2018年7月18日水曜日

人見知りと恥について

人見知りをする人は、人見知りをする人にしか人見知りをしないように思う。人見知りをする人は、人見知りをしない人にはあまり人見知りをしないように思う。要するに、人見知りは、人見知りをする人同士でないと、発生しないように思う。違うかもしれないが。

人見知りとは、要するに、イニシアティブをとらないということであるように思う。話しかけられたい人が二人いても、会話が始まらないように、人見知りをする人が二人いると、人見知りが始まる。そういう風に思う。

もう一つの人見知りは、褒められることが恥ずかしいということであるように思う。これも前者と本質的には同じようなことであるようには思う。何故褒められて恥ずかしいのかと言うと、その相手が褒めるという行為に値しないと思っているからである。下から褒められるということが恥ずかしいのであろう。他にも恥ずかしい理由はあり得るが。

日本の文化は恥の文化だとかいうことを聞いたことがあるが、それは無い。恥とは良くないことである。下から褒められることは、誰でも恥ずかしいであろう。恥ずかしいという感情は、普遍的な感情であるように思う。日本人が外国人に対して恥ずかしいと思っているということは、日本人は外国人を下に見ているということである。あるいは、その外国の文化が褒める文化であるだとか。その褒めることに無自覚的で、日本の文化は恥の文化であるだとか言うということは、無い。

褒めるということは、本質的に上からである。だから、褒める外国人もその相手の日本人より上だと思っているわけである。両方が上だと思っているから、恥が発生する。だから、もし、日本人が外国人を上から褒めれば、その外国人は恥ずかしかったりするわけである。

2018年7月17日火曜日

畏れ

人は空白を畏れる。
父を畏れる。
尊敬する人を畏れる。
悪魔を間違えて畏れる。
神を畏れる。
畏れる人物に会うときのドギマギは、
こちらは大したものだと思っているのに、
あちらはそうは思っていないという差異にある。
それも空白である。
そりゃそうだ。
ただ、その空白は、あるということもまた尊い。
すべてが計算されているわけではないから。
博愛主義者などは滅多にはいない。
人は空白を畏れる。
畏れるということが基本姿勢なのかもしれない。
畏れるということは新しい。
畏れない方がいいのかもしれない。
そうであればその基本姿勢を変えなければならない。
どう変えようか?
空白を空白として受け入れること。
あとはポジティブに。
それは好き好きかもしれないが。

2018年7月16日月曜日

笑顔と涙

笑顔も強いが、涙も強い。
涙には、悲しみの涙と感動の涙がある。
他にもあり得るが。
悲しみの涙は、感動の涙より尊い。
感動の涙は、フィクショナルだ。
悲しみの涙の中でも尊いものは、祈りの涙だろう。
悲しみの涙も感動の涙も、本質的には同じものなのだろう。
それは何だろうか?
それは、困難であるかもしれない。
しかし、ただ困難であるだけでは涙は流れない。
その解消が必要なのかもしれない。
しかし、人は困難があれば、その解消を想像するだろう。
その想像が鍵なのかもしれない。
凪のような心に涙はない。
笑顔はあり得るが。
そういう観点から言えば、笑顔は涙より強い。
しかし、それは人間的な強さではない。
涙はあまりにも人間的な強さである。
涙にはもう一つ秘密があって、
それは、多分、涙は自力ではなくて、他力だということだ。
救われるということだ。
神は泣かない。
いや、全知全能なのだから、泣くか。

2018年7月15日日曜日

哲学者と革命家

哲学者とは何かという問いに対して、いくつかの答えがあるようには思うけれども、実践的なことを言えば、哲学者とは一発逆転を狙う革命家のようなものであるように思う。と言うのも、哲学者は小さな問題には気をとめないし、大きな問題にばかり取り掛かるからである。だから、哲学者は、美味しいところだけをさらっていこうとするし、庶民的な感覚から言えば、大層胡散臭く思われる。

問題は、大きな問題に取り掛かるのは良いのだが、その大きな問題を解くことはできず、さらには大きな問題は取り組むことに価値があるだとか言い出すことがよくあるということである。これは、文系と理系との対比で、文系が攻撃される理由でもある。理系の授業は、問題とその解決を習うのに対し、文系の授業はそうではない。歴史の問題も、答えがある問題はあるのだが、歴史自体は唯一のものではない。理系では歴史とは、教科書の順序がほとんどそれである。だから、大半の哲学者は革命家になれなかった人たちだとも言えるように思う。

問題に取り組むことに価値があると哲学者が言えば、その哲学者はもう終わりだと言ってしまっても構わないように思う。まあ、そういう問題があるのは確かではあるし、無理な解答を付けるよりはましなのではあるが、しかし、終わりだとかは言い過ぎたかもしれないが、それは、あまり言ってはいけないことではあるように思う。

2018年7月14日土曜日

アリストテレス「形而上学」 92

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の下巻を読んでいる。第十四巻第二章まで、読み進めた。

第十四巻第二章では、アリストテレスは、数の実在性について述べる。

「しかし、我々はまた、数に関してつぎの問題をも注意して検討すべきであろう、すなわちそれは、数が存在するという確信はなにを根拠として正当化されるか、という問題である。けだし、イデアを想定する者にとっては、もしいやしくも各々の数がそれぞれ或るイデアであり、そしてそのイデアは他の諸事物に対して、なんらかの仕方で、それら諸事物の存在の原因であるからには(というのは、これがそれらの根本仮定であるとされてよかろうから)、数が諸々の存在事物に対する或る種の原因としての役をしている、しかし、このイデアの説に諸難点の内在するのを見てこの説に賛同せず、したがって数を設定するにもこのイデアの説にはよらないで、数学的の数を設定している者にとっては、なにを根拠としてこうした数学的の数を存在するものと確信する必要があるのか、またこうした数が他の事物に対してなんの役に立つというのか? というのは、こうした数を存在すると説く者はこの数をいかなるもののとも言っておらず、かえってかれはその数をそれ自体で存在するところの或る実在として説いていて、明らかにはなんらの原因であるとも認められないからである、けだし、算数学上の諸定理は、すべて、さきにも述べたように、感覚的事物についても妥当するからであろう」

2018年7月13日金曜日

「悪魔の言うことを信じるな」と悪魔は言う

悪魔の言いそうなことの一つは、「悪魔の言うことを信じるな」であろう。「あなたが言うな」というようなことではある。その声は悪魔らしくないことも多いように思う。神の声と似ていることもあり得るであろう。「悪魔の言うことを信じるな」は、また、神の言いそうなことでもある。どちらが先であるかは問題ではあるが、案外、悪魔の方が先であることもあり得るように思う。

このような観点から聖書を読むことは、大切なことであるかもしれない。これは神が言ったことであろうか、悪魔が言ったことであろうかと。悪魔は変幻自在であり、変幻自在であるということも変幻自在であるような存在である。

悪魔の言いそうなことのもう一つは、「私がいないと寂しいだろう」というようなことである。これは確かにそうである。悪魔のいない人生は寂しい。悪魔を飼い慣らすと良いように思うが、大抵の場合、取って食われるであろう。だから、多くの人々は、悪魔を避けるような生活を好むのであろうと思う。

ところで、「悪魔の言うことを信じるな」と悪魔は言うことは、哲学的に有名な、「この文は偽である」という文と、本質的に同一的である。この文は真であると、偽であるから、偽であり、真であるというようなことが永遠に続く。

2018年7月12日木曜日

googleはつまらない

google検索で簡単に見つかるサイトはつまらないサイトであることが多いように思う。公式サイト、wikipedia、Q&Aサイト、まとめサイト、このようなサイトを探したい時にはgoogleは便利である。しかし、もっと尖ったサイトを見つけるためには、googleは使いづらいように思う。

しかし、他のサーチエンジンに変えても、結果はそれほど変わらない。多分、同じようなアルゴリズムで動作しているのであろう。ここは、あえて、最もメジャーなサーチエンジンであるgoogleを使い続けてみたい。

おもしろいサイトを探すための対処法の一つは、検索後を工夫することである。たとえば、哲学について調べたいとき、「哲学」ではなくて、「哲学 アホ」などとしてみるというようなことである。そうすると少しは尖ったサイトが出てくる。対立する言葉を使うとおもしろいかもしれない。

除外キーワードを指定するのも悪くない方法である。除外キーワードを保存する方法があればいいなと思う。

2018年7月11日水曜日

アリストテレス「形而上学」 91

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の下巻を読んでいる。第十四巻第一章まで、読み進めた。

第十四巻第一章では、アリストテレスは、原理について述べる。

「ところが、これらの人々は、反対のものどものうちの一方を質料としているが、そのうちの或る人々は、多さの実在的本性としての不等を一に対する質料としており、或る他の人々は、多さを一に対する質料としている(すなわち、或る人々では、諸々の数は不等の二から、すなわち大と小とから生成し、他の人では、多さから生成するが、しかし両者のどちらでも、一の実体によって生成するとされている)、というのは、不等と一とを構成要素であり、不等を大と小とから成る二であると説く人も、不等または大と小とを一つのものであるとして説いていて、それらが説明方式においては一つであるが数においてはそうでないという差別を明らかにされていないからである」

2018年7月10日火曜日

アリストテレス「形而上学」 90

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の下巻を読んでいる。220ページ程度まで、読み進めた。

第十三巻第十章では、アリストテレスは、普遍などについて論じる。

「さて、これらのあらゆる困難な結果は、かれらが構成諸要素から諸々のイデアを作り出すとともに、同じ形相を有する諸々の実体とは別に、イデアどもを或る唯一の離されて存在するものであると主張するときには、いつでも生じるのが当然である。しかし、もしも、たとえば言語の構成諸要素の場合にそうであるように、「αども」や「βども」が数多くあってもさしつかえなく、必ずしも「αそれ自体」とか「βそれ自体」とかが数多くのそれらとは別に存在していなくてもよいとすれば、すくなくもこのかぎりでは、同じ類の語節もまた無限に多く存在しえよう。だが、およそ認識は普遍的であるということ、したがって必然的に、存在する諸事物の諸原理も普遍的なものであらねばならず、離されて存在する諸実体であってはならないということ、このことにも、たしかに上述の諸難問中での最も重大な難問が含まれている、しかしこのように言うことは、或る意味では真であるが、或る意味では真ではない」

2018年7月9日月曜日

声が聞こえる。
人の考えは声で表現されるように思う。
人の感情は○で表現されるように思う。
この痛みは表現されないと言うかもしれない。
確かにそうである。
だが、しかし、どうであろうか。
私はその可能性を捨てきれない。
声。
声が聞こえる。
人の考えは声で表現されるように思う。
人の感情は○で表現されるように思う。

2018年7月8日日曜日

アリストテレス「形而上学」 89

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の下巻を読んでいる。215ページ程度まで、読み進めた。

第十三巻第九章では、アリストテレスは、イデア論批判などを行う。

「しかも、これらが、その実体を普遍的なものと説いた人々において、同一のもののうちに結び合わされえた理由は、かれらがその実体を感覚的事物と同一視しなかった点にある。かれらは、感覚界の個別的事物は流転していて、それらのなにひとつも同一に止まるものはないと考え、そして普遍的なものはそれらよりほかに存在し、それらとは異なる或るものであると考えた。もっとも、こうした考えを誘発したのは、さきの個所でも語ったとおり、ソクラテスその人であり、かれの求めた定義によってである、ただし、かれはその諸定義を個別的事物から切り離しはしなかった。そして、この切り離さなかった点では、かれの考えは正しかった」

2018年7月7日土曜日

時間は存在する

マクタガートという哲学者が時間は実在しないと言っているらしい。時計を見ると良いと思う。私の考えでは、時間が存在することと時計が存在することとは本質的に同一的である。物が一般的に実在しないという考え方の方がまだ理解可能であるように思う。それは確かにそうかもしれない。時間だけが実在しないという考え方は無い。

時間について考えられることのすべては、時計について考えられることであるように思う。それだけのことである。何もむずかしいことはない。時間は存在する。確かに。

時計の秒針を見ていると、事物が変化するということを感じるということがどういうことであるかよくわかるであろう。時計は偉大な発明だ。

さらに言えば、人間の感じる時間よりも、時計の時間の方が正確であり、このことも時間の本性を示しているように思う。

2018年7月6日金曜日

天命、生まれてきた意味

ぼくに天命のようなものはあるのであろうか? 人にはそれぞれ天命のようなものがあるのであろうか? あるかもしれないし、あってもわからないことなのかもしれない。天命。ぼくは来世はきっとあると思っているから、生きているうちにこれをやらなくてはならないということが無い。さらに、ぼくは運命論者でもあるから、生きていること自体が天命であるという思いもある。しかし、同時にこれはある種のはぐらかしであるようにも思う。

同じような疑問に、生まれてきた意味は何であろうか、というものもある。これも同じようなことで、生きていること全体が生まれてきた意味である、という答えもあり得る。しかし、疑問に思うことはそういうことではないという思いもある。生まれてきた意味は無いという答えもあり得る。これも同じように、天命は無いという答えもあり得る。しかし、それはそれで寂しいような気もする。

天命も生まれてきた意味も、自分で作ってしまって構わないという答えもあり得るように思う。しかし、この答えも上手くは言えないが、はぐらかしているようにも思う。それだったら無いということとほとんど同じことであるようにも思うからである。

天命も生まれてきた意味も神を知ること。これは全うな答えであるように思う。この他に答えがあるとすれば、天命は、すべての命であり、生まれてきた意味は、すべての意味であるといったことくらいしか思い浮かばないように思う。

しかし、それぞれ他にあるかもしれないな。

2018年7月5日木曜日

英語の学習

英語の学習をしたいと思っている。ネイティブの会話が理解できる程度まで、英語が使えるようになりたい。様々な方法があり得るように思うが、ぼくが実践しているのは次のような方法である。

YouTubeで英語の動画を見る。ぼくが見ているのは、英語の学習についての動画と、英語圏の子供向け番組である。どちらが簡単かというと前者である。後者は意外とむずかしい。前者はおそらく非英語圏の視聴者を意識しているのかもしれない。わかりやすい動画が多いように思う。「english learning」などで検索するとそのような動画がヒットする。

language exchangeを利用する。language exchangeとは、英語を話せて日本語を学びたい人を探して、お互いに言語を学習し合うという方法である。そのような相手を探せるウェブサイトがある。ぼくが使ったのは、speakyというウェブサイトである。この方法は、日本語を教えるという手間がかかるが、質の高い英語の学習を無料で行える。今後も続けたい。

英語学習のウェブサイトを利用する。いくつかあるかもしれないが、ぼくが利用しているのは、duolingoといウェブサイトである。悪くはないが、少し簡単過ぎるかもしれない。

2018年7月4日水曜日

日本対ベルギー

サッカーワールドカップの日本対ベルギー戦をテレビで観た。惜しかった。2点先行したときは、勝ったかと思ったが、攻撃的になったベルギーを止められなかった。選手は悔しいだろうな。観客としても、とても惜しかったように思う。

最後のカウンターを止められなかったのは、勝ち越し点を入れるために、ディフェンダーも上がっていたからかもしれない。そういう選択をしたことは、積極的であったと評価できるかもしれない。しかし、2点も得点したことは立派だった。胸を張って日本に帰国、いや、海外在住の選手もいるか、それぞれの国へ帰国してほしい。

日本のサッカーも少しずつ強くなっているように思う。これからも強くなっていくといいなと思う。現地で応援する人々もすごいと思う。少しでも力になれたらと思ってやっているんだろうな。実際に力になっているように思う。

2018年7月3日火曜日

創造力

創造力とは何であろうか? 新しいものを創り出す力のことであろうが。そうであるとしたら、それは、どのようなことから生まれるのであろうか?

日本語では、クリエイティブというと、何らかの制作のことを指すことがあるらしいが、ぼくが問題にしたいのは、そのことではない。クリエイティブというよりは、クリエイションである。しかし、何故一部の人たちは、制作することを頑なにクリエイティブだとか言いたがるのであろうか。あまりに無責任であるように思う。

創造力。経験することと類推すること。これらも新しいものを作り出す力にはなるであろうが、真の創造力とはそのようなものを超えたところにあるように思う。真に創造するために必要なことは、心の準備であるように思う。どのような準備であるかと言うと、まずそれを「する」と思うことである。

「する」と言うこと。他人にではなくて、自分に。そして、同じようなことではあるが、「できるわけがない」というような否定的な考えを否定することである。始まりは、「する」と言うことである。過程はその後についてくるように思う。

心は綺麗にしたい。しかし、悪をも否定したくはない。

2018年7月2日月曜日

権力、中央集権、地方分権、笑い、涙

またまたプールに行ってきた。今日も50メートルを4本泳ぎ、プールサイドで権力、中央集権、地方分権などについて考えていた。

「権力」というようなものが本当にあるのであれば、それは誰でもほしいものであろう。それは本当に絵空事のようである。「支配」の「配」から、それを「配力」と名付けてはどうであろうか。これも本当に良い名前であるようには思わない。もっと良い名前があるように思う。「上司」や「部下」という言葉も同じようにもっと良い名前があるように思う。しかし、嫌いになるよりは好きになれるところを見つける方が良いように思う。「権」という漢字は、本来、はかりのことらしい。しかし、嫌うということは、それを大切にしているということでもあるから、悪いことばかりでもないようにも思う。

「中央集権」という言葉がある。この言葉にも「権」の字があるが、そのことはおいておくとして、ここで蔑ろにされているのが、大阪である。大阪は、中央でも地方でもない大都市である。しかし、どちらかと言えば、本質的には、中央の性質を持っている。だから、大阪が中央集権を否定し、地方分権を訴えるということは良くない。大阪都構想が上がる理由に一つは、このことであろう。

中央集権を否定し、地方分権を訴え得るのは、いわゆる田舎の者だけである。普通に考えれば。

大阪の者は、東京の者を田舎者の集まりと言うことがあるが、本当のことである。田舎の方が人口が多い。戦後の日本の在り方はとても田舎的であるように思う。もしかしたら、明治以降かもしれないが。ただし、「田舎」という言葉もあまり良くないように思う。

私の知っていることはと言えば、最後に勝つのは涙だということである。東京の者を田舎者の集まりという大阪の者は笑えるし涙を誘う。現代が田舎者の時代だということは、そこに田舎者の涙があるということであろう。しかし、涙というものはそれだけのことである。安倍晋三の涙など誰も見たくはないかもしれないが、多分、陰では泣いているのである。

2018年7月1日日曜日

ルサンチマンについて

ルサンチマンについて、考えていた。自分にもそういうものがあったことがあるように思う。今はほとんどないように思うのだが。

私の考えていたルサンチマンの問題はどういうものかと言うと、嫉妬によって人の邪魔をしたいと思うが、善人であるゆえに、そして真の善人ではないゆえに、それを認められないというような状態である。あるいは、それは、嫉妬ではない、邪魔ではないなどと言い訳をするような状態である。そういうことではないのだ。嫉妬、邪魔、そのように表現されるようなことが問題になっているのだ。そして、ルサンチマンにとらわれるものは賢くない。

ルサンチマンの問題への解答は、私はニーチェの著書は読んだことがなく、高校生程度の知識しかないのだが、一つは、優れた人間になることである。超人もそのようなものだろう。確かに、優れた人間はルサンチマンの問題を克服する。もう一つの解答は、人間の本性は悪であることを知ることであるように思う。悪だからこそ善への憧れが生じるように思う。悪を受け容れること。

