そしてもうひとつは、彼らは徳というものは人に教えられてそなわるものだと考えているということである」

2018年2月5日月曜日

プラトン著「プロタゴラス」 3

光文社古典新訳文庫のプラトン著「プロタゴラス」を読んでいる。60ページ程度まで、読み進めた。

あなたは何を教えることができるのかというソクラテスの問いに対して、プロタゴラスは次のように答える。

『「すなわち、わたしから学べるのは、たくみに策を練る力だ。これを使えば、家のことに関しては、自分の家を最もよく治めることができるし、国のことに関しては、国のことを行うにも論じるにも、最も力のある者になれるのだよ」 ぼくは言った。「わたしは、あなたの言葉を正しく理解しているでしょうか? あなたは政治の技術のことをおっしゃっていて、また、よき国民をつくることを約束されていると、わたしには思えるのですが」 彼は言った。「まさにそれなのだ、ソクラテス。わたしがやっているのは」』

そして、ソクラテスは、そのようなことを教えることができるとは誰も考えてはいないと言う。

『国家政策について何かを審議しなければならないときには、誰もが同じように立ち上がり、そうした問題について彼らに助言するのです。その人が大工でも、鍛冶屋でも靴職人でも、貿易商人でも船主でも、また裕福でも貧しくても、家柄がよくても悪くても同じです。そして、先ほどの場合のように、「この人は、学んだことも、先生に付いたこともないくせに、助言しようとしている」と言って、こうした人たちを非難する者は、ひとりもいないのです。その理由は明白です。すなわち、彼らはそうしたものを教えることができるとは考えていないのです」

2018年2月4日日曜日

プラトン著「プロタゴラス」 2

光文社古典新訳文庫のプラトン著「プロタゴラス」を読んでいる。50ページ程度まで、読み進めた。

ソクラテスとヒポクラテスは、ソフィストのプロタゴラスに会いに行き、議論をしてもらえるように提案する。ブロタゴラスによると、ソフィストでありながらそのことを隠して生活しているものはたくさんいる。プロタゴラスは、そのようなことはしないと言う。

「だからわたしは、こうした人たちとはまったく逆の道を歩んできたのだ。わたしは、自分がソフィストであり、人々を教育していることを認めている。このような用心のほうが、あのような用心よりも、すなわち認めるほうが認めないよりもよいと考えているのだ。また、そのほかにもいろいろな用心をしてきたので、神様のおかげもあって、ソフィストであると公言して、ひどい目にあったことは一度もないのだよ。じっさい、わたしは、すでに長年この技術に携わっている。だから、もうかなりの歳だ。きみたちのなかの誰をとっても、年齢的にみてわたしが父親になれないような人は、ひとりもいないだろう」

2018年2月3日土曜日

プラトン著「プロタゴラス」

光文社古典新訳文庫のプラトン著「プロタゴラス」を読んでいる。30ページ程度まで、読み進めた。

ソフィストのプロタゴラスに教えを請いたいというヒポクラテスに対して、ソクラテスは何の教えを請いたいのかと問う。そして、ソフィストであるプロタゴラスは弁舌巧みな者にしてくれるという結論に達するが、ソクラテスは、さらに、ソフィストは何に関して弁舌巧みな者にしてくれるというのかと問う。それに対して、ヒポクラテスは答えられない。

『「では、ソフィストが人を弁舌巧みな者にしてくれるのは、いったい何に関してなのか?」
「もちろん、彼が知識を与えてくれる事柄に関してです」
「まあ、たしかにそうなんだが……。でも、それは一体何だろうか? つまり、ソフィスト自身が知識を持っていて、その知識を弟子にも与えてくれる事柄とは?」
「降参です。もう何も言えません」と彼は言った。』

2018年2月2日金曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 60

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の最後まで、読み進めた。

アリストテレスは、善き人になるためには、養育、習慣、法が大切であると言う。

「ここまで語ってきたように善き人になろうとする者は、適切に養育され、立派に習慣づけられて、その後すぐれた課題をこなして立派に生き、不本意にせよ自発的にせよ、劣悪なことを為さないようにしなければならない。しかも以上の事柄は、なんらかの知性と、従わせる力をのもつ正しい規範的秩序に基づいて、実現しうることなのである。——もし以上のとおりなら、父親の指令は、強制できる効力も強制力ももっていないし、王やその類いの人でないかぎり、一般に、一私人の指令は、そのような力をもたない。これに対して、法は、思慮深さと知性に発する分別を表す言葉であるがゆえに、強制する力をもっている」

2018年2月1日木曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 59

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の420ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、幸福は或る種の観想的な活動であると言う。そして、観想的活動は神の活動の似像であると言う。

「完全な幸福が或る種の観想的な活動であるということは、以下の説明からも明らかになるだろう。すなわち、われわれは神々が至福で幸福であるとみなしているのである。だが、それではいかなる行為が神々にふさわしいとすべきだろうか?」

「こうして、すべてひとつひとつ仔細に考えてみると、もろもろの行為における美点などは些末なものにすぎず、神々に値しないものにほかならないのである」

「神々は生きているが、ただし、行為を為すことはそこから除外され、まして何かを制作することもいっそうはっきり除外されるのであれば、観想以外、ほかに何が残るだろうか? それゆえ、至福において際立っている神の現実活動は、観想的活動であるということになる。そして、人間のさまざまな活動のうちでも、神のこの観想的活動にもっとも親近な活動こそ、もっとも幸福に満ちたものである」

2018年1月31日水曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 58

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の410ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、至福の人間に割り当てられるような諸特徴があれば、どれもみな観想的活動において成り立っていると言う。そして、観想的活動について、次のように語る。

「このような生活は、単に人間にふさわしいような生活より、すぐれたものだろう。なぜなら、このような生活を送るのは、その人が人間であるかぎりにおいてではなく、その人のうちになにかしら神的なものが内在している、そのかぎりにおいてのことだからである。そして、この神的部分が結合されたものよりすぐれている、その相違の分だけこの活動のほうも、ほかの徳に基づく活動よりすぐれている。したがって、人間に対する関係において知性が神的ならば、その神的なものによる生活もまた、人間にふさわしい生活に対しては、「神的」である」

2018年1月30日火曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 57

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の400ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、幸福について、次のように語る。

「幸福な人生は、徳に基づくような生であると思われる。しかしそうした生活はまじめさを伴うものであって、遊びのうちにはない。そして、まじめな活動は面白おかしく遊びを伴う活動よりもすぐれており、また、すぐれているのが魂の部分にせよその人間自身にせよ、よりすぐれた者にとって為すのがふさわしい活動ならば、それだけますますまじめな活動であるとわれわれは主張するのである。そして、よりすぐれた者の活動は、そのことだけでもう、より善きものであって、いっそう幸福に満ちたものなのである」

2018年1月29日月曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 56

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の390ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、人間のもつべき快楽というものがあると言う。その点では、アリストテレスは快楽主義者とは異なるだろう。

「高潔と思われるもろもろの快楽のうち、いかなるものが、また何が人間のもつべき快楽であると主張すべきなのだろうか? あるいは、その点は、人間のおこなう活動から明らかになるのではないか。というのも、快楽は活動に付随するからである。そこで、完全で至福な人の活動がひとつであろうと複数であろうと、真正の意味では、そのような活動を完成させる快楽こそが人間のもつべき快楽であると言えるだろう。これに対しそれ以外の快楽は、その活動もそうであるように、二次的に、またはるかに劣った意味合いで、人間の快楽と語られるのである」

2018年1月28日日曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 55

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の380ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、快楽について次のように語る。

「快楽が運動もしくは生成であると語っている人々が正しい語り方をしていないということも、明らかである。なぜなら、「運動」や「生成」はあらゆるものにかんして言えるような事柄ではなく、部分に別れ、全体ではないものにかんして言える事柄だからである。実際、見ることにも、点にも一にも、生成はなく、これらのどれも、運動でも生成でもないのである。それゆえ、快楽にも運動も生成もないのである。なぜらな、それは或るひとつの全体だからである」

「いかなる感覚に基づいても快楽があり、思考と観想に基づいても同様に快楽があるが、そのどれをとっても、もっとも完全な活動がもっとも快い。そして、良好な状態にある感覚による知覚の、感覚の感知の範囲内にある対象のうちでもっともすぐれた対象に向かっての活動が、もっとも完全である。そして、快楽はこうした活動を、完成させるのである」