2018年6月30日土曜日

アリストテレス「形而上学」 88

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の下巻を読んでいる。210ページ程度まで、読み進めた。

第十三巻第八章の後半では、アリストテレスは、無限などについて論じる。

「さらにまた、数は、無限であるか有限であるかのいずれかであらねばならない、というのは、かれらは数を離れて存するものとしているからして、したがって、数がこれらのいずれでもないということはありえないからである。だがしかし、数が無限ではありえないということは、明らかである、なぜなら、無限の数は奇数でもなく偶数でもないが、数の生成は常に奇数の生成であるか偶数の生成であるかのいずれかだからである(すなわい、或る仕方では、一が偶数に働きかける場合、奇数が生じ、他の仕方では、二が偶数に働きかける場合、一からその倍加でえられる偶数が生じ、同じ他の仕方でも、奇数が偶数に働きかける場合には、その他の偶数が生じる)、さらに、もしあらゆるイデアがそれぞれ或るなにものかのイデアであり、そして数がそれぞれイデアであるなら、無限の数も或るなにものかの(感覚的な事物のか、またはその他のなにものかの)イデアであるはずである、にもかかわらず、このことは、かれら自らの前提からするも不可能であり、また理論的にも不可能である、すくなくもかれらがそのとおりにイデアを配置してみるならば」

2018年6月29日金曜日

起業について

またプールに行ってきた。記事では昨日だが、行ったのは一昨日だったので、二日ぶりだ。昨日は、週二日程度通おうかなと記したが、週三日か四日通おうかなと思っているところだ。

今日も昨日と同じように50メートルを4本泳いだのだが、50メートル泳ぐ度に疲れを回復するために、プールサイドにあるベンチに腰をかける。

そこで色々なことを考えたのだが、一つは、日本に起業が少ない理由は、資本主義あるいは株式会社の設立というものが、公正ではないからではないかということだった。

どういうことかと言うと、会社員がいくら良いアイデアを出しても年収は二倍にもいかないのに対して、起業家は良いアイデアを出すとものすごく大きなお金を得ることができるということだ。これは、公正ではないだろう。これを解決する方法の一つは、累進課税であるように思うが、時代は消費税増税とこのような考え方に逆行しているようなところもある。

資本主義に新しい考え方が必要であるように思う。例えば、公務員が起業するというのはどうだろうか? 公務員だから良い成果を上げても給与はそれほどは変わらない。やりがいを求めて人々は起業をするように思う。そのためには、公務員の雇用の流動化が必要である。また、公務員の雇用の流動化は、このことに関してではなくても、必要な考え方であるように思う。あるいは、起業するための会社、十の内一つが成功するような会社、そのようなものがあればいいのかもしれない。保険にも、公的なものと民間のものとがあるだろう。

2018年6月28日木曜日

プールに行ってきた

久しぶりにプールというものに行ってきた。平日の昼過ぎごろだったからかお客さんはほとんどが老人であった。確か、市営のプールであったが、たまには、市も良いものをつくるものである。

とは言っても、それほど泳いではいない。50メートルを4本泳いだところで疲れて出た。水泳による疲労感というものは不思議と心地良いものである。

これから、週に二回程度通おうかなと思っている。

2018年6月27日水曜日

瞑想時の集中する対象

一般的には、瞑想時の集中する対象は呼吸であるとされているようであるが、私はそうは思わない。集中する対象は心そのものである。

この時、心が真の意味で無であることが大切であるとは思わない。有で良い。全然有で良い。無というものは邪念を払うための方便であって、有そのものを否定しているわけではないと私は思っている。

有で良いという時、どのような有が良いというのであろうか? それは、私の場合、神的な音(声)である。画でも構わない。それは否定しない。そのような有は、あって良いものであるように思う。

そのようなものがやってこない時は、無である。確かに、無である。特に音の意味で無である。画は目を開けていれば、どんどん感覚がやってくるからである。

2018年6月26日火曜日

中古マンションの購入

中古マンションを購入しようかと考えている。一人暮らしをするつもりなので、ワンルームで良いから、大阪市か堺市を条件に検索すると、安い物件は、大体300万円から400万円くらいで購入できる。月々の家賃を2万円だとすると、一年で24万円かかるから、大体12年から16年で中古マンションを購入する方が安くなることになる。ただし、固定資産税というものがあるから、その分を考慮すると、15年から19年くらいで中古マンションを購入する方が安くなることになる。

さらに、中古マンションは資産になるので、例えば、10年後の価格が150万円であれば、その分の資産ができることになる。こう考えると、10年間暮らすことが予めわかっているのであれば、中古マンションを購入した方が良いということになるように思う。他の価格帯のマンションでも大体同じようなことではないであろうか。

2018年6月25日月曜日

知韓

少し前から、嫌韓という言葉を聞くようになった。どのようなところから出てきた言葉であるのかはわからないが、反韓という言葉とは違うらしい。反韓は、韓国に反対することで、嫌韓は、韓国を嫌うことであろうか。どちらにしても、大きな違いはないように思う。

最近、嫌韓とは言っていられないような状況にあるように思う。例えば、従軍慰安婦像の建立であるし、竹島の占拠である。こういう場合に、嫌いだとか言っても何の解決にもならないように思う。そこで、新しい態度として、私が勧めたいのが、知韓である。

例えば、従軍慰安婦像の建立の裏にある韓国人の考えは何であろうか? 多分、それは嫌がらせであろう。嫌がらせなのであるから、嫌韓という態度は論外であるように思う。嫌韓は、ある意味では、優しいし、ある意味では間抜けであるように思う。

この問題に対する私の考えは、美しい職業慰安婦像の建立である。それを新宿歌舞伎町辺りに建てれば良いように思う。これで、この問題は解決するように思う。

2018年6月24日日曜日

天使と悪魔

もし悪魔が存在するとすれば、天使と同じような風貌であろう。そうでなくては、悪魔が悪魔らしくない。さらに言えば、天使が美しいとは限らないかもしれない。醜い天使がいても不思議ではない。天使が美しいというのはあくまでも俗説であろう。さらに言えば、醜い悪魔など存在するであろうか? そうであれば、悪魔が悪魔らしくないように思う。この見解は、俗説と真っ向から対立するように思う。

悪魔が誘惑するのであれば、天使も誘惑していたはずである。その違いは何であろうか? 悪魔は声も天使と同じようなものであろう。真の悪魔はそれに従っても間違っているとは限らない。毎回、間違いへ誘惑する悪魔は恐ろしくないからである。真の悪魔は本質的に混沌であろう。そして、天使も同じようなものであるように思う。天使も間違いへ誘惑し得る。しかし、何かが違うはずである。例えば、意志を尊重するとか、それが良い経験になるだとか。

2018年6月23日土曜日

他者の心の存在

他者の心の存在は、前提、仮定することであると以前述べた。もう一歩踏み込んで次のようなことが言えるかもしれない。他者の心はあるかどうかわからないが、ないと仮定して、ある場合のリスクは大きい。しかし、あると仮定して、ない場合のリスクは小さい。だから、あると仮定する方が良い。

あるいは、次のようなことが言えるかもしれない。他者の心の存在は神秘である。神秘であるものは尊い。多少無理があるような気がしないでもないが、このようなことが言えるかもしれない。

しかし、他者の心の存在は不思議である。まったく違った世界が見えているのかもしれない。最も不思議であるのは他者の意志であるように思う。例えば、視覚に関しては、物理的に接続することで、他者の感じる視覚を感じることができるかもしれないが、意志に関しては、それを感じることができるという状態というものがまったくわからないように思う。視覚に関しても、むずかしいことではあるのだが、意志に関しては、むずかしいことの程度が異なるように思う。

2018年6月22日金曜日

扉は開く

AIが扉は開くということを学習するためにどのようなシナリオが考えられるであろうか?

まず、一つ目の扉が開くということを学習するということは容易いであろう。いや、それだけでもむずかしいことかもしれないが、とりあえず、現行の技術で学習することができるように思う。

次に、二つ目の扉が開くということを学習することについてはどうであろうか? もし、ここで、新たな学習が始まるのであれば、扉は開くということは学習されていたのではない。それがそうであるということを学習したに過ぎない。しかし、一つの扉が開くということから、一般に扉は開くということを学習することは人間でもむずかしいかもしれない。いくつかの扉が開くという経験から、一般に扉は開くということを学習しているのであろう。しかし、どちらにしても現行のAIではむずかしいように思う。

問題の一つは、人間において、これはいわゆる教師ありの学習であったのではなくて、教師なしの学習であったであろうということである。人間が扉は開くというこを学習することに関して、教師がいたようには思われない。もちろん、「扉」や「開く」という言語の学習には、教師がいたという可能性は高いが、その概念を学習することに関して、教師がいたとは思われない。

2018年6月21日木曜日

未来

「今」というものは、哲学的な話題になりやすいように思うけれども、「未来」はあまり語られていないように思う。なぜであろうか?

個人的な感覚としては、「今」というものはとても人間的であり、「未来」というものはとても神的なものであるように思う。そして、「未来」という言葉は、単語自体が語る力というものがとても弱いように思う。それに比べると「明日(あす)」は力強いように思う。大和言葉であるからであろうか。「未来」は多分、「未だ来ず」ということであり、ほとんど何も語っていないように思う。

「今」というものは常識的であるのに比べて、「未来」というものは不思議である。こう書くと誤解を招くかもしれないが、ポストモダンというものは、とても「未来」的なものであるように思う。不思議だからである。ある意味では、「明日(あす)」と言うよりは、「明後日(あさって)」のことでもある。

「未来」というものは、語ること自体に失敗しているような、そういう不思議な存在であるように思う。「明日(あす)」という言葉は、それと比較すると、語ることに成功しているように思う。「非行」の方が良かったのではないであろうか。それは「行か無い」ということであり、これは確かにそういうことであるようにも思う。「全行」というのはどうであろうか? これは「全てに行く」ということであるが、これも確かなことではあるであろう。

2018年6月20日水曜日

ワールドカップ

サッカーのワールドカップでは、左翼も右翼も日本代表を応援するだろうと思う。

左翼と右翼の違いは何であろうか? 左翼は広いのに対して、右翼は狭い。こう考えると左翼の方が良さそうだが、他にも違いはあるように思う。左翼は非現実的であるのに対して、右翼は現実的である。こう考えると、最近右翼が増えているという理由もわからなくはないように思う。実際のところ、ぼくが左翼と右翼の違いとして、そう考えているということではない。一般的に使われている意味に関して語ったというだけのことである。ぼくは、左翼は広いというポジティブな意味のみを援用したい。

左翼は広いと言ったことの真意は、左翼は隣人として許容する範囲が広いということである。左翼が増えれば良いとぼくは思っている。国民ではなく隣人とした理由は、移民を増やすだけが左翼のすることではないという理由からである。それだけではなくて、友好的な関係国をつくることも左翼的であるように思う。反日国を嫌うのではなく、なだめることも大切であろう。いなすとも言える。

2018年6月19日火曜日

地震

大阪で地震が起きた。地震の規模はそれほど大きくないようだ。被害もそれほど出ていないらしい。

毎回、地震の度に思うのだが、地震をなくすことはできないのであろうか? ウェブページを検索すると、祈りによって地震をなくすことができると本気で言っている人がいた。それに対して、ぼくはそういうことは絶対ないとは言い切れないような気持ちになった。そういうこともありえるかもしれない…… ユニークな人ではある。おもしろいのかもしれない。しかし、迷惑をかけられるのかもしれない。

科学的には、地震をなくすことはむずかしいというのがほとんどの意見であった。確かにそうであろう。将来的には、もしかしたら、小さな地震を複数にわけて人為的に起こすことなどができるようになるかもしれない。他に方法はありえるであろうか? 地震をまったくなくすということはむずかしいように思う。地震とはプレートのひずみのエネルギーの解放であったと思うから、それをまったくなくすという方法はむずかしいように思う。例えば、滑りを良くする液体などを入れれば良いのであろうか? しかし、そうすると最初の一回は大地震が起きてしまうように思う。

他に地震をなくす方法はあり得るであろうか? やはり、祈るくらいしかやれることはないのかもしれない。現時点では。

2018年6月18日月曜日

ゲームの世界

いろんな物事がゲームのようになるように思う。

例えば、カーナビは目的地まで到着するというゲームのようであるし、ARは現実のゲーム的拡張であるように思う。近い将来に、飲食店の注文は、コンピュータを経由してできるようになるように思うし、コンビニなどは、商品をディスプレイせず見本のみをディスプレイし、客は見本を見て欲しい商品を選択し、店は裏においてある商品を機械により選択し、レジに運ぶように思う。決済も同時に行われるであろう。これらも、商品を購入することのゲーム化であると言えるように思う。読書も、音楽の視聴も、テレビ番組の視聴も、ゲームの世界に近づいて来ているように思う。

日本はゲームの技術は進んでいるが、コンピュータの技術ではそうではないように思える。なぜであろうか? 一つには、大学教育の失敗が挙げられるように思う。もう一つは、日本が失敗しているのではなくて、他国、主としてアメリカが成功しているということである。

今後、豊かなゲーム体験を現実の世界に応用する事業家が日本に現れてくることを望む。そういう視点を基にした事業というものがあり得るのではないであろうか。

2018年6月17日日曜日

カットアップ

小説を書く方法に、カットアップという手法があるが、これは小説を書く以外にも使えるように思う。

例えば、目に入る文章の断片をつなげて、意味のある文章を生成するということである。ぼくの場合、これは上手く行くこともあるが、上手くいかないこともある。

さらに、カットアップをする対象として、文章の断片だけではなくて、画像などをも加えるという方法も考えられる。これもぼくの場合、上手くいくこともあるが、上手くいかないこともある。

カットアップに遊びは付き物であるように思う。これは、手法の性質上、仕方のないことであるように思う。しかし、その遊びは、真剣な遊びである方が良いように思う。ある意味では。いや、そういう風にする方が楽しいということである。

カットアップは上手くいくと楽しいし、そうではなくても楽しいように思う。意味というものを見直すきっかけになるように思う。

2018年6月16日土曜日

神という名

幼いころは、神という名を知らなかった。しかし、そのようなものがあると思っていた。名前はなかったし、概念もあったかどうかわからない。多分、なかったのであろう。あくまでも、そのようなものである。

いつしか、成長して神という名を知った。それによって概念化もされた。それは真の哲学にとっては敵のようなものかもしれない。そうして、そのようなものについては忘れてしまった。

純粋な時代に還るには、概念を壊すしかない。それが第一段階である。

第二段階は、名前の再定義である。第一段階と第二段階は同時的であったり、時に逆転したりするかもしれない。例えば、私の場合は、神は、「申」を「示す」ものとして名付けられた。「申」は森羅万象として理解されていた。

その他にも、私は神的なものについて名前を持っている。私は、唯一神というものは人格を超越しているものであると思っているし、人格を感じさせる神的な存在は複数いることもあり得ると思っている。当然であろう。その方が優れている。

神の名は容易に破壊されるようなものこそ相応しいように思う。それは人それぞれであるように思う。例えば、「猫」は悪くないように思う。猫が神であるということはおかしいからである。そして、それでいて神性も感じる。だから、人それぞれであるが。

2018年6月15日金曜日

脳科学主義は正しくない

以前も似たようなことを書いたことはあるが、脳科学主義は正しくない。脳科学主義は、脳が心を生み出すと言う。これは、留保付きで正しいかもしれない。それは、脳科学主義は、何故この脳が、この私であるかについて答えられないということである。

他者の脳も自分の脳も同じようなものである。この私を示すIDのようなものは、記されてはいないであろう。それともそのIDのようなものは、存在しているのであろうか。もしそうであるとすれば、脳科学主義は見直されなければならない。しかし、常識的な考えでは、そのようなIDは存在しない。常識的な考えでは、例えば、遺伝子的に同一である自分のクローンは、そっくりな他者である。

脳科学主義の否定の結果、現れて来るのは、この私があって、脳がある、といった唯心論や独我論である。独我論はある意味では正しい。他者の意志はある意味では「無い」のであるから。唯心論は、他者の意志を仮定することによって導かれる結論である。それは正しいことであり得る。

否定されるのは、ある種の科学や脳科学であって、すべてのそれらではない。この私があって、脳がある、それは認める、そこから科学を始める。そのような科学は正しい。科学は大切なものである。それは否定されない。

2018年6月14日木曜日

祈り

祈りとは何であろうか。私は祈りとは純粋な願いのことであるように思う。純粋な善と言っても良いかもしれないが。この「純粋な」というのは、「本来の」というような意味である。邪な考えがないということでもある。

祈りは、容易く、邪な考えが入り、穢れるように思う。穢れてしまった願いは、他者の反発を食らうであろう。社会とはそういうものであるように思う。

それにしても、涙は祈りと似合うように思う。なぜであろうか? 涙が人を強くするということは、そういうところにあるのかもしれない。

2018年6月13日水曜日

空という言葉はとてもおもしろいように思う。空(そら)と言えば、屋外の頭上にある空間のことであろうし、空(から)と言えば、中身が無いことであろうし、空(くう)と言えば、詳しくは知らないけれども、仏教思想の概念のことであろう。空(くう)はまた、空間のことを表すことがあるであろう。

空(から)は、殻(から)と同じ音であり、前者は中身が無いことであり、後者は中身を包むもののことである。同じ音でこのような差異が表現されるということは、おもしろいことであるように思う。前者は内部であり、後者は境界である。

空という言葉は、日常的に使う言葉でもあり得るし、哲学的な言葉でもあり得る。このような言葉はあまりないように思う。しかし、数学の言葉には、そういう言葉はあるかもしれない。例えば、群。

2018年6月12日火曜日

左翼と右翼

ぼくは左翼なのか右翼なのか、よくわからないけれども、多分左翼なのだろうなと思う。しかし、先に枠を決めてしまうことは、良いこともあるかもしれないが、悪いこともあるように思う。

左翼と右翼とでは、国家の生存戦略として、左翼の方が優れているように思う。例えば、人口が減少しているけれども、移民を増やす政策を実施すれば良いであろう。しかし、それを許さないのが右翼であろうが。ぼくの印象としては、右翼は行き先がないように思う。左翼の方が広いし楽しいように思う。

最近、右翼が増えているという話を聞いたことがあるから、左翼を宣伝するのも悪くないような気がする。中庸の徳というものがあるであろう。

得をする左翼。そういうものが求められているような気がする。もっと現代風に、勝ち組の左翼と言ってもいいかもしれない。

慰安婦像なども右翼は反対するけれども、左翼的に考えれば、芸術的な娼婦像のようなものを作れば良いように思う。どちらもありだという考え方である。安易に否定しない。左翼とはそういうものであろう。

2018年6月11日月曜日

vape

vapeとは、煙草の代替品で、ニコチン入り、あるいは、ニコチン無しのリキッドを、加熱し蒸気に変えて吸い込むものである。

ぼくは、少し前から煙草の代わりにvapeを利用している。ニコチン入りのリキッドを利用している。ニコチン入りのリキッドは、日本では販売は許可されておらず、個人輸入で購入する必要がある。ぼくは、HiLIQというウェブサイトを利用している。ここは、送料はかかるが、到着日数は短いように思う。たくさんの会社を比較してはいないから、あまり詳しいことは解らないが。

vapeをするための機械にはたくさんの種類があるのだが、ぼくは、JoyetechというメーカーのeGo AIOという機械を利用している。この機械の良いところは、安いことである。Amazonなどで、2,000円程度で販売されている。これだけ安いと、気軽に試してみようと思えるのではないであろうか。

煙草と比較して、vapeの良いところは、リキッドにタールが含まれていないというところであろう。そのため、タールの味を好ましいと思っている喫煙者でなければ、vapeは良い代替品になるように思う。病気のリスクを高めるのは、タールであると考えられているからである。vapeは将来性のある嗜好品であるように思う。

煙草と比較して、vapeの良いところのもう一つは、一月当たりの費用が安いということである。煙草であれば、例えば一日一箱として、一箱400円程度必要であるから、一月で12,000円程度必要になるであろう。vapeは、送料を含めても、一月4,000円程度であるように思う。もちろん、人によるものではあるが、大体の目安としては、この程度であるように思う。

2018年6月10日日曜日

アリストテレス「形而上学」 87

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の下巻を読んでいる。205ページ程度まで、読み進めた。

第十三巻第八章の前半では、アリストテレスは、数について論じる。

「或る他の人々が数に関して説明しているような仕方でも、なんら正しくは説明されていない。それは、イデアを、端的に存在すると認めないだけでなく、数としてのイデアのなんらかの存在をも認めないが、しかし数学的諸対象は存在すると考え、諸々の数は存在する諸事物のうちの第一のものであり、そして一そのものがこれら諸数の原理であると考えている人々のことである」

「第三番目の説明の仕方——すなわち、エイドスどもの数と数学的の数とを同じであるとする仕方——が最も拙劣であることも明白である。というのは、一つの見解のうちに二つのあやまりが重なっているからである」

「ピタゴラスの徒の説明の仕方は、一面においては、前述の人々のよりもより少しの難点をもっているが、他面においては、かれら独自の他の難点をもっている。

2018年6月9日土曜日

日本のすべての消費電力を太陽光発電で賄う

日本のすべての消費電力を太陽光発電で賄うとすると、一体どれくらいの面積の土地が必要になるのであろうか? 

Wikipediaによると、2008年の日本は、1,083,142GWhの電力を消費した。あるウェブサイトによると、東京電力が川崎市に建設中の浮島太陽光発電所(仮称)は、太陽光パネル設置面積が約10ha、年間推定発電電力が740万kWhとなっているらしい。だから、平方メートルあたり、74kWhである。だから、2008年の日本の消費電力を太陽光発電で賄うための必要な土地は、約14,600平方キロメートルである。日本の国土面積は、約378,000平方キロメートルであるから、日本の国土の約3.86%で太陽光発電を行えばいいということになる。

これを大きいと見るか少ないと見るかは、専門家に判断を委ねたいが、実現が不可能な数字ではないように思う。極端な話、3.86%程度であれば、山を切り開いても良いのではないであろうか。あるいは、埋立地などを利用できないであろうか。実際の設営に関する深い議論は専門家に委ねる他はないが、こういうことは知っておいても良いのではないであろうか。

2018年6月8日金曜日

少子化とAI

日本では、少子化が進んでいるという。将来的には、労働人口が減ることになる。このことに、AIが補完するという議論を聞いたことがある。どうであろうか? やはり、個人的には、危険な仕事から、AIへ置き換えてほしいように思う。子供たちは、将来、危険ではない仕事に就くことにある。これは良いことであるように思う。上手くいくと良いのだが。

ところで、日本には外国人技能実習制度という制度がある。これは、外国人を日本に招き働かせ技術を身に付けさせるという制度だが、実態は、身に付けてもあまり役に立たない単純で厳しい労働をしていることが多く、その外国人たちはブローカーに多額のお金を支払うため、人身売買のようだという批判もあるらしい。政府はこのことに特に対策をしているようには思えず、単純で厳しい労働をする外国人は増加しているらしい。もしかしたら、日本の労働はそのような変化を迎えているのかもしれない。この問題も、AIは貢献できるかもしれない。

個人的には、少子化の問題は、直接的に多子化によって解決してほしいように思う。お金で解決しようという考え方もあるようであるが、これは文化的な問題であるように思うので、そのような方法では解決しないように思う。子供を持たないという価値観が広まっているということである。個人的には、貧困は大きな理由ではないように思う。そうであれば、戦後しばらくの間、子供が多かった理由が説明できないように思う。あの頃も貧しかったであろう。

やはり、子供を持たないという価値観が問題であるように思う。私の考えは、国あるいは地方公共団体が、子供を育てるということである。子供を生むことは自由であるが、育てることは専門家に任せる。生みの親は子供を認識できるが、育ての親ではない。より良い方法があるかもしれない。皆に考えてほしいことだ。

2018年6月7日木曜日

情報学は空言

Wikipediaの記事を読んでみると、「computer science」と「information science」とでは、「computer science」が今の時代を作ってきた学問であるということがわかる。そうであるのに、日本では、情報学という学問がそのすべてを作ってきたかのように語られる。英語の「informatics」という言葉も同様の問題を抱えているようだ。

まず、情報学という言葉への批判として曖昧であるということなども挙げられるようにも思うが、それよりもアメリカが中心の学問分野で、他の学問分野の成果を無理に情報学と呼ばれている学問へ統合しようとしているということが問題であるように思う。だから、情報学は空言であると言いたい。

命名に失敗すると、無理なことが起きる。無理に大言壮語を語る者などが現れる。日本は投資に失敗した。早くやり直して欲しい。コンピュータ科学でいいだろうと思う。ほとんどアメリカで行われてきた学問であるし、カタカナで良いのではないかと思う。日常生活で、コンピュータのことを計算機と呼ぶ人々もあまりいないようであるし。

2018年6月6日水曜日

穢れと無

穢れとは何か。何でも自分のこととして考えてみたい。穢れとは、清浄ではないということであろう。それでは清浄とは何か。無かな。仏教で言うところの無であろうか。

しかし、清浄と無とは異なる。清浄は有であっても良いのであるから。あっても良いこととはどのようなことであろうか。それはこの世の真理であろう。あの世であっても良いが。もし、諸行無常の世であっても、一時的な真理であっても、代替的な認識であっても。それらはあっても良いことであり得るであろう。

そう考えると、穢れの思想の方が無の思想より、一般的であるように思う。このことは大切なことであるように思うが、無の思想も、それが言語的である限り、有の思想であろう。しかし、このことはマイナスであるとは限らない。それは真理であり得るからである。むしろそれゆえに無の思想は生き残ることができるのかもしれない。

無の語源は、人の舞う姿らしい。個人的には、それは子供であるように思う。無は、無ではない。そう言いたくもなる。舞の方が本質的であるということだ。確かに、それは世界の本質であり得る。あるいは、そう願いたい。あり得る。

しかし、真の無はそういうことも無いということは明らかであるように思う。真の無は強い。完全である。有は弱い。しかし、真理というものは、それが本当はどのようなものであれ、それがあっても良いことであり得るであろう。

2018年6月5日火曜日

言霊

言霊というものは無いものだとぼくは思うが、それくらい言葉は大切なものだということは解る。確かに、言葉はそれくらい大切なものだ。

言葉を変えること。それは行動を変えること。そして、それは習慣を変えること。そういう風に言ってもいいかもしれない。言葉を変えることから始まる。特に、成人というものはそういうものであるように思う。

言葉は綺麗にした方が良い。丁寧に言葉を使い、あまり数を使い過ぎない。そういうことである。自分でコントロールできる程度に制限した方が良いように思う。

だから、ぼくは言霊というものは無いものだと思うが、言霊があると思う人々と同じくらいに言葉というものを大切にしている。ぼくは、言葉を大切にした結果、文字体系を自分で作った。それくらい言葉を大切にしている。

言霊はあると思えばあるし、無いと思えば無い。あるいは、そういうことなのかもしれない。ただし、あり過ぎることは困ることであるように思う。まったく無いということも正しいことではないのかもしれない。ぼくは無いということを選ぶ。ただし、霊的現象をすべて否定しているわけではない。たまには、あると思ってみるのも良いかもしれない。

2018年6月4日月曜日

瞑想に呼吸の集中は必要だろうか

瞑想する時、呼吸に集中すると良いと言われている。それは果たして何のためであろうか。一説によると、それは今に集中するためである。しかし、それであれば、呼吸に集中しなくてもできることであるように思う。私の考えでは、呼吸は、人が生きるために欠かせない唯一のものであり、それに集中することで、そうではないものを取り除くためであるように思う。

そうではないものを取り除くためであるから、それができるのであれば、呼吸に集中する必要性は絶対的なものではないであろう。そのことができるのであれば、それは瞑想であると言えるであろう。

さらに言えば、精神的に純粋な状態というものも絶対的なものではないであろう。精神的に穢れることもまた、人生において大切なことであるように思う。精神的に純粋な状態に、いつでも戻ってこれることが大切であろう。そのための方法が、瞑想であろう。

瞑想の目的は、無(空)になることであるとされることが多いように思うが、少し誤解があり得るように思う。精神の本質は無(空)であることを知ることは、学問的な知恵であろう。そして、そちらの方が先にあるべきことであろう。無(空)になるためには、宗教というものは最終的には、一時的には、捨て去らなければならない概念であることになる。一方で、真の信仰は最後に残るものであるという考え方もあり得る。どちらも正しいかもしれない。

このようなことは学問で得られることであり、瞑想によって得られることではないように思う。そして、まず学問があって、次に実践があるように思う。それが瞑想であろう。そう考えると、呼吸に集中すると良いという通常の瞑想の考え方は、学問より実践が先にあり、無理があるように私は思う。学問が実践より先にあれば、それが何であり、凪のような精神状態が、ただそれだけに過ぎないことであるということが解るはずであろう。

2018年6月3日日曜日

アリストテレス「形而上学」 86

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の下巻を読んでいる。200ページ程度まで、読み進めた。

第十三巻第七章では、アリストテレスは、数について論じる。ぼくが気にかかったのは次のところである。

「たとえば、二を数えるには一に或る他の一を加えることにより、三を数えるにはこの二に或る他の一を、そして四の場合にも同様にそれに或る他の一を、加えることによらねばならない、そこで、実際にはこのとおりであるから、諸々の数の生成は、かれらが諸々の数を生成させているようにあの二と一とからであることは不可能である。なぜなら、二は三の部分になり、三はまた四の部分になり、さらにその他の数も同様にそうなりながら、諸数は生成するのであるから」

ここで私が気にかかるのは、「二は三の部分になり、三はまた四の部分になり」というところである。三には二があるし、二には一があるし、一には零がある。ということは、零に近い数字ほど、全体に近いということではないであろうか。もしそうであるとすると、大きな数字ほど部分的であり、零に近い数字ほど全体的であるということにはならないであろうか。

2018年6月2日土曜日

唯物論と唯心論

唯物論というものがあるらしい。唯物論とは精神に物質が先立って存在するという考え方であると言ってよいように思う。唯物論の問題の一つは、何故この身体が私であるかという問題に答えられないことにあるように思う。もう一つの問題は、実在もまた概念であると考えられるということであろう。

Wikipediaによると、存在論的な唯物論の対義語は唯心論というらしい。唯心論とは物質に精神が先立って存在するという考え方であるように思う。唯心論という名前の是非は置いておくとして、精神が物質に先立つという考え方は自然であるように思う。さらに、二元論という考え方もあるらしいが、これは唯物論と同じ問題に直面するであろう。

私の理解が間違いでなければ、唯心論のうち、世界に私しか存在しないという考え方は独我論と言われる。唯心論では、他者の心は感じ得ないことであるが、独我論では、無いということになる。唯心論では、他者の心は前提であるように思う。特に、意思がそうであろう。それは前提するより他はないように思う。

独我論の魅力は、他者の存在が神秘的であることにあるように思う。独我論のもう一つの良さは、唯心論より単純であることであろう。

私自身の考えは、他者の心は前提したりしなかったりするので、唯心論と独我論を行ったり来たりしているということになる。子供のころからそうであったように思う。私の場合、幼いころは独我論者であったように思う。唯心論は、他者の痛みや喜びを知るという他者への優しさ、思いやりであって、成長して身に付くことであったように思う。そしてある程度成長して、中学生くらいの時には、独我論と唯心論を行き来するようになったように思う。私にとっては、唯心論は道徳であるように思う。

2018年6月1日金曜日

最近、音楽を作っている

最近、音楽を作っている。MacOSのGarageBandという無料のソフトウェアを使っている。これはおすすめだ。drummerというdrumの自動演奏をしてくれる機能があり、曲を思い付いた時になど、すぐ録音したい時に使える。アマチュアレベルであれば、完成までdrummerを使っていても問題ではないように思う。楽器の種類も豊富だ。無料のソフトウェアでここまで楽器の種類が揃っているソフトウェアは他にはないのではないだろうか。特にEDM系の音源が揃っているように思う。ぼくが作っている音楽はパンクなので、使える音源は少ないのであるが、それでも使えるソフトウェアである。

音楽を作り始めて、大体6か月くらいである。最初のころに比べると大分上手くなってきたように思う。特に、歌詞がよくなってきたように思う。最初のころは、取って付けたような歌詞が多かった。最近は、自然になってきたように思う。しかし、歌詞を作るのはむずかしい。だから、曲もワンコーラスだけであるか、それより短いものが多い。いつか続きを作るつもりの曲が大分増えてきた。いつか本当に作れるのであるかどうかはわからない。

ぼくの音楽を作るスタイルは、メロディと歌詞が降ってくるのを待つというスタイルである。どちらかが先に出来ていることもあるが、どちらかと言うと、メロディが先に出来ていることの方が多いように思う。このような作り方だと、コードを作ることが面倒である。メロディに合わせてコードを作らなければならないからである。必ずしもコードを作らなければならないということではないが。コードを先に作るというスタイルも試してみたいが、ぼくは楽器を持っていない。そういうこともあって、ギターかキーボードを買う予定である。

2018年5月31日木曜日

年配の者は若者を支配しなければならない

私の考えでは、年配の者は若者を支配しなければならない。若者は支配されなければならない。それが社会道徳というものであり、真の自由への道であるように思う。

それを形式的に行えば、古い儒教のようなものになってしまうであろう。儒教が悪いものであるかどうか、私は詳しくは知らないが、教育を形式的に行って、実質的に行えていないのであれば、それは悪いことであるように思う。

しかし、ただ怒っているだけの年寄りみたいなものは論外である。そのようなことを推奨しているのではない。

具体的には、学校である。学校に行くことは、年配の者が若者を支配する方法の最たるものであるように思う。そのことを若者は感じているし、時に怒っているであろう。早く大人になりたいと思う若者も多いように思う。

しかし、これは大切なことであるように思うが、真に学校を運営しているのは社会であって教師ではない。具体的に言えば、それは教科書などであって教師ではない。だから、教科書を理解しない教師は尊敬されない。

教科書さえあれば教師は必要ないという考え方もあるかもしれないが、教科書だけでは伝わらないこともあるように思うから、むずかしい問題であるように思う。近い将来では、インターネットがあれば教室はいらないという意見もあり得るように思うが、皆、教育に関しては保守的な傾向があるように思うから、近い将来、あまりに劇的な変化は起きないかもしれない。

支配するという言葉は良い言葉であるように、私は思う。若者にとっても、良いことであろう。差別は減小する。虐めも起きない。支配するとは、そういうことである。考えている大人は良い。現状に満足していない大人も良い。そのことは、支配するということと矛盾しないことであろう。

2018年5月30日水曜日

死後の世界

死とは何であろうか。もし仮に、死後の世界が存在するのであれば、そして、その世界にも死後の世界が存在するのであれば、死は存在しないであろう。真の死とは、死後の世界が存在しないことであろう。

このことは大切なことであるように思うが、純粋な唯物論的思想であっても、死後の世界というものはあり得る。なぜなら、物質的な意識の座は、脳と呼ばれているものの他にもあり得るからである。

私自身は、死後の世界は存在すると思っている。その方が自然であるように思うし、そう伝えられているようにも思う。ただし、確信はない。経験していないことに確信することは、ほとんどあり得ないことであるようには思うが。

輪廻転生という考え方があるらしいが、身近な人間からそのことを覚えているという話を聞いたことはないし、あまり信じてはいない。それよりは、世界そのものが変わるということの方があり得ることであるように思う。ただし、直観である。

さらに、私見では、もし仮に天国のようなものがあるとしても、そこに到達するのは大分先のことであるのではないかと思う。人間がそのように祝福された存在であるとはあまり思えない。しかし、地獄というようなものもあまり信じない。それはあまりに人間的であるし、この現世にいることは、字句通りの意味では、地獄であろう。

いや、天国というものはあり得る。しかし、第二の生が天国であれば、第三の生はどうなるのであろうか。第二の生、それっきりであるということであろうか。

2018年5月29日火曜日

人間の本質は悪

私は人間の本質は悪であるように思う。この世界の超越者、神の本質は善なのであろうから、それは丁度良いことであるように思う。しかし、誤解してはならない。人間の中に善の者や悪の者がいて、悪でいいと言っているのではない。その中では、善を目指すべきであるように思う。そうではなくて、すべての人間の本質は悪であるということである。このことを知ることが、善につながることであるように思う。

悪と言われていることの中に善があるということもあるように思う。いくつかあるように思うが、たとえば、ひとりよがりなどがそうである。ひとりよがりは、それほど悪いことであろうか。それを悪と思うのはルサンチマンのようなものではないであろうか。

嘘をつくということもむずかしい問題である。カントは嘘をついてはならないと言ったそうであるが、私が思うのは、人は嘘をつくことは可能であろうかということである。何らかの意味で、それは真実になってしまうのではないであろうか。そうであるとすると、嘘をつくということは、究極的には、存在しないという悪である。そのことを知れば、嘘をついてもいいということになる。真の嘘はつくことができないのであるから。

私の考えでは、悪の最たるものは、嘘をつくことではなくて、他者の不幸を喜ぶことである。もし仮に、すべての他者が富を得て、自分だけが得られないのであれば、物価は上がり相対的に貧しくなるので、不幸である。このように、ある意味では、他者の幸福を喜ばないということは避けられない。もし仮に、他者の不幸を喜ばないのであれば、そこにあるのは原理的な平等主義であるように思う。しかし、これは本当に幸せであろうか。そう思うことに、本質的な悪が存在するように思う。

2018年5月28日月曜日

神はいるかいないか

私は神の存在を信じているであろう。いるかいないかを考えられる神はいる。そうでなければならないであろう。いるかいないかを考えられる神はいる。いるということが先であろう。アリストテレス的に言えば、可能態よりも現実態が先であるということであろうか。

神の名をみだりに口にしてはならないという教えがキリスト教にあったように思う。他の宗教や思想にもあるかもしれない。私もそれはそうだと思う。もし神の名をみだりに口にしてもいいのであれば、前提から倒壊してしまうであろう。

しかし、私はほとんど逆のようなことも考えている。神の名をみだりに口にしてはならないが、神の名を口にすること自体は大切であるということである。失敗してもいい。失敗それ自体は否定的なことであっても。神の名を口にすることは大切なことであろう。しかし、節度は保たなければならないように思う。

本題に戻る。いるかいないかを考えられる神はいる、ということである。これは確かに真実であるように思う。いないのであれば、いるかいないかを考えられるということはないということである。あとは、経験するかどうかであるように思う。

神を経験すること。これである。実際のところ私は、世界は神に満ちあふれているように思う。少しあふれすぎているくらいにである。こうなると少し疲れる。神を経験しないことも大切なことであるということを知る。中間性は確かに徳の本質であるように思う。

神を経験する……

2018年5月27日日曜日

アリストテレス「形而上学」 85

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の下巻を読んでいる。195ページ程度まで、読み進めた。

第十三巻第六章では、アリストテレスは、数について語る。

「数のうちに或る第一のものとこれに続くものとがあって、その各々は互いに種において異なっているか」

「このことが直ちに諸々の単位についても真であり、したがって或る任意の単位が他の任意の単位と比較不可能であるか」

「すべての単位が直ちに継続的であり、したがってそのいずれの単位も他のいずれもと互いに比較可能的であるか」

「或る単位どもは互いに比較可能的であるが他の単位どもはそうでないのであるか」

「或る種類の数は最初に語られたようなものであるが、或る他の種類の数は数学者たちの言っているようなそれであり、そして第三の種類は最後に述べられたそれである」

2018年5月26日土曜日

数とは何であろうか。それは事物のある種の抽象であるように思う。一方で、それは人に先天的に備わっている感覚であるようにも思う。どちらが正しいのであろうか。どちらかが正しいのであろうか。