快楽は、運動や生成ではなく、活動の終局であるということである。

2018年1月27日土曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 54

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の370ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、快楽について、次のように述べる。

「われわれは、たとえ何ひとつの快楽を伴わないとしても、それでも多くのことをめぐって、たとえば、見ることや覚えることにたとえ必然的に快楽が付随するとしても、重要性に何の変わりもないのである。なぜなら、われわれは、たとえこれらから快楽が得られなくとも、それでもこれらを選ぶにちがいないからである」

「したがって、快楽は善ではなく、いかなる快楽も望ましいというわけではないこと、そして、種類において、もしくは快楽が生まれてくる事柄においてほかの快楽とは異なるような、それ自体で望ましい一定の快楽があること、以上のことは、明らかであるように思える」

2018年1月26日金曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 53

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の360ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、善とは快楽であるという立場と快楽は劣悪なものであるという立場において、後者の立場は正しくないと論じる。

「言論の真理は、知るためにばかり有用であるのみならず、実生活そのものにとっても有用であるように思えるのである。なぜなら、事実と整合するとき言論は信用され、それゆえにそのような言論は、人生をそれ自体としてよくわかっている人々を励ますからである」

「現実には人々は、一方の苦痛を悪として避けており、他方の快楽を善として選んでいる。このことは明らかなのである。つまり、これらは、このような仕方において対立しているのである」

2018年1月25日木曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 52

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の350ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、幸運に際してより友人を必要とするのか、それとも不運に際してより友人を必要とするのかという問題に対して、次のように答える。

「幸運に際して友がかたわらにいてくれるということは、時を過ごすことを楽しくしてくれるし、友人が、自分が得た恵みを喜んでくれているという想いにさせてくれるのである。それゆえ、幸運の折には友人を積極的に招くべきであり(なぜなら、親切なふるまいは立派なことだからである)、不幸の折にはそのようなことを慎むべきであると思える」

そして、劣悪な人々同士の愛と高潔な人々同士の愛について、次のように語る。

「劣悪な人々同士の愛は不良になるが(なぜなら、不確かな人間だからこそ劣悪な相手と交際するのであり、しかも互いに似てくることにより、まさに不良な人間になるからである)、高潔な人々同士の愛は、交際によってともに成長を遂げるような、すぐれたものになる」

2018年1月24日水曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 51

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の340ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、徳に基づいた友人の数には適量があると言う。

「友人ができるだけ多くいることを求めるのは、おそらく適切でない。むしろ、ともに生きるのに十分な数の友人がいることを求めることが、適切なのである。なぜなら、多くの人ときわめて親密な友人であることは、そもそも不可能であるとも思えるからである」

「政治的な意味においてならば多くの人の「友人」であることは、可能である。しかし、多くの人々と徳に基づいて、またその人自身ゆえに友人であることは、可能ではない。この類いの少数の人々を見いだすだけでも、それで満足に値するのである」

2018年1月23日火曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 50

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の330ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、幸福な人は友人を必要とするかという問いに対して、友人は善いことを行う相手として必要であると語る。そして、結論のようにして、次のように語る。

「もし至福な人にとって存在することが、自然本性的に善いことであり快いがゆえに、それ自体としして望ましいものであり、かつ友人が存在することもそれに近いならば、友人もなた望ましいもののひとつであることになる。そしてその人にとって望ましいものは、その人にそなわるべきである。さもなければその人は、この点で「欠けたところのある人間」になってしまうだろう」

2018年1月22日月曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 49

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の320ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、相手のために親切なことをする人々にとって相手は作品のようなものだと述べる。そして、作品について次のように語る。

「われわれは、現実におこなう活動において存在し(なぜならわれわれは、生きることと行為することにおいて存在するからである)、しかも作品は或る意味で、そうした活動において存在しているような、作者であるということである。したがって、そのような作者は、自分の存在を愛するがゆえに、作品をも愛好するのである。つまり、このことは自然本性に根ざすことなのである」