ぼくの知る限りでは、人は、いや、ぼくは、2歳のころから数の概念を持っている。それが獲得したものであるか、先天的なものであるかは解らない。

もし、イデアというものが存在するのであれば、数の概念は先天的なものになるのだろうか。プラトンによれば、それは先天的なものであり、アリストテレスによれば、それは後天的なものになるのかもしれない。知らないことではあるけれども。

古い人類について考えてみたい。ぼくは、人類が最初に制作した文字は、「一」であるのではないかと思うことがある。その「一」は、木の実であったり、獲物の動物であったりしたのではないであろうか。古い人類のことを考えると、つまり、進化論的に考えると、数の概念の発生は後天的なものであると考える方が、正しいことであるようにも思う。

しかし、ぼくが生まれる前のことなんて、実際には解らないことであるようにも思うし、多分あったかもしれなかったことなんて、どれほどの価値があるのであろうか。そういうこともあって、ぼくは、イデア、あるいはそのようなものの存在することは、少し信じている。だから、そのことはアリストテレスの思想とは異なる。

2018年5月25日金曜日

アリストテレス「形而上学」 84

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の下巻を読んでいる。190ページ程度まで、読み進めた。

第十三巻第四章では、アリストテレスは、イデアについて述べる。

「かれらにとっては、この同じ理由で、およそ普遍的に語られるものには、すべて、それぞれのイデアがあるというようなことになった、それはあたかも、物を数えようとする場合に、数が少なくては数えられないと思って、その数を多くして数えようとする者のごときである」

「エイドスは存在するということが、いろいろの仕方で証明されているが、そのいずれも真実らしくはない」

「また一般に、このエイドスの説は、エイドスを説く人々がイデアの存在することより以上にそれらの存在することを欲しているところのそれらを無いことにしてしまう」

「かれらがイデアを存在すると主張するゆえんの予想に従えば、ただたんに実体にだけでなく多くの物事にもそれぞれのエイドスがあるということになる」

第十三巻第五章では、アリストテレスは、続けてイデアについて述べる。

「とくに最も疑問とされてよいのは、そもそもエイドスが感覚的な事物に対して(永遠的なそれら[諸天体]に対してもあるいは生成し消滅するそれらに対しても)どれほどの役にたっているかという点である」

「しかしまた、他の事物がエイドスからであるということも、これが普通に言われる意味でのからであるということは、どうみても不可能である」

「つぎにまた、或る事物の実体がこの当の事物から離れて存在しているということはありえないことと考えられよう」

2018年5月24日木曜日

アリストテレス「形而上学」 83

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の下巻を読んでいる。185ページ程度まで、読み進めた。

第十三巻第三章では、アリストテレスは、続けて数学について語る。

「けだし、あたかも数学的諸命題のうちの普遍的なものどもが、諸々の大きさや数よりほかに離されて存在するものどもを対象とはしないで、かえってこれらの大きさまたは数を対象としながら、しかもこれらを或る大きさを有する事物としまたは或る可分割的な事物としてではなしに対象としているように、そのようにまた、諸々の感覚的な大きさに関しても、これらをそうした感覚的な事物としてではなしにあのようなものとしてのかぎりにおいて対象とするところの命題や論証のありうることは、明らかである」

「美の最も主要な形相は秩序と均斉と被限定性とであるが、これらをとくに主として数学的諸学が示している。そしてまた、これらが(すなわち、秩序とか被限定性とかが)明白にあらゆる物事の原因とも見える点からすれば、明らかに、数学的諸学はこのような種類の原因を、すなわち美を、或る意味での原因として語っているものとも言えよう」

2018年5月23日水曜日

アリストテレス「形而上学」 82

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の下巻を読んでいる。180ページ程度まで、読み進めた。

第十三巻第二章では、アリストテレスは、数学的対象について述べる。

「しかし、数学的対象が感覚的事物の内に存在するということは不可能であるということや、また同時にこういう説が一つの作り話にすぎないということは、すでに『難問の巻』のなかでも述べられたとおりである」

「しかしまた、このような実在[すなわち数学的対象]が感覚的事物から離されて存在するということも可能ではない」

「ところで、なるほど説明方式においては数学的事物の方がより先であるとしてもよかろう、だがしかし、説明方式において先であるものが必ずしもすべてその実体においても先であるというわけではない」

2018年5月22日火曜日

アリストテレス「形而上学」 81

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の下巻を読んでいる。175ページ程度まで、読み進めた。

第十三巻第一章では、アリストテレスは、感覚的事物の実体について検討する。

「感覚的事物の実体に関しては、我々は、そのなにであるかを、さきに自然学の研究のなかでは質料に関して、そして後には現実態における実体に関して、述べてきた。そこで、これから我々の研究するのは、果して感覚的実体よりほかになにか或る不動なそして永遠的な諸実体が存在するか否か、のし存在するとすればそれはなにであるか、に関してであるが、そのためには、まず第一に、他の人々の所説を調べてみる必要がある」

「我々の第一に研究すべきは、数学的諸対象に関してである」

「そしてそのつぎに、我々は、これらとは別にイデアそのものに関して、端的に、しかし法の許すかぎりにおいて、研究しなくてはならない」

「しかしさらに、あの研究にはいっそう多くの立ち入った説明が必要である」

「もし諸々の数学的諸対象が存在しているなら、それらは、或る人々の説くように感覚的事物の内に存在しているか、あるいは、感覚的事物から離れて存するものであるか(というのは、或る他の人々はまたこのようにも説いているからであるが)、そのいずれかである、あるいは、もしそのいずれでもないなら、それらは全く存在していないか、あるいは、或る他の仕方で存在していよう」

2018年5月21日月曜日

アリストテレス「形而上学」 80

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の下巻を読んでいる。170ページ程度まで、読み進めた。

第十二巻第十章では、アリストテレスは、善について検討する。

「しかし、さらに検討されねばならないのは、善ないし最高善なるものが全体の自然に対してつぎのどちらの関係にあるか、すなわち、それはなんらか離れて独立にそれ自体で存在しているのであろうか、それとも秩序なのであろうか、という問題である。あるいはむしろ、これらのどちらでもあるのではなかろうか?」

「すべての人々は、あらゆる事物が反対のものどもから生じるとしている、しかし、「すべての事物が」というのも、「反対のものどもから」というのも、ともに正しくない」

「なにによって生成は常にあるのか、なにが生成の原因なのか、だれも説いていない」

2018年5月20日日曜日

アリストテレス「形而上学」 79

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の下巻を読んでいる。165ページ程度まで、読み進めた。

第十二巻第九章では、アリストテレスは、理性についてのいくつかの難問とそれに対する答えを述べる。

「この理性の実体はただの理性なのであるか、あるいは思惟なのであるか、それはなにを思惟するのか? それはそれ自らをであるか、あるいは他のなにかをであろう、そして、もし他のなにかであるなら、それは常に同じものをであるか、あるいは異なるものをであるか、そのいずれかであろう。そうすると、それの思惟するのが善美なものをであるか、あるいは任意のなにものかをであるかの相違によって、そこになんらかの相違がありはしないか、あるいはどうでもいいことなのであろうか?」

「それゆえに、それ自らを思惟する(いやしくも最も優越的なものであるからには)、言いかえれば、その思惟は思惟の思惟である」

2018年5月19日土曜日

アリストテレス「形而上学」 78

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の下巻を読んでいる。160ページ程度まで、読み進めた。

第十二巻第八章では、アリストテレスは、天界と神々について述べる。

「我々の始祖たちから、遠い昔に、神話の形式で後世の人々に遺し伝えた伝承によると、これらのものども(諸遊星)は神々であり、神的なものが自然全体を取り囲んでいる。この伝承の残りの諸部分は、大衆を納得させるためにまたはその法律上ならびに生計上の福利のためにと、後に神話的に付け加えられたもので、そこでは、これらの神々は人間の姿をしたものまたはその他の動物のいずれかに似たもののように語られており、そのほか、いま述べられたことに続いておこる出来事や似寄りの事柄が語られている、そこで、もし誰かが、この付け加えられた部分を切り離して、ただ最初のところだけを、すなわち、あの始祖たちが第一の諸実体を神々であると考えたところだけを取りあげてみるならば、かれは、これこそ真に神々のごとく語られたものだと思うにちがいない、そしてまた、おそらくしばしばそれぞれの技術やそれぞれの哲学が、その能うかぎりの発達をとげては、やがてまた衰滅していったのにくらべて、この始祖たちの見解だけは、今日に至るまで、あたかも遺宝のように大切に保存されたものだと思うにちがいない。とにかく、我々の父祖の見解、先人たちの見解は、ただこの程度までは、我々に明らかである」

2018年5月18日金曜日

アリストテレス「形而上学」 77

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の下巻を読んでいる。155ページ程度まで、読み進めた。

第十二巻第七章では、アリストテレスは、神について述べる。

「けだし、思惟の対象を、すなわち実体を受け容れるものは理性であるが、しかし、この理性が現実的に働くのは、これがその対象を所有しているときにであるから、したがって、この理性がたもっていると思われる神的な状態は、その対象を受け容れうるというよりもむしろそれを現に自ら所有している状態である、そしてこの観照は最も快であり最も善である。そこで、もしもこのような良い状態に——我々はほんのわずかの時しかいられないが——神は常に永遠にいるのだとすれば、それは驚嘆さるべきことであり、それがさらに優れて良い状態であるなら、さらにそれだけ多く驚嘆さるべきである。ところが神は現にそうなのである」

2018年5月17日木曜日

アリストテレス「形而上学」 76

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の下巻を読んでいる。150ページ程度まで、読み進めた。

第十二巻第六章では、アリストテレスは、永遠的な不動な実体について述べる。

「三種類の実体があった、そしてそのうちの二つは自然的な実体であり、他の一つは不動な実体であった、だから、これについて、つぎに我々は、或る永遠的な不動な実体の存在することの必然的であるゆえんを説明せねばならない。まず、そのわけは、実体があらゆる存在のうちで第一のものだからであり、そして、もしすべての実体が消滅的なものであるなら、すべての存在がことごとく消滅的だということになるからである。ところで、運動が生成したり消滅したりすることは不可能である(なぜなら運動は常にあるものであったから)、また時間も生成し消滅することは不可能である、なぜなら、「より前」ということも「より後」ということも、時間が存在しないなら、存在しえないからである。そうだとすると、運動もまた、時間がそうであるように、そのように連続的である、というのは、時間は運動と同じであるか、あるいは運動の或る限定であるかであるから。ただしこの運動は、これが連続的であるためには、場所における運動であるより以外ではありえず、しかもこの場所的運動のうちでもとくに円運動でなくてはならない」

2018年5月16日水曜日

アリストテレス「形而上学」 75

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の下巻を読んでいる。145ページ程度まで、読み進めた。

第十二巻第四章では、アリストテレスは、事物の原因、原理について語る。

「事物に内在する要素のみがその事物の原因なのではなくて、外からの原因、たとえばそれを動かすものがあるからして、明らかに原理と構成要素とは異なるものである、しかし、どちらも原因である、こうして原理は、これら二つに分けられる、そして、ものを動かしまたは静止させるものとしてのそれは、原理であり実体である。したがって、類比的には構成要素は三つ、原因または原理は四つある」

第十二巻第五章では、アリストテレスは、前章の続きを論じる。

「さらに見ておかねばならないことは、或る種類の原因は普遍的に語られうるが或る他の原因はそうではないということである。実のところ、すべての事物の第一の原因は、現実態において第一であるところのこれと、もう一つは可能態においてのこれである。あの普遍的な原因などというものは存在しはしないのである、けだし、個別的な事物を生み出す原理は個別的なものだからである、なるほど普遍的には人間は人間から生まれるが、しかしひとりも存在していない、ただペレウスがアキレウスの原理であり、君の父親が君の原理であり、そしてこのBがこのBAの原理である、むろん一般的に字母Bは端的な意味で語節BAの原理ではあるが」

2018年5月15日火曜日

アリストテレス「形而上学」 74

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の下巻を読んでいる。140ページ程度まで、読み進めた。

第十二巻第一章では、アリストテレスは、実体について述べる。

「ところで、実体には三種類ある、その一つは感覚的な実体で、そのうちの或るものは永遠的なものであるが、他の或るものは消滅的なもので、後者は、すべての人々によって一般に認められているところの実体、たとえば植物や動物などである」

「いま一つの実体は、不動な実体であって、これを或る人々は離れて存すると主張している」

第十二巻第二章では、アリストテレスは、転化について述べる。

「転化というのにも四通りあるので、——すなわち、実体におけるそれか、性質におけるそれか、量におけるそれか、場所におけるそれかであり、そして、端的な意味でのそれ、すなわちこれと指し示される個物におけるそれは生成と消滅であり、量におけるそれは増大と減小であり、属性におけるそれは変化であり、場所におけるそれは移動であるが、——もしそうであるとすれば、一般に転化は、これらの各々の場合における反対の状態へであろう」

第十二巻第三章では、アリストテレスは、質料と形相について述べる。

「そのつぎには、質料お形相も生成するものではないということである、ただしそれは、終極の質料や形相がそうだというのだが」

「明らかに、それゆえ、すくなくもただそれだけの理由では、イデアを存在するとする必要はすこしもない。とにかく人間が人間を生むのだから、すなわち或る個人が或る特定の個人を生むのだから、あるいは技術の場合でも、これと同様である、すなわちたとえば、医術は健康の説明方式であるから」

2018年5月14日月曜日

アリストテレス「形而上学」 73

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の下巻を読んでいる。135ページ程度まで、読み進めた。

第十一巻第十二章では、アリストテレスは、転化の転化というようなものはありえないと言う。

「運動の運動というのに二通りの意味がありうる、その一つは、基体としての運動が運動する場合」

「もう一つは、或る他の基体が或る転化から他の種のそれに転化するという意味で、たとえば、人間が病気から健康にのような場合である」

「転化の転化または生成の生成があるとすれば、この過程は無限にさかのぼるであろう」

「或る運動をすることのできる同じものがまたその反対の運動をしまたは静止することのできるものであり、生成しうるその同じものがまた消滅しうるものでもあるのだからして、したがって、生成するものは、これがまさに生成するものに生成するとき、そのときに消滅するということになる」

「生成するものや転化するものの基には或る質料が存在すべきであるが、いったいそれはなにであろうか?」

2018年5月13日日曜日

アリストテレス「形而上学」 72

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の下巻を読んでいる。130ページ程度まで、読み進めた。

第十一巻第十一章では、アリストテレスは、転化について述べる。まず、転化は、付帯的にであるか、部分的にであるか、自体的にであるか、である。

「すべて運動は転化の一種であり、そして転化には上述の三つの場合があって、これらのうち、生成と消滅の意味での転化は運動ではなく、これら両者は矛盾的に対立するものへの転化であるからして、反対のものどもであるかその中間のものでもであるかであり(というのは、欠除態のまた反対のものとみなさるべきだからであるが)、そして肯定的に言い表される、たとえば「裸身の」とか「歯抜けの」とか「黒い」とかいうように」

2018年5月12日土曜日

アリストテレス「形而上学」 71

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の下巻を読んでいる。125ページ程度まで、読み進めた。

第十一巻第十章では、アリストテレスは、無限について語る。

「無限なものは、それ自らで離れて存するものであることはできない」

「無限なものが感覚的事物のうちには存在しない」

「無限なものという意味は、或る一つの実在としては、これをその大きさにおいていうか、運動においていうか、時間においていうかによって、異なっており、しかもこれらのうちのより後のものが、より先のものとの関係において、無限であると言われるのである、たとえば、運動は、ものが運動し、変化し、増大するところのその大きさのいかんによって、無限であると言われ、時間がそう言われるのは、運動のゆえにである」

2018年5月11日金曜日

アリストテレス「形而上学」 70

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の下巻を読んでいる。120ページ程度まで、読み進めた。

第十一巻第九章では、アリストテレスは、運動について述べる。

「そしてそれゆえに、運動のなにであるかをとらえることが困難なのである、というのは、運動は欠除態のうちにか、あるいは可能態のうちにか、あるいは端的な現実態のうちにか、そのいずれかに入れられねばならないが、実は明らかにこれらのいずれであることもできないものだからである、したがって、残るところはただ我々の言ったとおり、すなわちそれは、或る現実態であり、いま述べられたとおりの現実態である、そしてそれは、理解することの困難なものではあるが、存在することの可能なものである」

2018年5月10日木曜日

ルサンチマンについて

ぼくはニーチェなどのルサンチマンを論じている著作を読んだことはないけれども、ルサンチマンという概念には興味がある。ぼくの思うルサンチマンについて述べてみたい。

ぼくはルサンチマンについてこのように考えている。ルサンチマンとは、要するに、常識的、あるいは慣習的な行為性のことである。なぜならば、社会を構成する人間のうちのほとんどは弱者であるからである。

強者がルサンチマンにとらわれることもあるであろう。これは偽りである。それは真の意思というものを曇らせるものである。弱者がルサンチマンを持つこともあるであろう。これは、或る意味では、真っ当なルサンチマンである。

ルサンチマンを破壊するということは、その偽りを知ることである。しかし、真っ当なルサンチマンを破壊することはむずかしい。なぜならば、それは弱者にとって恩恵があるからである。弱者に強者になれということは、無責任的であるように思う。真の強者というものを知らないからである。それは、哲学者であろうか、資本家であろうか、僧侶であろうか。それとも、それらすべてであろうか。

しかし、弱者性を持つ強者は愛されるということがあるように思う。これは、或る意味では、強いということである。このようにルサンチマンというものには、逆転現象があるように思う。弱者というものは、常識、慣習、言語、それらをつくるものどもであるから、或る意味では、強いのであろう。

哲学的には、強者がルサンチマンを克服することは、端的に言って、正しいし、価値があるであろう。それは偽りだからである。

2018年5月9日水曜日

自由意志は存在するか?

自由意志は存在するであろうか? 私の考えは、否である。私は、運命論者である。しかし、そのことの絶対的な確証があるわけではない。人は、いや、私は、運命を知らないから、自由意志があるように思うのだと考えている。

自然法則があるから自由意志は存在しないとか、逆に、自然法則があるから自由意志は存在するとか、そのような議論があるように思うが、私の考えでは、それらはどちらも正しくない。そうではなくて、運命というものは直接的に経験できるものであると考えている。

運命を経験、観察できるということは、運命を経験、観察する主体は運命と同時的に存在するということである。それは自由意志、少なくとも狭義の自由意志ではないであろう。なぜなら、それは選択する主体ではないからである。意思は存在するということは言えるかもしれない。しかし、それは運命と同時的に存在するのであるから、端的に言って、運命であろう。

2018年5月8日火曜日

「本当の」、あるいは「真の」

「本当の」という言葉は、何を意味しているのであろうか? 「正しく、間違いなく」という意味であろうか。果して、それだけであろうか。例えば、「本当の哲学」というときの「本当の」は何を意味しているのであろうか?

「真の」という言葉も似たようなところがあるように思う。例えば、「真の遊戯」というときのそれである。ただ「正しく、間違いなく」というだけではないように思う。それは、仮に「正しさ」であるとしても、本質的に未定的な「正しさ」であるように思う。「真の」という言葉のそのような意味は、「本当の」という言葉にもあるように思う。

未定的な「正しさ」とは、例えば、いつか社会が変わって、その言葉のあり方も変容して、そのときに「正しい」ということである。現在の意味では、語られていない意味で「正しい」ということである。

ところで、「正しい」とは、単純な意味では、「論証されたもの」のことであろう。「真」とは、本質的には、「同語反復」のことであるように思う。そこから、「正しい」のように、「論証されたもの」という意味に広げられるように思う。

公理は「正しい」ものであろうか? これは、本質的には、言葉の使い方の問題であって、どちらでも「正しい」ように思う。公理はそれが公理であることによって「正しい」とも言い得るが、「本当の」公理は、その「正しさ」は「論証されて」はいない。公理は自然法則のようなものであるように思う。その「正しさ」は、帰納的なもの、偶然的なもの、確率的なものであるように思う。ただし、その確率は数字では語ることはできない。

2018年5月7日月曜日

古いことの中に新しいことがある

新しいことを求め過ぎることはよくないことであるように思う。古いことの中に新しいことがある。そのように考え方を変えた方がよいかもしれない。新しいことが古いことの中に侵食して行き、古いことが無くなってしまう。そのようなイメージである。古いことなど無い。そのような心持ちである。

斬新なものなどそもそもあるのであろうか。まったくないことではないであろうが、一人の人生の中には、滅多にあるようなことではないように思う。しかし、古いことはある。これを新しいことに変えていく。そのような考え方である。

そうして私が否定していった観念の中の一つは顔である。人は、いや、私は、顔の概念に影響を受け過ぎていたように思う。顔を棄て去ること。正確に言えば、私の人格的な行動様式の中から顔というものを棄て去るということである。

もちろん他者は私の顔を見て認識するし、それはそれで仕方のないことで、あってもいいことではある。しかし、一人でいる時間に、顔というものに影響を受けてしまうということは、無益なことであるように思うのだ。顔もツールである。そのように道具として相対化する。

2018年5月6日日曜日

必ず嘘をついてはいけないのか?

必ず嘘をついてはいけないのだろうか? カントは、必ず嘘をついてはいけないと言ったらしいが。ぼくは、中学生の時にそのようなことがわかったような気がしていた。嘘をついてはいけない。なぜなら、余計なことであるし、心が汚くなるから。

しかし、年齢を重ねて考え方が変わった。嘘をついているという「確信犯」的な嘘であれば、嘘をついてもいいということがあるという風に。嘘をついているという意識があるのだから、心も汚くならないであろう。あるいは、心をすぐに綺麗にできるであろう。

そして、決定的なのは、言語は、ほとんど思考のようなものであるが、それはほとんどであって完全にではないであろうということである。言語は思考の伝達の道具である。

そして、言語は思考そのものであると仮定しても、必ず嘘をついてはいけないということはないであろう。嘘をつくことが少なくて、嘘をついているということを知っているのであれば、ただわずかに遊びが生まれるだけのことである。しかし、大きな嘘や、多くの嘘は悪いことであるということは正しいことであるように思う。この基本的な考え方は、中学生のころから変わりはない。

2018年5月5日土曜日

笑いとは

笑いとは、過ち(誤り)を棄て去ることである。これは以前書いたことであろうか。よく覚えていない。だから、念のために記しておく。

笑いとは、過ち(誤り)を棄て去ることである。論理学的に言えば、それは体系の無矛盾性であり、ヘーゲルの哲学の用語で言えば、それは止揚(aufheben)である。止揚(aufheben)という概念は、笑いの性格をよく捉えているかもしれない。私は詳しいことは知らない。

笑いとは、過ち(誤り)を棄て去ることである。何度言うのであろうか? 相手に過ち(誤り)を求める笑いは、子供の笑いである。自分の過ち(誤り)を笑うことが、より高等な笑いというものであろう。

笑いとは、過ち(誤り)を棄て去ることである。これで四度目である。よく笑う者は強い者である。だから、人々は笑いに関心があるのであろう。笑いは、本質的に快楽的である。しかし、自分を笑う者は、強い者でもあり、弱い者でもあろう。

2018年5月4日金曜日

アリストテレス「形而上学」 69

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の下巻を読んでいる。115ページ程度まで、読み進めた。

第十一巻第七章では、アリストテレスは、学について述べる。

「そして、いやしくも世界の全存在のうちになにかこのような実体が存在しているなら、ここにはたしかにまた神的なものが存在しており、そしてこの実在こそは第一のそして最も権威のある原理であるにちがいない。明らかに、それゆえ、理論的な学には三種類、すなわち自然学と数学と神学とがある」

第十一巻第八章では、アリストテレスは、付帯的な物事について述べる。

「およそ学は、いずれもみな、常にそうある物事かあるいは多くの場合にそうあるような物事かを対象とするものであるのに、付帯的な物事はこれらのどちらの部にも属しない」

「付帯的な物事は、いずれも、自体的に存在する物事よりより先ではない、だからして、付帯的意味での原因もより先ではない、したがって、たとえ偶運または自己偶発がこの世界のなんらかの原因であるとしても、理性と自然とはそれよりもより先である」

2018年5月3日木曜日

アリストテレス「形而上学」 68

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の下巻を読んでいる。110ページ程度まで、読み進めた。

第十一巻第六章では、アリストテレスは、次のような難問があると言う。

「プロタゴラスによって語られたこともまた上述の諸説とほとんど同様である。けだし、この人が万物の尺度であると言ったとき、その意味は、各人にそう思われるものが確かにそうあるというにほかならなかったが、そうだとなると、ここでもまた、同じものがあり且つあらず、悪でもあり善でもあるということになり、その他一般に対立した述語をもつ判断が等しく真であるということになる」

そして、この難問には、次のような起源があると言う。

「このような見解は、(1)或る人々には、自然学舎たちの意見から生じてきたもののようであり、(2)他の或る人々には、必ずしもすべての人が同じ物事について同じことを認識するわけではなくてかえって或る特定のものが或る特定の人々には快と現われ他の特定の人々にはその反対に現われるという事実から生じてきたもののようである」

2018年5月2日水曜日

神との付き合い

哲学は、事物において、それが何であるかを解明するものであるが、それがすべてであろうか。例えば、神についてはどうであろうか。神が何であるかを考えることよりも、神との付き合いがその何であるかを決めると言うことはできないであろうか。その付き合いによって神とは何であるかということは決まるということである。そうだとすれば、神について考えることそれ自体よりも、神との付き合いをすることが、真の知恵につながると言うことができるのではないであろうか。

このことは、一般的に言って、様々なことを体験することが大切であるということのように捉えられるかもしれないが、私にそのつもりはない。私は、アリストテレス的な哲学の価値をどちらかと言えば認めているし、そのことが大切ではないということが言いたいわけではない。

2018年5月1日火曜日

宗教にあって哲学にないもの

私は、宗教にあって哲学にないものの一つは、慈悲だと思う。慈悲とは何か? 私の考えでは、慈悲とは、みっともないものを愛することである。このことは、哲学にはないことであるように思う。しかし、現時点で私の知っている哲学は大した量ではないので、この考えは将来的に変わる可能性もある。慈悲とは、愛することであって、従うことではない。だから、いじめられっ子がいるとすれば、その子の考えに従うことではなくて、仲良くなることでもなくて、何よりもまず理解することである。このことを愛と呼びうることは、哲学から教わった。嫌悪するのであれば、そのこと自体を理解すること。

哲学にも宗教にもない、大切なことと言えば、私の考えでは、かしこくなることである。それは、科学にもないかもしれない。例えば、AIはかしこくなることに大切な示唆を与えてくれるようにも思うが、決定的ではないように思う。私が思うのは、特に、判断の瞬発力を付けるということは、AIからは学べないように思う。どのようにすれば判断の瞬発力を付けられるのであろうか。多分、そういう経験を続けるということしかないであろう。しかし、このことは、AI研究のブラックボックス化ということと関係があることであるかもしれない。

言語論的転回という概念、言葉が存在するらしいが、哲学は、アリストテレスの時代から言語学的であったということは明らかであるように思う。言語学的な哲学的試みの一つは、自分で言語をつくることであろう。私は、表記する文字に関しては、つくった経験がある。それは、常識というものを破壊する術でもある。常識はとても言語的であるように思うからである。

理性は、宗教に足りないものの一つであろう。ないということはないように思う。特に、教義としての宗教において足りないものであるように思う。

2018年4月30日月曜日

アリストテレス「形而上学」 67

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の下巻を読んでいる。105ページ程度まで、読み進めた。

第十一巻第四章では、アリストテレスは、数学と自然学とが知恵の部分であることを簡単に語る。

第十一巻第五章では、アリストテレスは、矛盾律について語る。矛盾律については、端的には論証はありえないと言う。

「そして、このような原理に関しては、端的には論証はありえない、しかし個々人に対してのはありうる、というのは、こうした原理それ自らをこれよりもいっそう確実な前提原理から推理するということはありえず、しかもそれが端的に論証されるためにはそうした前提原理が必要だからである」

2018年4月29日日曜日

アリストテレス「形而上学」 66

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の下巻を読んでいる。100ページ程度まで、読み進めた。

第十一巻第二章では、アリストテレスは、個々の事物と実体について述べる。

「或る人々は、第一の原理を一であると言い、これを実体であるとし、そしてこの一と質料とから数をまず第一に生成させ、そしてこの数を実体であると主張しているが、どうしてこの人々の所説が真でありえようか?」

「しかしまた、ひとは、線やこれに続くもの(というのは、第一の面のことだが)をも原理であるとするでもあろうが、これらは、すくなくとも離れて存する実体ではなくて、前者は面の、後者は物体の(そして、点は線の)、切断であり区切りであり、さらにまたそれらはそれぞれの限界である、だが、要するに、これらはすべて他のもののうちに存属しているものどもで、いずれも離れて存するものではない。さらに、どうして一とか点とかいう実体があると想定すべきであろうか? なぜなら、およそいかなる実体にも生成過程があるが、点にはそれがないからである、けだし、点は或る分割にほかならないから」

第十一巻第三章では、アリストテレスは、存在について述べる。

「ところで、事物は多くの意味であると言われるが、それらはすべて或る一つの共通のものに即してそう言われ、反対のものどもも同様の仕方でそう言われ(というのは、これらは存在の第一の反対性または差別性に還元されるからであるが)、そしてこのような事物は一つの学のもとにありうるからして、最初にあげられた難問はこれで解決されたものとみてよかろう、——その難問というのは、多くの類を異にする諸存在についてどうして或るただ一つの学がありうるか、というのだが。——」

2018年4月28日土曜日

アリストテレス「形而上学」 65

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の下巻を読んでいる。95ページ程度まで、読み進めた。

第十一巻第一章では、アリストテレスは、かれの求めている学について述べる。

「いま我々の求めている学も、第一の諸類についてであろう。そしてそれらは存在と一とに還元されよう、けだし、これらは、他のなにものにもまさって、あらゆる存在事物を包括しているものと考えられ、また、その自然において第一のものであることのゆえに、最もすぐれて原理のようであるとも考えられようからである、というのは、もしこれらが消滅すれば、残るすべてのものも滅亡するであろうから、なぜなら、すべてのものは存在であり一であるから」

2018年4月27日金曜日

アリストテレス「形而上学」 64

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の下巻を読んでいる。90ページ程度まで、読み進めた。

第十巻第十章では、アリストテレスは、消滅的なものと非消滅的なものについて述べる。

「諸種の反対のものどものうち、或る種の反対のものども(たとえば、いま述べたものどもやそのほか多くの反対のものども)は、それぞれの事物に付帯的に属するものどもであるが、或る他の種の反対のものどもはそのような付帯的な属性であること不可能である、そして「消滅的」と「非消滅的」とは、この種の反対のものどもである」

「或る人々の言っているような種の存在しえないことは明白である、というのは、同じ人間でも、その或るものは消滅的であり、他の或るものは不滅である、というようなことになるからである」

2018年4月26日木曜日

アリストテレス「形而上学」 63

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の下巻を読んでいる。85ページ程度まで、読み進めた。

第十巻第八章では、アリストテレスは、種と類について考察する。

「種においてなにかと異なるものは、或るもののうちでそのなにかと異なっているのであり、そしてこの或るものはそれら両者に共通のものであらねばならない」

この或るものとは類のことである。

第十巻第九章では、アリストテレスは、或る反対性はものどもをその種において異なるものどもとするのに、雄や雌などの或る他の反対性は、そうしないのか、と問う。そして、それは、その類に特有の属性であるか否かということによると言う。

2018年4月25日水曜日

アリストテレス「形而上学」 62

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の下巻を読んでいる。80ページ程度まで、読み進めた。

第十巻第七章では、アリストテレスは、中間のものについて考察する。

「反対のものどものあいだには或る中間のものの存在することが許されるし、またその幾つかの場合には、現に中間のものが存在しているからして、中間のものどもが反対のものどもから成るものであることは必然的である」

「中間のものどもが、(1)すべて、同じ類に属するものであるということ、(2)反対のものどものあいだにあるということ、および(3)そのすべてが反対のものどもから構成されるものである」

2018年4月24日火曜日

アリストテレス「形而上学」 61

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の下巻を読んでいる。75ページ程度まで、読み進めた。

第十巻第五章では、アリストテレスは、等の概念について考察する。

「一つのものに対してはただ一つの反対のものがあるだけなので、ひとは、どうして一と多とが対立するのか、またどうして等がより大またはより小に対立させられるのであろうか、という難問を提出するであろう」

「等は、大でもなく小でもないがしかし大でもあり小でもあるように自然的にそうできている、そして等はこれら両者に対して欠除的否定として対立しているものである、それゆえに、また、両者の中間のものでもある」

私が思うのは、等の本質は一、不等の本質は二であるということだ。

第十巻第六章では、アリストテレスは、一と多について考察する。もしも多が一に対して端的に対立しているものであるとすると、そこから幾つかの不可能な結論が出てくると言う。(1)一は少である、(2)二が多である、(3)小も或る多さである。そして、多は数を意味する場合に限り、一に対立していると言う。この意味においては、二もまた多である。それは、第一の多さとしてである。しかし、端的には二は少であると言う。

2018年4月23日月曜日

アリストテレス「形而上学」 60

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の下巻を読んでいる。70ページ程度まで、読み進めた。

第十巻第三章では、アリストテレスは、一と多について考察する。そのうちの一つの仕方は、一と多さの対立であり、これは不可分割的なものと可分割的なものとの対立である。一には、同、類似、等などの諸義があり、多さにも異、不類似、不等あんどの諸義がある。

第十巻第四章では、アリストテレスは、差別概念について検討する。まず、最大の差別性は反対性であることは明白であると言う。そして、事物の対立の仕方に、矛盾と欠除と反対性と相対関係とがあるとすると、欠除は一種の矛盾であり、反対性は一種の欠除であると言う。

2018年4月22日日曜日

アリストテレス「形而上学」 59

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の下巻を読んでいる。65ページ程度まで、読み進めた。

第十巻第二章では、アリストテレスは、「一」の実体すなわちその自然に関して、考察する。

「一というのはいずれの類の存在においても或る一定の自然のことであるが、そのいずれにおいてもそれの自然はこの一そのものではない、そうではなくて、あたかも諸々の色の場合に我々の探求すべき一が或る一つの色であったように、そのように実体の場合にも、一そのものは或る一つの実体なのである」

2018年4月21日土曜日

アリストテレス「形而上学」 58

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の下巻を読んでいる。60ページ程度まで、読み進めた。

第十巻第一章後半では、アリストテレスは、「一つ」であると言われるものについての考察を進める。

「「一つである」ということが、最も厳密には、その語義に忠実に定義する者にとっては、或る尺度であり、ことに最も主として量の尺度であり、つぎに性質の尺度である、ということは明白である、そして、なにものかがそうした尺度でありうるのは、そのものが量において、あるいは性質において、不可分割的なものである場合にである。こうしてそれゆえに、「一つ」であると言われる事物は、その事物がそのまま端的に不可分割的であるか、あるいはそれが或る一つのものであるかぎりにおいて不可分割的である」

2018年4月20日金曜日

アリストテレス「形而上学」 57

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の下巻を読んでいる。55ページ程度まで、読み進めた。

第十巻第一章前半では、アリストテレスは、「一つ」であると言われるものについて考察する。「一つ」であると言われるものは、四つの意味があると言う。(1)連続的なもの、とくに接触によってでもなく紐によってでもなく自然に連続的なもの、(2)全体的なもの、或る一定の型式または形相を有するもの、(3)数における個別的な説明方式、(4)形相における知識や認識のうちにあるもの。このように、一つであると言われるのは、自然的に連続的なものと全体的なもの、および個別的なものと普遍的なものである。

2018年4月19日木曜日

アリストテレス「形而上学」 56

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の下巻を読んでいる。50ページ程度まで、読み進めた。

第九巻第九章では、アリストテレスは、現実態は、善い可能態よりもさらにいっそう善くあり、さらにいっそう貴重であると言う。なぜなら、可能態はその反対のもののどちらでもありえるからである。そして、悪い物事の場合には、それの終りすなわち現実態の方が可能態よりもいっそう悪いと言う。

第九巻第十章では、アリストテレスは、物事の真偽についての、「ある」と「あらぬ」について考察する。まず、必然的であることは、真であるか偽であるかのどちらかであるが、偶然的であることは、真でもありえるし偽でもありえると言う。そして、非複合的事物の場合には、真というのはその事物を知っていることであって、ここには偽はなく、あやまりもなく、ただ無知があるだけであると言う。

2018年4月18日水曜日

アリストテレス「形而上学」 55

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の下巻を読んでいる。45ページ程度まで、読み進めた。

第九巻第八章では、アリストテレスは、現実態が可能態よりも先であることを論じる。まず、説明方式において現実態の方が先であることは明らかであると言う。時間においては、その種において可能的なものと同一であるところの現実的なものは、より先である。しかし、数においては先ではない。例えば、たねなどがそうである。そして、現実態は、実体においても、より先であると言う。また、イデア論について、次のような批判をする。

「もしもあの概念規定を事とする人々がイデアと呼んでいるような或るなんらかの実在または実体があるなら、学問それ自体よりも遥かにいっそう多く学問的ななにものかが存在し、運動それ自体よりもいっそう多く運動しているなにものかが存在しているというようなことになろう、というのは、これらのものの方がむしろいっそう多く現実態であって、あれらのイデアどもはかえってこれらのものへの可能態たるにすぎないからである」

2018年4月17日火曜日

アリストテレス「形而上学」 54

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の下巻を読んでいる。40ページ程度まで、読み進めた。

第九巻第七章では、アリストテレスは、可能態について検討する。まず、思想によってそう成る事物の場合には、妨げるものがないことが条件である。そうであれば、家の材料は可能的に家である。だが、それ自らの内部にその実現の原理をもっている事物の場合には、外部からそれを害するなにものもないかぎり、すべてそれ自らで現実的なそれになりえる。たとえば、精子は、まただそれだけでは可能的に人間であるとは言えない。注入され胎児に転化する必要があるから。それ自らの原理によって然るべき属性を具えたものであるとき、それがまさに可能的にそれであると言える。

2018年4月16日月曜日

アリストテレス「形而上学」 53

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の下巻を読んでいる。35ページ程度まで、読み進めた。

第九巻第四章では、アリストテレスは、可能なものについて検討する。「ものは存在することの可能なものである、しかし存在しはしない」と言うことは真でありえないことは明白であると言う。

第九巻第五章では、アリストテレスは、能力について考察する。まず、能力は、その或るものは生得的な能力、或るものは習性によるもの、或るものは学習によるものであると言う。そして、習性による能力または理性による能力をうるためにはそれに先だつ現実的活動が必要であると言う。そして、次のように言う。

「理性によっての能のあるものは、かれが、まさにその物事についての能力を自らもっているところのその物事を欲求しており、且つその能力に適応した事情のもとにおるときには、その物事をなすこと必然である」
瘠身

第九巻第六章では、アリストテレスは、エネルゲイア(現実活動・現実態)について述べる。現実態とは、「見ておった」ことと「見ている」こと、「思惟している」ことと「思惟していた」ことのように、現在進行形と現在完了形とが同時的な過程のことである。そうでない過程を運動と言う。

2018年4月15日日曜日

アリストテレス「形而上学」 52

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の下巻を読んでいる。30ページ程度まで、読み進めた。

第九巻第三章では、アリストテレスは、メガラの徒の学説について、反駁する。

「それによると、なにものも、ただそれが現に活動しているときにのみそうする能があるのであって、活動していないときにはその能力がない、たとえば、現に建築していない者は建築する能がなく、ただ建築する者が建築活動をしているときにのみそうする能がある」