アリストテレスは、大衆は自己愛を否定的に捉えるが、真の自己愛はむしろ望ましいものであると語る。

「知性が「それぞれの人である」こと、もしくは、知性がもっともすぐれて「それぞれの人である」こと、そして、高潔な人が何よりもまずこの知性を愛好していることは、明らかなのである。したがって、こうした人こそもっともすぐれて「自分を愛する人」だろう。ただし、非難される自己愛者とは異なる種類における自己愛者なのであり、ここには、分別に従って生きることが感情に従って生きることと異なるほどに、また美しい行いを欲求することが、自分の益になるとみえるものを欲求することとは異なるほどに、大きな違いがある」

2018年1月21日日曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 48

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の310ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、好意について、次のように語る。

「好意は、愛を説明する特徴のようにみえるけれども、愛ではない。なぜなら、好意は見知らぬ人に対しても、自分に気づかない相手に対しても発生するが、愛のほうはそうではないからである」

そして、アリストテレスは、協和について、次のように語る。

「協和も愛を説明する特徴に思える。このことゆえに、それは単なる同意見ではない。なぜなら「同じ意見」なら、互いに見知らぬ人々のあいでにも成り立つことがありうるからである」

「複数の国が有益さについて同意しあい、同じ方針を選択し、共通に善いと思われることを為すとき、その場合に人々は、これらの国は「協和している」と語っているのである」

「現実にそのような言葉で言われているとおり、協和は「政治的な愛」なのである。なぜなら協和は、有益であり、生活にかかわるようなものをめぐる事柄だからである」

2018年1月20日土曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 47

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の300ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、友人の特徴について次のように語る。

「人々はまず、相手のために善もしくは善にあらわれるものを願い、行為する人、あるいは友人のために、その人が存在し、生きることを願う人のことを、友人と考えているからである」

「友人とともに行き、友人と同じことを選ぶ人、もしくは友人と同じ苦しみを味わい、同じく喜ぶ人を友人であるとする人々もいる」

そして、アリストテレスは、高潔な人は、友人の特徴が自分自身に当てはまる人であると言う。さらに、高潔な人は、自分に対するように友人に対すると言う。逆に、劣悪な人は、この特徴がまったく当てはまらない人であると言う。

2018年1月19日金曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 46

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の290ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、次のような難問があると言う。

「父親にすべて委任して全部のことで父に従うべきだろうか、あるいはそうではなく、病気の時には医者を信頼すべきであり、将軍の選出では軍事に長じた人に一票を投ずるべきなのだろうか? また同様に、二つのことが同時にかなわない場合に、人が奉仕すべきなのは、「すぐれた人」というより、むしろ「友人」なのだろうか、また、「仲間」のために善行をおこなって親切にすべきというより、むしろ善いことをしてくれた「恩ある人」に、その人から受けた善をお返しすべきなのだろうか?」

アリストテレスは、この問いに対して、「精確な規定を与えて答えることは、たしかに難しいことである」と言う。しかし、「すべてをただ一人の同じ人に任せきりにしてはならないというこの一点だけは、はっきりしている」と言う。

次に、アリストテレスは、愛の関係の解消について語る。アリストテレスは、有用さや快楽を愛しての友人であれば、そういうことがあり得ると言う。

また、善き人を友人として受け入れていて、その相手が不良な人間になった場合については、次のように語る。

「改善の見込みがある相手に対してであれば、財産よりも人柄のほうがいっそう善きものであり愛そのものにいっそう特有の仕方で結びついたものである分、相手の財産のために手を差し伸べる以上に大いに、相手の人柄のために援助の手を差し伸べるべきであろう。しかしその一方では、そのような場合に人が愛を解消するとしても、なんら奇妙なことをしてはいないだろう。なぜならその人はもともと、このような相手の友人であったわけではないからである」

2018年1月18日木曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 45

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の280ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、共同体においては、愛(フィリア、友好とも訳される)は、貨幣が共通の尺度となると言う。

「異なる種類の愛が混在するあらゆる愛において、比例的関係によって愛は「等しいもの」にされて、維持される。たとえば共同体の友好においては、履物職人に対して靴の価値に応じて支払いが為され、織物職人やほかの職種の人々に対しても同じように為されるが、これは、それと同様のことなのである。こうして、この共同体の友好においては、貨幣が共通の尺度として供給されている。そして貨幣にすべてが換算されて、すべてのものがこれを尺度に測られるのである」

これはどうであろうか。愛(フィリア)はすべて貨幣に換算され得るのであろうか。愛(フィリア)というものが、友好(フィリア)とも訳されるからこのように語られるのであろうか。先に述べられたように、愛の見返りは名誉であってもよいはずである。共同体を成立させるために、共同体の友好(フィリア)は貨幣に換算されるということであろうか。

2018年1月17日水曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 44

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の270ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、より善い人はより多く配分されるべきであるという考え方と、窮乏している人やより能力のない人はより多く享受されるべきであるという考え方が、対立するという問題があると言う。それに対して、アリストテレスは次のように言う。

「実際、だれも、自分があらゆる事柄においてより少ないということには、耐えることができない。そこで、こうして人々は、金銭の面で減ぜられた者には名誉を配分し、贈与を受けるべき者に財貨を配分するのである。なぜなら、すでに述べたように、価値に応じた配分が愛を等しいものにして、愛を維持するからである」

2018年1月16日火曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 43

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の260ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、親子や兄弟の愛について、次のように語る。

「親は子どもを、あたかも自分自身を愛するようにして愛する(なぜなら、生まれた子どもは、いわば、切り離されたがゆえに「別になっている自己」のようなものだからである)。これに対し、子どもは親を生みの親として愛し、兄弟は互いを同じ親から生まれた者同士として愛する。なぜなら、生みの親に対する関係の同一性が、互いを「同じもの」にしているからである」

アリストテレスは、愛や友人には、徳に基づくもの、快楽に基づくもの、有用さに基づくものの三種類があると言う。そして、不平や非難は、有用さに基づくものにおいて生まれると言う。徳に基づく友人は、互いに対して親切によくしてあげるように務めるし、快楽に基づく友人は、快楽という欲しているものは同時に両方の手に入っていると言う。

涙は不思議。世界をよりよくするのは、愛ではなくて、正義でもなくて、涙なのではないかと思うことがある。

2018年1月15日月曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 42

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の250ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、国家体制の優劣を次の順番に付ける。王制、優秀者支配制、財産査定制、民主制、寡頭制、僭主制。そうすると、現在の資本主義国家は、4番目に位置することになりそうだ。善き王のもとでの王制が最も善い。しかし、王制は僭主制に転換するリスクを負っている。民主制はリスクが少ない。そういうことになると思う。

個人的には、一番良いのは、試験に基づく政治であるように思う。それは一種の優秀者支配制であろう。それは政治に参加するために必要な最低限の知識を問う試験を作るということである。そのような制度は真の意味で平等な制度であると言えるかもしれない。義務教育というものがあるのだから、そういう制度があっても良いように思う。

2018年1月14日日曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 41

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の240ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、愛は愛されることのうちにあるというより、愛することのうちにあると言う。

「そして、このように愛は自分から愛することのうちにあり、また、友人を大切にして愛するような人々が賞讃されるのだから、愛されることというより自分から愛することこそ、友人としての徳であるように思われるのである。それゆえ、このことが価値に応じて生まれるような人々は安定した持続性をもつ友人であり、このような人々の愛が、安定した持続性をもつ愛である」

アリストテレスは、愛と正義は共同体によってあると言う。

「はじめに語ったように、愛と正義は同じ事柄をめぐっており、同じ範囲の人々について成り立つように思われる」

「人々が互いに共同するだけのその程度、愛がある。正義も、その程度だけあるからである。また「友のものは共のもの」という諺は正しい。愛は人々が共同することのうちにあるからである」

「すべての共同関係はポリス共同体の「部分」であるように思われるのである。そして特定の種類の愛は、特定の種類の共同性に伴うものだろう」

2018年1月13日土曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 40

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の230ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、別の種類の愛として、優越性に基づく愛を挙げる。

「愛の別の種類は、優越性に基づくような愛である。たとえば、息子に対する父親の愛、一般に年少の者に対する年長の者の愛、また女性に対する男性の愛、および、一般にいかなる支配であっても、支配される者に対する支配する者の愛がこれに該当する」

「そして、優越性があるようなすべての愛において、愛情も比例的になっていなければならない。たとえば、よりすぐれた者は、自分が愛するより以上に相手から愛されるべきなのであり、より有用な者もそうである。ほかの点で優越する者も、それぞれ同様である。というのも、愛情が価値に応じたものになるとき、そこには「等しさ」もなんらかの意味で生まれるからである。そしてこの等しさの発生こそ、愛に属することであると思われる」