これは明らかに不合理であろう。現に建築していないならば建築家ではないということになるからである。

2018年4月14日土曜日

アリストテレス「形而上学」 51

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の下巻を読んでいる。25ページ程度まで、読み進めた。

第九巻第一章では、アリストテレスは、ディナミスについて、そして、まず能力としてのディナミスについて、説明を始める。

「同じ種に属するそれらは、いずれもみな、或るなんらかの原理であり、それぞれ或る一つの第一の原理との関連においてディナミスと言われるのである、そしてこの原理というのは、他のもののうちにあり、または他のものとしてのそのもの自らのうちにあるところの、それの転化の原理のことである」

そして、能動と受動とは、或る仕方では、一つであるが、或る仕方では、別々であると言う。

第九巻第二章では、アリストテレスは、理性について検討する。まず転化の原理の或るものは無生物のうちにあり、他の或るものは生物のうちにあり、霊魂のうちにあり、霊魂の理性を有する部分のうちにあると言う。だから、能力も、その或るものは非理性的であるが、他の或る能力は理性を伴うものである。そして、認識を有するものは相反する両方の物事を作り出すと言う。

「相反する二つの物事が同じ一つのもののうちに生じることはありえない、しかるに、認識は説明方式を有することのゆえに或る能力なのであり、そして霊魂は運動の原理を含有している、健康によいものはただ健康のみを作り出し、熱くするものはただ熱さのみを、寒くするものはただ寒さのみを作り出すのに、認識を有する者は相反する両方の物事を作り出す。そのわけは、説明方式が、同様の仕方ではないにしても、とにかくその両方に関係するものだからであり、運動の原理を含有する霊魂のうちにあるものだからであり、だからしてかれの霊魂は、この同じ原理から発し、両方をこの同じ説明方式で連関させて、相反する両方の運動をひきおこしうるのである」

2018年4月13日金曜日

アリストテレス「形而上学」 50

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。最後まで、読み進めた。

第八巻第六章では、アリストテレスは、「人間」は、たとえば「動物」と「二本足」のような多ではなくて、何故一なのであるかという問題について検討する。

「事物の最も近い質料とその型式とは、前者は可能的に、後者は現実的に、同じであり一つである、だからあたかも一の原因はなにかと問い、さらにその一であることの原因はなにかと問い求めるごときである。というのは、すでに各々の事物はそれぞれ或る一つのものであり、その可能的なあり方と現実的なあり方とはなんらか一つなのであるから。それゆえに各々の事物をその可能態から現実態へと動かす者があるという以外には、他になんらの原因もない。だが質料を有しないものはすべて無条件的に全く一つのものである」

2018年4月12日木曜日

アリストテレス「形而上学」 49

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。310ページ程度まで、読み進めた。

第八巻第四章では、アリストテレスは、質料的実体について語る。

「質料的実体に関して我々の忘れてならないことは、たとえすべての事物が同じ一つの第一のものから生じ、または同じものどもをそれら諸事物の生じる第一の諸原因としているとしても、すなわち同じ質料がそれらの生成の原理として働いているとしても、しかもなお各々の事物にはそれぞれに最も近い固有の或る質料があるという事実である」

現代的に言えば、素粒子、原子、分子など、質料には粒度があるということであろう。

第八巻第五章では、アリストテレスは、相反する事物の質料について語る。

「相反するものどもに対してそれぞれの事物の質料はどのような関係にあるか」

「なにゆえに酒が、酢の質料ではなく、また可能的にも酢ではないのか?」

「生者も可能的には死者であるのではないか?」

「これらの消滅態は酒または生者にとっては付帯的にであって、ただ生者の質料が、その所有態の消滅のゆえに、それ自ら、死者の可能態なのであり質料なのである、そのように酒の質料なる水が酢の質料なのである」

2018年4月11日水曜日

アリストテレス「形而上学」 48

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。305ページ程度まで、読み進めた。

第八巻第三章では、アリストテレスは、実体についてさらに語る。

「語節がたんに幾つかの字母と複合とから成るものでもなく、あるいは家が煉瓦その他と複合とから成るものではない」

「なぜなら複合そのことや混合そのことは複合されまたは混合されてその事物を成したところの諸要素から成るものではないからである」

「人間も、実は、たんにただ「動物と二本足と」であるのではなくて、かえって、もしこれらが質料であるとすれば、これらより以外になお或るなにものかが存在しなくてはならない、しかもこの或るなにものかは、人間の構成要素でもなく構成要素から成るものでもなくて、これこそその実体である」

2018年4月10日火曜日

アリストテレス「形而上学」 47

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。300ページ程度まで、読み進めた。

第八巻第一章では、アリストテレスは、実体について総括する。一般に認められている実体とは、自然的諸実体、すなわちたとえば、火、土、水、空気およびその他の単純物体、つぎに植物とその諸部分、動物とその諸部分、そして天界とその諸部分である。また、或る人々は、独自の見地から、諸々のエイドスや数学的諸対象を実体であると説いている。普遍も類もともに実体ではないということは既に語られた。非感覚的であるイデアと数学的諸対象とに関しては、後に検討されなければならないと言う。

感覚的事物の基体をなしている質料としての実体は一般に認められているものどもであるが、これは可能的存在としての実体である。第八巻第二章では、アリストテレスは、感覚的事物の現実的存在としての実体がいかなるものであるかについて述べる。たとえば、アルキタスは次のように語る。「ネーネミア(空のおだやかさ)」とはなにか? それは「空気の大きな広がりにおける静けさ」である。ここでは、「空気」は質料であり、「静けさ」は現実態であり実体である。あるいは、「ガレーネー(海のおだやかさ)」とはなにか? それは「海の面の滑らかなこと」である。ここでは、「海」は質料であり、「面の滑らかさ」は現実態であり実体である。感覚的実体には、このように、質料、現実態である型式、そして両者から成るものがある。

2018年4月9日月曜日

アリストテレス「形而上学」 46

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。295ページ程度まで、読み進めた。

第七巻第十六章では、アリストテレスは、イデア論を批判する。

「エイドスを語る人々は、それらを離れて存在するものと説いているが、いやしくもそれらが実体であるかぎり、この点ではかれらは正しい、しかし、かれらは、「多くのものの上に立つ一つのもの」がエイドスであると説いている点では、正しくない。その正しきをえなかった理由は、実際にどのような事物があのような実体——すなわち個別的な感覚的実体とは別に存在する不滅な実体——であるかをあげ示すことが、かれらにはできなかったからである」

第七巻第十七章では、アリストテレスは、実体についてさらに検討する。

「(1)それが或る一つの要素である場合には、ここでもふたたび、いま我々の述べたのと同じ論が当てはまる、すなわち、たとえば肉は、この或るなにものかとあの火と土とから成るということになり、こうして無限に至るであろう。しかしまた、(2)その或るなにものかが或る要素から成るものだとすれば、それは明らかにただ一つの要素からではなくて一つより多くの要素から成っているはずである」

2018年4月8日日曜日

アリストテレス「形而上学」 45

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。290ページ程度まで、読み進めた。

第七巻第十五章では、アリストテレスは、まず、実体は結合体と説明方式の二種に区別されると言う。そして、結合の意味での実体には生成や消滅があるが、説明方式には生成も消滅もないと言う。そして、個別的な感覚的諸実体には、定義も論証も存在しないと言う。なぜなら、消滅しうる事物は、それの認識を有する者にとっても、それが感覚範囲から消え去ったときには、不明瞭だからであり、そして、たとえその事物の説明方式は霊魂のなかにそのまま保存されていても、もはやそれの定義も論証もありえないであろうからである。そして、いかなるイデアも定義されえないと言う。なぜなら、イデアも、イデア論者によれば、一種の個別的なものであり離れて存するものであるからである。

2018年4月7日土曜日

アリストテレス「形而上学」 44

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。285ページ程度まで、読み進めた。

第七巻第十四章では、アリストテレスは、イデアを説く人々を批判する。イデアを説く人々は、諸々のイデアをそれぞれ実体であり離れて存するものであると説くとともに、同時にまたそれぞれのエイドスを類と種差とから成るものとしている。動物それ自体が人間のうちにも馬のうちにも存在するとすれば、それは数においては一つであるか異なるかである。一つであるとすると、明らかに不都合である。異なるとすると、動物を自らの実体とするところのものどもが、言わば無限に多くあるということになる。

2018年4月6日金曜日

アリストテレス「形而上学」 43

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。280ページ程度まで、読み進めた。

第七巻第十三章では、アリストテレスは、普遍は実体ではないと言う。そのことについて検討する。(1)普遍的な述語であればなにでも実体を示しているとすることは不可能なことである。普遍がすべての個物の実体であることはありえない。そうかと言って、もしそれが或るいずれか一つの個物のであるとすれば、この或る一つはその他のいずれの個物でもあるという結果になる。(2)たとえ普遍がこのように個々の事物の本質としての実体ではありえないにしても、普遍は各々の本質のうちに内在しておりはしないか。しかし、性質の方が実体よりも個物よりも先であるということは不可能である。(3)諸事物に共通に述語となるものどもは、いずれも事物をこれと指し示すものではなくて、事物をこのようなものとして指し示すものである。(4)いかなる一つの実体も、それを成す諸実態を現実的に存するがままに自らのうちに含むということは不可能である。

2018年4月5日木曜日

アリストテレス「形而上学」 42

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。275ページ程度まで、読み進めた。

第七巻第十二章では、アリストテレスは、それの説明方式がすなわち定義であると我々の言うところのそれが一つであるのは、そもそもなにによってであるか、という難問について検討する。

アリストテレスは次のように言う。

「たしかに或るものの定義のうちに含まれる諸要素は一つであらねばならない、なぜなら、定義は一種の説明方式であり、一つの実体の説明方式であるからして、この定義は或る一つのものの説明方式であらねばならない、そしてそのゆえは、我々の主張する通り、実体は或る一つのものであり、或るこれなるものを意味するからである」

2018年4月4日水曜日

アリストテレス「形而上学」 41

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。270ページ程度まで、読み進めた。

第七巻第十一章では、アリストテレスは、部分についての考察をさらに進める。(1)青銅にも石にも木にも伴ない現われる円のごときにおいては、これらが、青銅にしても石にしても、円の実体のなんらの部分でもないことは明らかである。(2)もし青銅の円のみしか見たことがなければ、青銅を思想のうえで抽離することは困難である。人間の形相を抽離しえないのは、他の種を経験したことがないからではないか。

そして、エイドスについて考察を進める。次のような結論が出てくると言う。(1)多くのものには明らかにそれぞれ異なる形相が認められるのに、この多くのものに通じて一つのエイドスがあるということになる。(2)一つのエイドスをすべてのエイドスのエイドスそのものであるとしうることになり、その他のエイドスはすべてエイドスではないということになる、しかもこうなるとなにもかもすべて一つだということになる。このような難問が存在する。

2018年4月3日火曜日

アリストテレス「形而上学」 40

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。265ページ程度まで、読み進めた。

第七巻第十章では、アリストテレスは、各々の部分の説明方式が全体の説明方式のうちに含まれるべきなのか否か、そして、もし部分が全体よりも先であるとすれば、そして鋭角は直角の部分であり指は動物の部分であるとすれば、鋭角の方が直角よりも先であり指の方が人間よりの先であるということになりはしないか、という疑問について検討する。

結論から言うと、アリストテレスは、どちらが先であるとも端的には言えないと答えざるをえないと言う。

なぜなら、直角の説明方式は、鋭角の説明方式には分割されないで、かえって鋭角のは直角のに分割されるからである。つまり、鋭角を定義する場合にはひとは直角の概念を用いる。すなわち、鋭角は「直角より小である」というふうに。同様に、指はその全体である人間によって定義される。

2018年4月2日月曜日

アリストテレス「形而上学」 39

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。260ページ程度まで、読み進めた。

第七巻第八章では、アリストテレスは、生成について述べる。そこでは、プラトン的なイデア論は批判される。

「そしてこの全一的なこれ、たとえばこの「カリアス」とか「ソクラテス」とかは、特定の「この青銅の球」に対応するものであり、そして「人間」とか「動物」とかは「青銅の球一般」に対応するものである。だからして、或る人々が個々の事物とは離れて別に実在するものとして説くを慣わしとしているエイドスのような意味で形相を事物の原因とすることは、明らかに、事物の生成にとっても存在にとっても全く無用である、なおまた、すくなくもそれだけのためには、形相がそれ自体で存在する実体を要しない」

第七巻第九章では、アリストテレスは、技術的な生成と自己偶発的な生成の差異について述べる。そして、生成についてさらに論を進める。

「生成する事物の或るものは技術を有する者がいなくては存在しえないであろうが、他の或るものは技術家がいなくても存在しうる」

「形相は生成しないということを実体について説明してきたが、この我々の論は実体についてのみでなく、同様に他のすべての第一のもの——すなわち量、性質およびその他の述語諸形態——についても均しく妥当する」

2018年4月1日日曜日

アリストテレス「形而上学」 38

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。255ページ程度まで、読み進めた。

第七巻第七章では、アリストテレスは、生成について述べる。生成する事物は、或るものは自然により、或るものは技術により、或るものは自己偶発により、生成する。そして、生成とは、或るものによって、或るものから、或るものに、である。

自然的生成については、これらの事物がそれから生成するところのそれは質料であり、それらがそれによって生成するところのそれは自然的に存在する或るものであり、生成してそれになるところのそれは、人間とか植物のような、我々が特に最も実体であると言うところのものである。

自然的生成の他の生成は制作と呼ばれる。制作は、技術からか、能力からか、思想からかである。或る制作は、自己偶発から生じることもある。この生成の過程には、推理と呼ばれる過程と制作と呼ばれる過程とがあり、その出発点である形相からの過程は推理であり、この推理の結論から始まる過程は制作である。

2018年3月31日土曜日

アリストテレス「形而上学」 37

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。250ページ程度まで、読み進めた。

第七巻第六章では、アリストテレスは、各々の事物とそれの本質とが同じものであるか、あるいは異なるものなのか、それについて検討する。

まず、アリストテレスは、「色白い人間」のように、付帯性との複合において言われるものの場合では、実体とその本質は異なるように思われると述べる。その理由は、「人間」と「色白い人間」とは同じものであり、したがって「人間の本質」もまた「色白い人間の本質」と同じものになるであろうからである。

私には、「人間」と「色白い人間」は異なるもののように思える。だから、この説明には了解しない。そして、「色白い人間の本質」の一つは「人間」であるように思う。そして、「人間の本質」は「考えること」であるように思う。このように、本質を考えることは起源を求めることであるように思うのであるが、どうであろうか。

次に、アリストテレスは、それ自体で存在すると言われるものの場合には、そのものとそれの本質とが同じであることは必然的であろうと述べる。このことについては、特に異論はない。

2018年3月30日金曜日

アリストテレス「形而上学」 36

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。245ページ程度まで、読み進めた。

第七巻第五章では、アリストテレスは、実体にのみ定義があり、述語的存在の定義は必ずなにかを加えることによってでなくてはありえないと述べる。たとえば、「奇」や「雌」は、数や動物があって定義される。

そして、ものの定義はそのものの本質の説明方式であり、本質はただ実体にのみ、あるいはすくなくとも最も主なる、第一義的の、端的な意味では、実体にのみ属するものであると述べる。

2018年3月29日木曜日

アリストテレス「形而上学」 35

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。240ページ程度まで、読み進めた。

第七巻第四章では、アリストテレスは、実体を規定する意味の一つである、各々の事物のなにであるかについて研究する。

まず、アリストテレスは、言語形式上の問題について述べる。それによると、各々の事物のなにであるかというのは、その各々がそれ自体でなにであると言われるそのなにかのことである。君の君であることは、君が教養的であることではない。君は、君自体で教養的であるのではない。君は、君自体で或るなにかであり、このなにかがまさに君の本質である。そのように言う。

そして、次に、アリストテレスは、それらが事実上いかにあるかを研究することも必要であると言う。そして、ここでもまた、事物のそもそもなにであるかは、なにであるかがそうであるのと同様に、第一義的、端的には、実体に属し、そして次には、実体以外の述語的諸存在にも属すると言う。

2018年3月28日水曜日

アリストテレス「形而上学」 34

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。235ページ程度まで、読み進めた。

第七巻第三章では、アリストテレスは、まず、実体は四つの意味で用いられていると言う。(1)もののなにであるか、(2)普遍的なもの、(3)類、(4)基体。これら四つである。そして、基体には三つあると言う。(1)質料、(2)型式、(3)これら両者から成るもの。これら三つである。

アリストテレスは、実体とは、他のいかなる基体の述語でもなくてそれ自らが他の述語の主語であるところのそれであるという定義では、不明瞭であるだけではなく、質料こそ実体であるということになってしまうと言う。

しかし、アリストテレスは、これは不可能であると言う。なぜなら、離れて存するものであることとこれと指し示しうるものであることとが最も主として実体に属すると認められているからであると言う。

アリストテレスは、質料や、質料と型式とから成るものは、実体であることが明らかであり、第三の実体、型式としての実体については、これを研究吟味する必要があると言う。

2018年3月27日火曜日

アリストテレス「形而上学」 33

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。230ページ程度まで、読み進めた。

第七巻第一章では、アリストテレスは、ある(または存在)というものには二つの意味があると言う。(一)もののなにであるか、またはこれなる個物、(二)どのようにあるか、あるいはどれほどあるか、あるいはその他のそのように述語される物事のそれぞれ。そして、第一というものには三つの意味があり、そのすべての意味において、実体は第一であると言う。(一)説明方式において、(二)認識において、(三)離れて存在すること。

第七巻第二章では、アリストテレスは、実体とはなにであるかについて答える。(一)実体は、その最も明瞭な形では、物体に属するものと思われている、(二)或る人々は、物体の諸限界を実体であると考えている、(三)他の或る人々は、感覚的諸物体よりもさらに多数の且つさらに優れて実在する永遠的なものどもを実体であるとしている。

2018年3月26日月曜日

アリストテレス「形而上学」 32

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。225ページ程度まで、読み進めた。

第六巻第二章では、アリストテレスは、端的な存在を四つに分類する。(一)付帯的な意味での存在、(二)真としての存在と偽としての非存在、(三)述語の諸形態、(四)可能的な存在と現実的な存在。これら四つである。そして、付帯的な物事には学は存在しないと言う。

第六巻第三章では、アリストテレスは、生について語る。

「このこと(生)の始まりを求めてたどる過程は或る始まりまではたどりうるが、この始まりより先にはもはや他の始まりは求められない。すると、これが或る特定の偶然的なことの始まりであるに相違なく、これよりほかにはこのことの生じる原因はないであろう。しかし、このように始まりをさかのぼり求めてどのような始まりに、どのような原因に達するであろうか、それが果して質料としての原因にか、目的としてのそれにか、あるいは動かす者にか、これは重要な研究課題である」

第六巻第四章では、アリストテレスは、真偽について語る。

「偽とか真とかいうは、たとえば善は真であるとか悪はただちに偽であるとかいうように、事態そのもののうちに存することではなくて、ただ思想のうちにあることにすぎない、のみならず単純な概念や事物のなにであるかを示す実体概念については、その真偽は思想のうちにさえ存しない」

2018年3月25日日曜日

アリストテレス「形而上学」 31

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。220ページ程度まで、読み進めた。

第六巻第一章では、アリストテレスは、学について説明する。学には、理論的な学、実践的な学、制作的な学の三つがある。理論的な学には、さらに、自然学、数学、神学の三つがある。そして、学の類のうちでは、理論的な学がもっとも望ましく、理論的な学のうちでは、神学がもっとも望ましいと言う。そして、第一の学について次のように述べる。