アリストテレスは、友人は友人に対して最大の善を願うかどうかは難問であると言う。

「たとえば人と神との隔たりのようにはなはだしく互いに隔たってしまった場合であれば、関係はもはや続かないからである。ここからはまた、いったい友人は友人に対して、最大の善、たとえば神になるというような善を、願わないのだろうかという難問が生まれる。なぜ人がそのように願わないかといえば、そうなったとき、もはや相手は自分にとって友人ではなくなってしまうし、したがって善いものでさえなくなってしまうからである」

2018年1月12日金曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 39

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の220ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、性向と活動ゆえに善き人と語られるが、愛も同様であると言う。

「徳の場合に、或る人々は性向のゆえに「善き人」と語られ、また別の人々は活動のゆえに「善き人」と語られる。これは愛の場合も同様である。なぜなら、ともに生きている人々は互いに対して実際に喜びを感じ、互いに対して実際に善いものを提供するのに対し、眠っている人々や場所が離れている人同士は、そのような現実の活動を行なっているわけではないにせよ、友人としての活動をいつでもするような性向にはあるからである」

そして、愛情は感情に似たものであり、愛は性向に似たものであると言う。

「愛情は感情に似たものであり、愛は性向に似たものである。なぜなら愛情は生物に劣らず無生物にも向かうが、人々が「愛し返す」のは選択を伴うことであり、選択は性向に由来しているからである。また人々は、愛される相手にとっての善を当の相手のために願うのだが、このことは感情によることではなく、性向によることである」

そして、利益と快楽など或るものと別のものを交換する愛は劣っていると言う。

「この後者の愛は愛として劣っており、あまり長くは持続しないということはすでに語られた。そして、それだけでなく、「徳に基づく愛という」同じものとの類似性と非類似性によりこれらはまた、「愛である」とともに「愛ではない」とも思われるのである。なぜなら、第一に、徳に基づく愛との類似性によってこれらは「愛である」と思われるが(一方は快楽をもち、他方は有用さをもっており、こういった要素は徳に基づく愛のほうにもそなわっているものだからである)、しかし第二に、徳に基づく愛は誹謗中傷と無縁であり安定した持続性をもつのに対し、これらの「愛」のほうは、すばやく変転することにとくにみられるように、多くの点で徳に基づく愛と異なっているがゆえに、こうした非類似によっては「愛でない」ように思えるからである。

2018年1月11日木曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 38

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の210ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、三種類の愛、善さに基づく愛、快楽に基づく愛、有用さに基づく愛について、次のように語る。

「以上のように、愛はこれらの三種類に分かれているので、劣悪な人々は、快楽もしくは有用さのゆえに、友人になれる。こうした範囲ではかれらは、似た者だからである。これに対して、善き人々は、互いに自分自身のゆえに友人となることができる。なぜならかれらは、善き人であるという点で友人だからである。したがってこの善き人々こそ限定ぬきに友人なのであり、先にあげた人々は付帯的に、また善き人々に似ているがゆえに友人なのである」

2018年1月10日水曜日

人間とAIの記憶の異なり

人間とAIの記憶の異なりについて考えてみたい。

人は家の鍵の閉める方向、時計回りか反時計回りかを覚えているだろうか? ぼくは覚えていない。それでも、出て行くときも、入るときも、困らない。1/2の確率で当たるからである。

ぼくは、暗証番号式の鍵の家に済んでいたことがある。そのときは、もちろん暗証番号を覚えていた。1/9999の確率だからである。

AIであれば、家の鍵の閉める方向は、覚えてしまうように思う。とても簡単なことだからである。人がそれを覚えない理由は、不思議であると言えば不思議である。それほど、リソースのかかることではないように思う。少なくとも、AIにとってはそうだろう。人にとっては、そのリソースは少なくないということだろうか。

記憶のあり方が、人とAIとでは異なるのかもしれない。それ以上のことは、今のぼくにはわからないことだ。

2018年1月9日火曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 37

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の200ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、愛には三種類あると言う。

「愛される性質のものとは、「善いもの」か、「快いもの」か、あるいは「有用なもの」であると思われる。しかるに、何か善いもの、もしくは快いものがそこから生じるような、そうしたものが「有用なもの」であると思われるのである。したがって、「善いもの」と「快いもの」のほうは、目的として愛される性質のものであることになる」