「もし自然によって結合された実体より以外にはいかなる実体も存在しないとすれば、なるほど自然学が第一の学であるであろう、しかし、もしなにか或る不動な実体が存在するならば、これを対象とする学の方がいっそう先であり第一の哲学であり、そしてこのように第一であるという意味でこの学は普遍的でもあろう、そして存在をただ存在として研究すること、存在のなにであるかを研究し、また存在に存在として属するその諸属性をも研究すること、これこそはまさにこの哲学のなすべきことである」

2018年3月24日土曜日

アリストテレス「形而上学」 30

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。215ページ程度まで、読み進めた。

第五巻第二十九章では、アリストテレスは、プセウドス(偽、虚偽、誤謬)を三つに分類する。(一)事態としての偽、(二)偽なる立言、(三)偽なる人間。これら三つである。(一)と(二)に差異があるのかどうかは、私にははっきりとは解らない。

第五巻第三十章では、アリストテレスは、シンベベーコス(付帯的、偶然的)を二つに分類する。(一)或る物事に属しそれの真実を告げはするが、しかし必然的にでもなく多くの場合にでもないこと、(二)それぞれの物事にそれ自体において属するものではあるが、その物事の実体のうちには存しないこと。これら二つである。

(二)の例として、三角形の内角の和が二直角であることが挙げられているが、これは付帯的であり偶然的ではない例であるように思われる。

2018年3月23日金曜日

アリストテレス「形而上学」 29

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。210ページ程度まで、読み進めた。

第五巻二十六章では、アリストテレスは、ホロン(全体)を三つに分類する。(一)全体が自然的にそれらから成っていると言われるところのそれら諸部分のいずれの一つも欠けていないそれのこと、(二)それのうちに包含される諸部分が或る一つの統一的なものであるようにそれらを包含するところのそれのこと、(三)それに始めと中間と終りとのある量的なもののうち、それらの位置のいかんがそのものになんらの差別をも生ぜしめないものが総体と言われるのに対し、差別の生じるものは全体と言われる。これら三つである。

第五巻二十七章では、アリストテレスは、コロボン(毀損された、不具の)について説明する。数や水や火などは毀損されない。毀損されるには、それの位置がそれの実体と関係をもっていなければならない。また、その欠けた部分がそれの実体の存続にかかわるような重要な部分でもあってはならない。

第五巻二十八章では、アリストテレスは、ゲノス(種族、類)を四つに分類する。(一)同じ形相をもつ事物の連続的な生成の存する場合、(二)或る事物の存在がそれに由来するところのそれらの第一の動者。(三)平面が平面的諸図形の類であるとか、立体が立体的諸図形の類であるとか言われるような意味、(四)事物の説明方式に含まれる第一の要素。これら四つである。

2018年3月22日木曜日

アリストテレス「形而上学」 28

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。205ページ程度まで、読み進めた。

第五巻二十二章では、アリストテレスは、ステレーシス(欠除)を四つに分類する。(一)或る事物が、自然的に所有していてもよさそうな或る属性を、所有していない場合、(二)或る事物が、それ自体においてあるいはそれの類において所有しているのが自然的であるところのものを、所有していない場合、(三)自然的にはそれを所有すべきものであり且つそれを所有しているべき時期にありながら、それを所有していない場合、(四)各々の事物の強制的除去。これら四つである。

第五巻二十三章では、アリストテレスは、エケイン(もつ、たもつ)を四つに分類する。(一)なにものかを自らの自然または自らの衝動に従って処理すること、(二)或る物事がこれを受容しうる或る基体のうちに内在している場合、(三)包含するものがこれによって包含されるものどもに対して、(四)それ自らの衝動によって或るものが運動しまたは行為するのを防ぎ止めるところのもの。これら四つである。

第五巻二十四章では、アリストテレスは、ト・エク・ティノス・エイナイ(或るものから……ある)という言い方を六つに分類する。(一)質料としての或るものからあるとの意、(二)運動の第一の始まりとしての或るものからの場合、(三)質料と型式との複合体からというような場合、(四)形相がその部分からという場合、(五)或るものの部分がそれらの諸義のいずれからいずれかに適応している場合、(六)時間的に或るもののつぎにという場合。これら六つである。

第五巻二十五章では、アリストテレスは、メロス(部分)を四つに分類する。(一)それにまで或る量的なものがなんらかの仕方で分割されるところのそれ、あるいは、それらのうちでただこの量的なもの全体の尺度となるもののみが部分と言われる場合、(二)それらにまで或る種類のものがその量とは無関係に分割されるところのそれら、(四)それぞれの事物の本質を明らかにする説明方式の要素。これら四つである。

2018年3月21日水曜日

アリストテレス「形而上学」 27

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。200ページ程度まで、読み進めた。

第五巻第十七章では、アリストテレスは、ペラス(限り、限界)を四つに分類する。(一)それぞれの事物の窮極の端、(二)或る大きさを有するものの形相、(三)事物の終り、(四)個々の事物の実体、本質。これら四つである。

第五巻第十八章では、アリストテレスは、カト・ホ(それでのそれ)を五つに分類する。(一)それが各々の事物の形相または実体である場合、(二)それにおいて或る属性の生成し存在するのが自然である場合、(三)「なんのためにかれは来たのか」という場合、(四)「かれの正しい推理の、またはあやまった推量の原因はなにか」という場合、(五)ものの位置。これら五つである。

さらに、アリストテレスは、カト・ハウト(それ自らで、それ自体において、自体的に)を五つの分類する。(一)そのものがそれ自体においてその本質である、(二)およそそのもののなにであるかのうちに含まれているあらゆるもの、(三)或る基体がなんらかの属性をそれ自らのうちに第一の基体として受容しあるいはそれ自らの部分の一つのうちにそれを受容している場合、(四)自らより以外には他にいかなる原因をも有しないもの、(五)或る基体がそれのみ自ら離れて単独にそれ自体でそうようにあるとき、ただこの基体にのみ属するそのような属性。これら五つである。

第五巻第十九章では、アリストテレスは、ディアテシス(配置、案配、状況)というものは、部分を有する事物の、それの場所または能力または種に関しての、配列のことであると説明する。

第五巻第二十章では、アリストテレスは、ヘクシス(所有、所有態、持前、状態)を三つに分類する。(一)なにものかを所有しているものと所有されているそのなにものかとのあいだの或る現実活動、(二)事物の或る種の状況、(三)その事物に(二)のような配置をもった部分がある場合。これら三つである。

第五巻第二十一章では、アリストテレスは、パトス(受動相、様態、属性、限定)を四つに分類する。(一)それによって或る事物に変化が生じうるところのその事物の性質、(二)諸性質の現実態、(三)とくに有害な諸変化や諸運動、(四)不幸や苦痛のうちの大なるもの。これら四つである。

2018年3月20日火曜日

アリストテレス「形而上学」 26

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。195ページ程度まで、読み進めた。

第五巻第十五章では、アリストテレスは、プロス・ティ(関係、相対性、関係的、相対的、字義的には、なにかに対してどうあるかという意味)を三つに分類する。(一)二倍が半分に対し、三倍が三分の一に対し、あるいは一般に何倍かのものがその何分の一かのものに対し、またはどれだけか超過しているものがそれだけ超過されているものに対してのような場合、(二)能動するものが受動するものに対してのような場合、(三)測られるものがこれを測る尺度に対し、認識されるものが認識に対し、感覚されるものが感覚に対してのような場合。これら三つである。

第五巻第十六章では、アリストテレスは、テレイオン(全くの、完全な)を三つに分類する。(一)それ以外にはそれのいかなる部分も、その一つの部分さえも、見いだされえないようなもの、(二)巧みさや良さの点においてそれの類のうちにはそれを超えるなにものもないようなもの、(三)それの終りに達したもの。これら三つである。

2018年3月19日月曜日

アリストテレス「形而上学」 25

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。190ページ程度まで、読み進めた。

第五巻第十二章では、アリストテレスは、ディナミス(能力、可能性)を五つに分類する。(一)他なるもののうちに存し、あるいは他なるものとしてそれ自らのうちに存する物事の運動や転化の原理、(二)その受動、(三)その事柄を巧みにまたは意図の通りに遂行しうる能力、(四)その受動、(五)それのゆえに物事が端的に非受動的であり不変的であるか、または容易には悪く転化させられないような性を所有せる状態。これら五つである。

第五巻第十三章では、アリストテレスは、ポソン(量、分量、本来の語義はどれだけ、いかほど、等々の意)について説明する。ポソンには、数えうる量であるときと、測られうる量であるときとがある。それぞれ、多さ、大きさである。さらに、ポソンは、それ自体においてそうであるときと、付帯的にそうであるときとがある。

第五巻第十四章では、アリストテレスは、ポイオン(性質、本来の語義はどのような、いかような、等々の意)を四つに分類する。(一)実体の差別相(種差)、(二)不動な数学的諸対象、(三)転化する実体の所属性、(四)徳や罪過、一般に善いことや悪いこと。これら四つである。しかし、これら四つは、性質(一)にまとめられると言う。

2018年3月18日日曜日

アリストテレス「形而上学」 24

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。185ページ程度まで、読み進めた。

第五巻第十章では、アリストテレスは、アンティケイメナ(対立、対立したもの)について説明する。それは、矛盾する判断、反対のもの、相対関係にあるもの、欠除と所有、生成や消滅の始まりと終りなどである。さらに、エナンティア(反対、反対のもの、相反するもの)と、へテラ・トー・エイデイ(種において異なるもの)についても説明するが、その差異は僅かである。

第五巻第十一章では、アリストテレスは、プロテロン(より先、前)とヒステロン(より後、後)を四つに分類する。(一)その各々の類のうちに或る始まりがあるとした場合に、どちらがこの始まりにより近くあるか、(二)認識においてより先であるか、(三)より先なる事物の諸限定、たとえばまっすぐであることの方が平たくあることよりも先であると言われる、(四)或るものは他のものがなくても存在しうるがゆえにより先であり、他のものはこの或るものなしには存在しえないからより後である。これら四つである。

2018年3月17日土曜日

アリストテレス「形而上学」 23

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。180ページ程度まで、読み進めた。

第五巻第八章では、アリストテレスは、ウーシア(実体)を四つに分類する。(一)単純物体、またこれらから構成されたもの、(二)他の基体の述語となることのない諸物体のうちに内在していてこれらの各々のそのように存在するゆえんの原因、たとえば生物では、それに内在する霊魂、(三)諸実体の部分としてこれらのうちに内在し、これらの各々を限定してこれとして指し示すところのもの、それがなくなればその全体もなくなるような部分、たとえば、面に対する線、(四)もののなにであるか(本質)。これら四つである。

第五巻第九章では、アリストテレスは、タウタ(同じ、同一)を二つに分類し、それにまつわる物事について考察する。(一)付帯性において、(二)それら自体において。付帯性においてというのは普遍的な属性と対比的なものである。それら自体においてというのは、それらの質料がその種やその数において一つである場合、それらの実体(本質)が一つである場合とがある。

2018年3月16日金曜日

アリストテレス「形而上学」 22

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。175ページ程度まで、読み進めた。

第五巻第七章では、アリストテレスは、オン(ある、存在する、または、存在、存在するもの)を二つに分類する。(一)付帯性において、(二)それ自体において。この二つである。さらに、「ある」は、真や偽であること、可能性または完全現実態、これらのことを示す。(二)の場合、オンは次の八つに分類される。実体・本質、性質、分量、関係、能動、受動、場所、時間。この八つである。「ある」と言ってもこのような八つがある。さらに、アリストテレスの著書の「範疇論」では、状況と状態の二つの範疇が加えられて、それらは、アリストテレスの十範疇、存在の範疇と呼ばれているらしい。

2018年3月15日木曜日

アリストテレス「形而上学」 21

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。170ページ程度まで、読み進めた。

第五巻第六章は、ヘン(一つ、一、統一)と言われるものについての説明である。ここでのアリストテレスの分類は多岐に渡り、複雑である。しかし、実体において一つであるということの説明は簡単である。(1)連続性において、(2)種において、(3)説明方式において。この3つである。多であることは一であることの逆である。連続性において多であるか、種において多であるか、説明方式において多であるかである。

古代ギリシア語には、冠詞があったらしいが、アリストテレスが一であることにこだわるのはそういったことにもよるのであろうか。アリストテレスが一であることにこだわるもう一つの理由は、ヘンという古代ギリシア語は、統一といった意味も持ちえるからというものである。どちらにも日本語にはない事情である。

私が思うのは、同じものが複数あるゆえに、数という概念が生まれ、同時に一という概念が生まれたということである。だから、一と多の概念が生まれる順序は同時的でるように思う。

2018年3月14日水曜日

アリストテレス「形而上学」 20

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。165ページ程度まで、読み進めた。

第五巻第四章は、自然についての説明である。現代の自然科学の観点からは、アリストテレスの自然論はとても古いものである。しかし、その本質は突いているように思う。次のような説明がそれである。

「第一義的の主要な意味で自然と言われるのは、各々の事物のうちに、それ自体として、それの運動の始まりを内在させているところのその当の事物の実体のことである、というのは、事物の質料が自然と言われるのは、質料がこの実体を変容しうるものなるがゆえにであり、また事物の生成し生長する過程が自然と呼ばれるのも、この過程がまさにこの実体から始まる運動なるがゆえにであるから」

第五巻第五章では、アリストテレスは、アナンカイオン(必然的な)とは「そうあるより他ではありえないこと」であると言う。このことに、異論はない。また、「或るものはその必然的であることの原因を他にもつが、或るものは他になにももたないで、かえって他の物事がこの或るもののゆえに必然的とされている」と言う。このことにも、異論はない。

2018年3月13日火曜日

「我思う、ゆえに我あり」という文の解釈

こういうことを考えたことがある。デカルトの方法序説にある「我思う、ゆえに我あり」という文は、我が思うということは、「ゆえ」に我があるということであるというようも解釈できのではないかと。言い替えると、「我思う」ということは疑いえないことかもしれないが、「ゆえ」もまた疑いえないことではないかということである。「ゆえ」は、英語で言うと、「reason」であり、「理性」でもある。この文は、そういったことをも表現してしまうようにも思う。

実際に、理性が存在することは疑いえないことではないだろうか。疑うことができるのは理性が存在するからであるように思う。「我思う、ゆえに我あり」という文は、「ゆえあり、ゆえに我思う、ゆえに我あり」という文に置き替えられるように思う。

2018年3月12日月曜日

アリストテレス「形而上学」 19

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。160ページ程度まで、読み進めた。

第五巻第二章では、アリストテレスは、アンティオン(原因)の種類として、四つ挙げる。(一)事物を生成し内在するもの、(二)事物の形相または原型、(三)物事の転化または静止の第一の始まり、(四)物事の終わりまたは目的。この四つである。

第五巻第三章では、アリストテレスは、ストイケイオン(構成要素、元素)の種類として、二つ挙げる。(一)事物を構成し内在するもの、(二)微小で単純で不可分的なもの。この二つである。さらに細かくそれらを六つの例に分けて説明している。

ここで、アリストテレスが行うのは徹底的な分類である。おそらく、そういったことは、アリストテレス以前の哲学者は行っていなかったのであろう。以降の哲学者でもあまり変わらないのかもしれない。分類することで、本質的であることに到達できると考えているのであろう。そういったことが、アリストテレスの言う第一の哲学に課された仕事なのであろうか。

しかし、第一の哲学が何であるかという問いは、私にはむずかしい。論理学の論理が、それに当たるようにも思うのではあるが。それは宗教的な性格も持つようにも思う。例えば、生や死とは何かというような問題でがそれである。どうしようもない。諦観という倫理が問われているようにも思う。とは言え、世界に対して、私たちは開かれているのだというようにも思う。

2018年3月11日日曜日

アリストテレス「形而上学」 18

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。155ページ程度まで、読み進めた。

第五巻第一章では、アリストテレスは、アルケー(原理)の種類として、六つ挙げる。(一)それから運動を始めるもの、(二)それから始めれば最善であるもの、(三)それから事物が生成しその事物に内在するもの、(四)それから事物の運動や転化が自然的に始まるもの、(五)事物を動かす意志のある或る者、(六)それから事物が第一に認識されるもの。この六つである。

このことの是非はむずかしい。よく六つも挙げられたものだと思う。(四)と(五)など、重複する可能性がありそうなものもあるように思う。

2018年3月10日土曜日

アリストテレス「形而上学」 17

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。150ページ程度まで、読み進めた。

第四巻第六章では、アリストテレスは、論拠のないものに論拠を求めるということを戒める。また、或るものはそれ自体において存在し、真実は相対的な現われではないと言う。

第四巻第七章では、アリストテレスは、「二つの矛盾したもののあいだにはいかなる中間のものもありえず、必ず我々は或る一つについてはなにか或る一つのことを肯定するか否定するかのいずれかである」と言う。

第四巻第八章では、アリストテレスは、或る者はすべては偽であると言い、他の或る者はすべては真であると言うが、どちらも正しくないと言う。それはそうだろう。

2018年3月9日金曜日

アリストテレス「形而上学」 16

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。145ページ程度まで、読み進めた。

第四巻第五章の残りの半分を読んだ。

アリストテレスは、矛盾律を原理としなければ、必然性を認めることも不可能であると言う。原理であるものを原理でないとする仮定にどれだけの意味があるのであろうか。それはよくわからない。アリストテレスも、それは唯の論証ではなく弁駁的な論証であると言っている。

「しかるに、かれらの説は、こうした必然性をことごとく破棄するものである、というのは、かれらはなにものの実在性をも認めないだけに、それだけなにものにも必然性は存しないことになるからである。なぜなら、必然的なものというのは、このようにもあり他のようにもあるということの不可能なもののことなので、もしなにものかが必然的にそうであるとすれば、そのものがそうあり且つそうあらぬということはないはずだからである」

2018年3月8日木曜日

アリストテレス「形而上学」 15

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。140ページ程度まで、読み進めた。

第四巻第五章の半分まで読んだ。

アリストテレスによると、「存在するものが同時にそうあり且つそうあらぬ」という見解の持ち主が過去に幾人もいたということである。にわかには信じられないが多分そうなのであろう。これがどういうことを意味しているのか、私にはまだよくわからない。

「またここで想起されるのは、アナクサゴラスが或る友人たちに寄せた文句である、それは物事が人々にそう判断されるようにそうあるというのである。またひとの言うところでは、ホメロスも明らかにこの見解をもっていたもののようである、というのは、かれはヘクトルが打たれて気を失って「異様な思慮にふけりつつ」横たわっていたと歌っているからである。これは思慮を失った者も或る思慮をもっているとの意である、——むろん同じ思慮をというのではないが。であるから、もしこの両方とも思慮であるならば、存在するものが同時にそうあり且つそうあらぬとされることは明らかである」

2018年3月7日水曜日

アリストテレス「形而上学」 14

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。135ページ程度まで、読み進めた。

第四巻第四章の残り半分を読んだ。

アリストテレスの矛盾律の弁駁的論証はむずかしい。訳注によると、弁駁的論証とは「或る見解の反対または否認の不可能なことを示すことによってその見解を支持擁護する一種の帰謬法的論証」のことである。現代の論理学では、矛盾からはあらゆる命題が真であることが証明されると思うが(偽ならばAは真)、アリストテレスも同じようなことを述べているはずであるとは思う。だから、正しくないと弁駁的に論証されるのであろう。ただし、その形式はむずかしい。

アリストテレスの考察は例えば次のようなものである。

「もしすべての者がひとしく偽を語るとともに真を語る者だとすると、このような者には、なんらの意味のある声を出すことも物を言うこともできないであろう。なぜなら、かれは、これを語ると同時にこれでないことを語るはずだから。そして、もしかれがなにごとをも判断することなしにただ無差別に考え且つ考えないとすれば、かれと植物とのあいだになんの異なるところがあろうか」