そして、完全な愛について、次のように語る。

「愛として完全なのは、善き人々のあいだ、つまり徳の点で類似の人々のあいだに成り立つ愛である。なぜならこの人々は、かれらが善き人であるかぎりにおいて、互いに同じ仕方で互いの善を願いあうのだが、ここでかれらが「善い」のは、かれら自身に基づいてのことだからである」

2018年1月8日月曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 36

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の190ページ程度まで、読み進めた。

欲望や快楽の問題に続いて、アリストテレスは、愛について語る。

「以上の考察の後では、愛についてつぎに論ずることがふさわしいだろう。なぜなら、愛は徳のひとつであるか、徳を伴うものであり、またさらには人生にとってとりわけ必要なものだからである」

愛は、原語でフィリアであり、訳者によれば、中心的フィリアは、友愛である。しかし、友愛は、夫婦愛や家族愛などを表すためには自然な表現ではないので、愛と訳したということである。

アリストテレスは、愛の問題について、人間にかかわり、人柄と感情に関係するような問題を検討すると言う。その問題は、次のようなものである。

「愛は万人の中に生まれるものなのだろうか、それとも、人柄が不良な人ならば友人になり得ないのだろうか?」

「愛の種類はひとつだろうか、それとも複数だろうか?」

2018年1月7日日曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 35

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の180ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、最高善について、次のように婉曲的に語る。

「劣悪な快楽が一部あるとしても、最高善が或る種の快楽であることを妨げるものは何もないのである。これは、一部の知識に劣悪なものがあるとしても、最高善は或る種の知識でありうるのと、同様のことである」

アリストテレスは、身体的快楽について次のように語る。

「たとえば立派な楽しみのように、或る快楽はたしかに非常に望ましいが、身体的快楽、つまり放埒な人がそれに熱中する快楽は望ましくないと言う人々は、身体的快楽について考察しなければならない」

「身体的な善には超過が存在し、劣悪な人間はこの超過を追求しているのであって、自分に必要不可欠な快楽を追求しているのではないのである」

そして、「苦痛のない快楽は超過をもたない」と言う。「これらの快楽こそ、自然本性的に快く、たまたま付帯的に快いというわけではないものの快楽なのである」と言う。

2018年1月6日土曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 34

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の170ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、「善い」には二つの意味があると言う。

「「善い」は二つの意味で(つまり、限定ぬきに善いという意味と、関与するなんらかの人やものにとって善いという意味の両方で)語られる。そしてもろもろの自然と性向についても、この二義性が成り立つ。したがって、もろもろの運動と生成もこれに伴って二つの意味があり、「劣悪」と思われる快楽には、限定ぬきに劣悪ではあるが、或るだれかにとってはそうではなく、その人にはむしろ望ましいと思えるものもある。また、特定のだれかにとってさえ望ましいというわけではなく、或る特定の短期間望ましいだけであって、限定ぬきには望ましくないものもある」

次に、「善いもの」について次のように語る。

「「善いもの」のひとつは現実に起こる活動であり、もうひとつは性向であるので、自然的性向へと回復してゆく過程が快いことは、付帯的なことである。そして、回復を目指す欲望のもとで起こる活動は、まだ無事に残っている成功と自然本性が担う活動なのである。というのも、たとえば観想という活動がそうであるように、自然本性が欠けていない場合には、苦痛と欲望が伴わないような快楽もあるからである」

そして、終局について次のように語る。

「或る人々が言うように生成過程より終局が善いものであるとしても、それと同じように快楽よりも善い別の何かがあるということには、必ずしもならないのである。なぜなら、すべての快楽が生成過程であるわけでもないし、すべての快楽が生成過程とともにあるというわけでもなく、むしろ快楽は、活動であり、そして終局だからである」

2018年1月5日金曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 33

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の160ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、抑制のない人と人柄が不良な人とは異なると言う。それを次のような比喩で語る。

「抑制のない人とは、決すべきすべての議案を決議し、すぐれた法律も整備しておきながら、それを全然活用しないような国に似ている」

「これに対して劣悪な人は、法を活用するが、その法そのものが劣悪な国に似ている」

快楽と苦痛にかんして、アリストテレスは、三つの通念があると言う。一つ目は、「いかなる快楽も、それ自体においてもたまたま付帯的にも、善いものではない」という立場であり、二つ目は、「一部の快楽は善いものだが、多くの快楽は劣悪なものだ」という立場であり、三つ目は、「たとえ快楽がどれもみな善いものだとしても、最高善が快楽であることは不可能である」という立場である。

しかし、アリストテレスは、快楽が善いものでないということも、最高善でないということも正しいことではないと言う。

2018年1月4日木曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 32

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の150ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、放埒な人は癒しがたく、抑制のない人は癒すことができると言う。

「放埒な人とは後悔しない人である。というのも、放埒な人は自らの選択に留まるからである。これに対して、抑制のない人ならば、みな後悔することが何かある。したがってこれは、われわれが先に挙げた難問のような事情の逆であり、放埒な人は癒しがたく、抑制のない人は癒すことができるということである」

そして、抑制のなさと悪徳は別物であると言う。行為者は、悪徳には気づかないが、抑制のなさには気づくからである。

アリストテレスは、抑制のある人と頑固者は似たところがあると言う。しかし、この両者には多くの違いがあると言う。

「抑制のある人は、感情と欲望によって信念を変えることはなくとも、場合によっては容易に説得されるのに対して、頑固者は分別によって信念を変えることがない代わり、欲望に囚われるならばかれらの多くが快楽によって突き動かされるからである」

また、抑制のある人と節制の人は、身体的快楽によって分別にそむいて何かしでかすことのない人であるという点では同じであるが、前者は欲望を抱いているのに対して、後者はそうではないという点で異なると言う。

2018年1月3日水曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 31

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の140ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、欲望にかかわる抑制のなさは、激情にかかわる抑制のなさより醜いものであると言う。それは、激情は或る意味では分別に従うが、欲望は分別に従わないからであると言う。

そして、獣性について次のように語る。

「獣性は悪徳と比べていっそう悪いものではないが、いっそう恐ろしいものである。なぜなら、人間の場合のようにより善い部分が損なわれているのではなく、獣はそもそもそうした部分をもち合わせていないからである。それゆえ、獣性と悪徳を比べてどちらがいっそう悪いのかを問題とするということは、無生物と生物を比べるようなものである」

また、抑制のなさについて、次のように語る。

「抑制のなさには「衝動」によるものと「弱さ」によるものがある。すなわち、弱さのために抑制のない人は、思案したのに、感情に駆られてその思案した結果にとどまれず、またそのときの衝動のために抑制のない人は、思案しなかったために感情に突き動かされる」

2018年1月2日火曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 30

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の130ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、獣的な性向というものがあると言う。

「これはたとえば、妊婦の腹を引き裂き、なかの胎児を喰らうと言われる女の性向や、生肉や人肉を好物とし、子どもたちを御馳走として提供しあうと言われる黒海付近の野蛮な種族の性向、さらにはまたファラリスについて伝承されている逸話のことである」

さらに、アリストテレスは、限定抜きに抑制がないことと、単に抑制がないことを区別する。

「獣性の場合がそうであるように、陥っている性向がこうしたもののうちのどれに由来しようとも、その性向は悪徳の範囲の外のものとなる。そしてまた、そうした人が自らの性向に打ち勝ったり屈したりしても、それは、限定ぬきに抑制がないというのではなく、ただ単に類似性によってそう言われるのである。それはちょうど、激情にかんしてそういった性向をそなえた人は、その激情という状態にかんして抑制がないだけであって、ただ単に抑制がない場合とは異なるのと、同じことである」

2018年1月1日月曜日

元旦

今年、ブログでやってみたいことを書いてみる。

今年は、時間のあるときに、哲学書を読みたいと思っている。昨年はプロトンのいくつかの著書を読み、最近はアリストテレスのニコマコス倫理学を読んでいるけれども、ほかのプラトンやアリストテレスの著書を読んでみたいと思う。読むペースは最近は遅いけれども、無理のない程度のスピードで読んでいこうと思う。

哲学書のほかにも、古典と呼ばれている小説などを読みたいと思っている。過去に読みたいと思っていた本を読もうかと思っている。シェイクスピア、ゲーテ、トルストイなどはどうかと思っている。