ここでは、矛盾は単に論理学的形式ではなくて、行為の理論にも及んでいるようである。

2018年3月6日火曜日

アリストテレス「形而上学」 13

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。130ページ程度まで、読み進めた。

第四巻第四章の半分まで読んだ。

まず鍵になるところは、矛盾律というものは論証されるものではないということである。それは存在の原理であるから、論証の前提になるものであるということであろう。

「論証の論証をと無限に追い求めて、しかも結局なんらの論証もえられないことになろう」

しかし、アリストテレスは、矛盾律の論証はできなくても、弁駁的に論証することはできると言う。

「ただもしその反対論者が一言でもなにかを言うならば」

しかし、論証と弁駁的論証の区別はむずかしい。本当にそのような区別はあるのであろうか。例えば、机の上に林檎があり、同時にその林檎が机の下にあるということは可能であるとする。そうするとその林檎の数は1であり2である。このことは不可能である。こういったことを弁駁的論証と呼ぶのであろうか。一般的に言えば、異なる場所に一つの存在が存在することはない。それは弁駁的に論証されるのであろう。

私は、矛盾律は原理であると思う。公理ではなくて、定理であるようだが。弁駁的論証というものはまったく意味がないことではないのであろうが、非常に有意義なものであるとも思えない。

2018年3月5日月曜日

AIの仕事

最近、AIが進歩しているという。どのような仕事が人によるものからAIによるものに変わるのだろうか。

聞いた話では、自動車の自動運転がそうであるようだ。個人的にも、長距離トラックの運転などは、近い将来、AIに代わってもいい仕事ではないかと思う。きつい仕事でもあるし、機械的な運転により安全性が高まる可能性もある。

他にAIに代わられそうな仕事としてぼくに思い浮かぶのは、レジ打ちだ。客がレジを打つというサービスはあるが、機械がすべてレジ打ちをするというサービスはまだないだろう。しかし、現状のAIの技術の延長で、このような仕事はAIにとって可能になるのではないだろうか。もし、商品を棚に並べるような仕事もAIにできるのであれば、将来的には、無人の店舗なども出現するのかもしれない。

その結果、起きることと言えば、AI産業の活性化と商品の値下がりではないだろうか。また、デフレーションだ。

2018年3月4日日曜日

アリストテレス「形而上学」 12

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。125ページ程度まで、読み進めた。

第四巻第三章では、アリストテレスは、数学の公理は哲学の分野にあると述べる。それは、存在の公理でもあるからである。そして、哲学により、第一に前提される原理として、矛盾律を上げる。現代的に言えば、それは、公理というより定理であるようにも思うのではあるが。アリストテレスの矛盾律は次のようなものである。

「同じものが同時に、そしてまた同じ事情のもとで、同じものに属し且つ属しないということは不可能である」

「反対のものどもが同じものに同時に属することは不可能である」

2018年3月3日土曜日

アリストテレス「形而上学」 11

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。120ページ程度まで、読み進めた。

第四巻第一章では、「存在を存在として研究し、またこれに自体的に属するものどもをも研究する一つの学がある」ということを述べる。

第四巻第二章では、それは哲学であると述べる。そして、哲学のすることについて次のように述べる。

「存在を存在として研究し、またこの存在としての存在の諸属性を研究するのは一つの学のすることである、そしてまた明らかに、この同じ一つの理論的の学が、ただ実体を研究するだけでなく実体の諸属性をのも、すなわち前述の諸概念をはじめ、先と後、類と種、全体と部分その他このような概念をも研究すべきである」

この章では、「一」と「存在」が類似的であるということが述べられているようだが、私が思うのは、「二」があるから、「一」があるということだ。そうでなければ、ただ「ある」ということでしかなかったであろう。

2018年3月2日金曜日

デフレーションは悪いことなのか?

日本の経済はデフレーションだと言われているし、言われていたが、それは悪いことなのだろうか?

物価が下がる要因には、企業の努力によって生産コストが下がるという場合もあるだろう。それは悪いデフレーションであるとは言えないように思う。同じ商品をコストを抑えて生産することは、良いことだからである。例えば、100円均一ショップなどがそうであろう。これらは、生産コストを下げることによって、価格を抑えることに成功しているように思われる。そういうコツコツしたことが、日本人は得意なのではないかと思う。

デフレーションが悪いことなのかどうか、政治家や市民には、もう一度考えてみてほしいように思う。その上で、政策決定をしなければいけないように思う。

私が思うのは、デフレーションの要因は生産の自動化と中国での生産である。生産の自動化によるデフレーションは良いことだと思う。中国での生産が要因であるデフレーションはどうであろうか? 中国で生産するから、安くなるし、中国の賃金が低いから、日本の賃金も低くなりやすい。これは、地理的にも、文化的にも、合理性という観点からも、解消はむずかしいことであるように思う。

日本が取り組むべきなのは、新しい製品への投資であるように思う。インフレーションが起こる要因は、私には、他に考えられない。日本人はあまり投機というものが得意ではなかったのかもしれない。少しずつ良い方向に変わってきているはずであるとは思う。

2018年3月1日木曜日

アリストテレス「形而上学」 10

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。110ページ程度まで、読み進めた。

第三巻第五章は、「諸々の数や物体や平面や点がなんからかの意味で実体であるのかあるいはそうではないのか」という難問についての考察である。

「物体さえも、実体たる点においては、面よりも劣っており、面は線よりも、線は点よりも劣っている、というのは、物体はこれらによって限界されており、そしてこれらは物体なしにでも存在しうるのに物体はこれらなしには存在しえないと考えられるから、というのである」

第三巻第六章は、いくつかの難問についての考察である。ぼくに刺さったのは次の文章である。

「もし原理が普遍的ではなくて、なんらか個別的なものであるとすれば、原理は認識されないものであるということになろう、けだし、いかなるものについてもその認識は普遍的だからである。したがって、いやしくも原理についてなんらかの認識があってほしいならば、これらの原理より先に他の原理が、これらを普遍的に述語し説明する原理として、存在しなくてはならない」

2018年2月28日水曜日

アリストテレス「形而上学」 9

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。105ページ程度まで、読み進めた。

第三巻第四章は、いくつかの難問について考察である。その一つは、次のような難問である。

「果して一とか存在とかいうは、ピタゴラスの徒やプラトンの説いたように、実体より以外の或る属性的なものではなくて、それ自らしょ存在の実体なのであるのか、あるいはそうではなくて、かえって或るなにものかが別にそれらの基体として存するのではあるまいか」

これに対しては次のように考察される。

「どちらにしても困難がある、すなわち一が実体でないとしておあるいは一それ自体が実体として存在するとしても、どちらにしても数は実在するものではありえなくなる」

「実体であるとする場合には、存在について生じたのと同じ困難が生じる。すなわち一それ自体よりほかの一の存するのに至るのが、それは一であらぬものからにちがいないが、存在するものはすべて一であるか多であるかであり、しかも多の各々は一であるから」

何だかすっきりしない考察であるように思うが、これらの難問は後にも考察されるようである。

2018年2月27日火曜日

アリストテレス「形而上学」 8

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。100ページ程度まで、読み進めた。

第三巻第三章は、「ものの原理とか元素とかいうのは、果してそのものの類のことなのか、それともそのものに内在する構成部分のことなのか」という問いへの考察である。この章では、考察するだけにとどまり、最終的な解答は提示しない。

「むしろ不可分なものどもの述語となるもの[種]の方が類よりもいっそう優れて原理であるように見える、だがまたもや、それではどうして種の方がいっそう優れて原理であると解さるべきなのかとなると、これも容易には答えられない」

2018年2月26日月曜日

アリストテレス「形而上学」 7

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。90ページ程度まで、読み進めた。

第三巻第一章では、哲学的な難問を列挙していく。

第三巻第二章では、先に挙げた難問のいくつかに検討を加えていく。ぼくに刺さったのはこの文章である。

「かれらの言うところは、人間それ自体とか馬それ自体とか健康それ自体とかが、それぞれそれ自体でというより以上にはなんの限定もなしにただ存在するというのであるが、それはあたかも、神々を存在すると主張しながらその神々を人間の姿をしたものと想像している人々と同じことをしているもののようである、というのは、この人々のいう神々は人間の永遠化されたものにすぎないが、かれらの説くエイドスもまたそれぞれ感覚的事物の永遠化されたものにすぎないからである」

この文章は次の難問への考察である。

「果してただ感覚的な実体のみが存在すると主張さるべきか、あるいはこれらのほかにも別の実体が存在するとさるべきであろうか」

2018年2月25日日曜日

アリストテレス「形而上学」 6

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。80ページ程度まで、読み進めた。

第二巻第一章は、真理性の程度についての説明である。

「たとえば火は、最も熱いものであるが、それは火が他のすべてにとって熱さの原因であるからである。だからそのようにまた、派生的に真であるものどもにとっては、それらの真理性の原因たるものはそれ自ら最も高度に真なるものである」

第二巻第二章は、原因の有限性についての説明である。

「理性を有する者は、なにかのために行為する、そしてこのなにかが限界であり、目的は限界である」

「いかなる無限なものも存在しえない、かりに存在するとしても、すくなくとも無限であることそのことは無限ではない」

「もし原因の種類が無限に多くあったならば、同じくまた知識はありえなかったであろう」

第二巻第三章は、対象の論証の仕方についての説明である。

「数学的推理におけるがごとき厳密さは、あらゆる対象について要求さるべきではなくて、ただ質料を具有しないものの場合にのみ要求さるべきである。まさにそれゆえに、この数学の方法は自然学の方法ではない、そのわけは、おそらく、およそ自然は、すべて質料を具有しているからであろう」

2018年2月24日土曜日

Computer Technology and Science

日本のIT(Information Technology)は、世界に遅れをとっていると言う。私が思うのは、ITという名称が今一つだということだ。実際に来ているのは、デジタルコンピュータの時代であるように思う。

情報技術革命は、例えば、活字印刷の発明などもそうであるし、曖昧な概念であるように思う。実際のところ、情報技術自体は、その時代から大きく進展してはいないように思う。進展したのは、デジタルコンピュータと通信速度の技術であろう。日本で大きく進歩したのは、携帯電話ととゲームとパソコン(ハードウェア)であるように思う。

何というか、ITという用語は、技術的に正確な用語ではないように思う。その正確性は、技術の進展のためには、大切なことであるように思う。ITという言葉は、当時のビジネス現場から現れた言葉のようで、あまり学問的な言葉ではないように思う。実際に、大学などでITという言葉はあまり使われていないであろう。大学などでは、情報学(Informatics)という言葉が使われることがあるようである。この言葉も、曖昧であるように思う。Compter Scienceという言葉の方が、正確であるように思う。

情報というものに、それほど重きを置くかということである。何だかそれは居心地が悪いような感じがする。

2018年2月23日金曜日

アリストテレス「形而上学」 5

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。70ページ程度まで、読み進めた。

第一巻第九章は、アリストテレスによるプラトンのイデア論批判である。ここで、エイドスはイデアと同じような意味で用いられている。

「他の事物がエイドスからであるということも、これが普通に言われる意味でのからであるということは、どうみても不可能である。エイドスは原型であり他の事物はこれに与かると語られているが、こう語ることは空語することであり、詩的比喩を語ることにほかならない」

「感覚の対象であるところの事物を、どうして感覚をもたないで知りえようか? しかも知りうるということになろう、もしも、あたかも複合音がこの音に特定の字母から構成されているように、すべての事物を構成しているところの諸要素が同じであるとすれば」

2018年2月22日木曜日

アリストテレス「形而上学」 4

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。60ページ程度まで、読み進めた。

第一巻第七章では、アリストテレスは、四種の原因の他に原理、原因を述べる者はいない。そして、これら四種は必要であると言う。私は、それが過ぎたものであることは否定しえないのではないかと思う。このことについては、後で語られることなのかもしれない。

第一巻第八章では、アリステレスは、まず、質料的な原理を挙げる者について批判する。

「第一かれらは、ただ物体の構成要素のみをあげて、非物体的なものについては、非物体的なものも存在しているのに、これについてはそれをあげていない。つぎにまたかれらは、生成と消滅とについてその原因を語ろうと試み、すべてについてその自然を研究している人々でありながら、運動の原因を見おとしている」

ピタゴラス学徒については、次のような二つの疑問を提示する。

「かれらは、一方では数の諸属性や数そのものを、天界にその始めから今でもなお存在し生成している物事の原因であると解しながら、他方では、数といえばただそれらから世界が合成されているところの数あるのみで、その他にはいかなる数も存在しないと解しているが、どうしてこのように解することができようか? かれらは、世界の或るこれこれの領域には「意見」と「好機」とがあり、そのすこし上方あるいは下方に「不正」と「決断」あるいは「混合」があるとしたとき、そしてその論証として、これらの各々はそれぞれ数であるとし、しかもすでにその場所には数から合成された多くの大きさのある物体があるはずである(なぜならこれらの数の諸属性がそれぞれその場所に配置されているから)としているのであるが、そうだとすると、これらの各属性が、すなわちそれぞれ数であると解されているところのこれらの数が、果してあの諸天体を合成しているところの数と同じものなのか、あるいはそれとは異なる他のものであるのか?」

2018年2月21日水曜日

アリストテレス「形而上学」 3

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。50ページ程度まで、読み進めた。

第一巻第五章は、ピラゴラス学徒についての説明である。ピダゴラス学徒とは次のようなものである。長くなるが引用する。

「数学の諸原理のうちでは、その自然において第一のものは数であり、そしてかれらは、こうした数のうちに、あの火や土や水などよりもいっそう多く存在するものや生成するものどもと類似した点のあるのが認められる、と思った、——ために数のこれこれの受動相は正義であり、これこれの属性は霊魂であり理性であり、さらに他のこれこれは好機であり、そのほか言わばすべての物事が一つ一つこのように数の或る属性であると解されたが、さらに音階の属性や割合も数で表されるのを認めたので、——要するにこのように、他のすべては、その自然の性をそれぞれ数にまねることによって、作られており、それぞれの数そのものは、これらすべての自然において第一のものである、と思われたので、その結果かれらは、数の構成要素をすべての存在の構成要素であると判断し、天界全体をも音階であり数であると考えた」

第一巻第六章は、プラトンの哲学の説明である。プラトンはピタゴラス学徒の影響を受けていた。プラトンは、感覚的事物とエイドスの中間に、数学の対象たる事物が存在すると主張した。そして、プラトンは、ここでアリストテレスの関心のある原理、原因に関しては、二種の原因について考えていた。

「かれがただ二種の原因だけを用いたということである、すなわち、もののなにであるかを示すそれと質料としてのそれとを、けだし、明らかにかれのエイドスは他のすべての事物のなにであるかを示す原因であり、それぞれのエイドスにとってはさらに「一」がそれであった。そしてその質料はなにであったかというに、——すなわち、感覚的事物の場合にはエイドスによってその事物のなにであるかが述べられたが、そのようにエイドスの場合には「一」によって述べられるところの当の基体たる質料はなにであったかというに、——それは明らかに「二」であった、すなわち「大と小と」であった」

2018年2月20日火曜日

アリストテレス「形而上学」 2

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。40ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスによると、原因というものには四通りの意味がある。

「そのうちの一つ(1)は、物事の実態でありなにであるかである、けだしそのものがなにのゆえにそうあるかは結局それの説明方式に帰せられ、そしてそのなにのゆえにと問い求められている当のなには窮極においてはそれの原因であり原理であるからである。つぎにいま一つ(2)は、ものの質量であり基体である。そして第三(3)は、物事の運動がそれから始まるその始まりであり、そして第四(4)は、第三のとは反対の端にある原因で、物事が「それのためにであるそれ」すなわち「善」である、というのは善は物事の生成や運動のすべてが目ざすところの終りだからである」

原理を水や空気や火や土のような質料因だけを考えていては、次のようなことが説明できない。

「材木にしても青銅にしても、これらはいずれもこれら自らの転化の原因ではない。すなわち、材木が自らで寝台を作りはせず、青銅それ自らが銅像を作りもしない、かえってなにか他の或るものがこうした転化の原因である」

「或る人が理性を動物のうちに存するように自然のうちにも内在するとみて、理性をこの世界のすべての秩序と配列との原因であると言ったとき、この人のみが目ざめた人で、これにくらべるとこれまでの人々はまるでたわごとを言っていたものかともみえたほどである」

この或る人とは、アナクサゴラスのことである。原子論もまた、物体は形態と配列と位置により差別化されると言うだけであって、始動因については何も説明しない。

2018年2月19日月曜日

アリストテレス「形而上学」

岩波文庫のアリストテレス「形而上学」の上巻を読んでいる。30ページ程度まで、読み進めた。

「すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する」

これが最初の文章である。

第一巻第一章では、技術、経験、知恵について、語る。

「知恵と名づけられるものは第一の原因や原理を対象とするものである」

「経験家もただたんになんらかの感覚をもっているだけのものとくらべればいっそう多く知恵ある者であり、だがこの経験家よりの技術家の方が、また職人よりも棟梁の方が、そして制作的な知よりも観照的な知の方が、いっそう多く知恵がある、と考えられるのである」

第一巻第二章では、知恵をただ知恵のためだけに愛するということが問われている。

「まさにただその無知から脱却せんがために知恵を愛求したのであるから、かれらがこうした認識を追求したのは、明らかに、ただひたすら知らんがためにであって、なんらの効用のためにでもなかった」

そして、神的な学について、次のように語る。

「最も神的な学は最も畏敬さるべき学であるが、この学のみは二重の意味で神的だからである。すなわち、どのような学でも、それが神の所有だるに最もふさわしい学であれば、それは神的であり、そしてまた、それが神的なものを対象とする学であれば、これもまた神的である」

2018年2月18日日曜日

プラトン著「プロタゴラス」 16

光文社古典新訳文庫のプラトン著「プロタゴラス」を読んでいる。最後まで、読み進めた。

最後の部分はエピローグである。ソクラテスは言う。ソクラテスは、最初は徳は教えることができないと言っていたのに、徳の部分である正義や節度や勇気などが知識であることを証明しようとしている。だが、そうすれば徳は教えることができるということが明白になってしまう。反対に、プロタゴラスの言うように、徳は知識とは別のものであるとすれば、それを人に教えることができないことは明らかであると。そういうアポリアに到達する。

最後は、ソクラテスは、徳は教えることができるのかできないのかという問題をプロタゴラスと再び考察したいと申し出るが、プロタゴラスは、別の用事に取り掛からなければならないから、またの機会にしようと言う。ソクラテスも同様のことを言い、その場で別れる。

2018年2月17日土曜日

プラトン著「プロタゴラス」 15

光文社古典新訳文庫のプラトン著「プロタゴラス」を読んでいる。190ページ程度まで、読み進めた。

ソクラテスは、プロタゴラスとの対話において、恐ろしいものと恐ろしくないものについての知恵が勇気であることになるのではないかと問いかける。しかし、プロタゴラスは、うなずく気もなく黙っている。プロタゴラスは、かつて、無知であるにもかかわらず勇気のある人がいると主張していたからだ。

「ソクラテス、君は勝ちたい一心で、わたしに答えを強いるのだね。それなら、ひとつ、きみを喜ばせてあげることにしよう。すでに同意されたことから考えれば、そのようなことはありえないと思う。わたしはそう主張しよう」

簡単には負けないプロタゴラス。しかし、ソクラテスの目的は、本当に、勝つことであったのであろうか?

2018年2月16日金曜日

プラトン著「プロタゴラス」 14

光文社古典新訳文庫のプラトン著「プロタゴラス」を読んでいる。180ページ程度まで、読み進めた。

ソクラテスは、大衆は次のようなことを言うと言う。

「人間はしばしば、悪いことを、それが悪いことだとわかっていて、しかも、それをしないでいることができるのに、快楽に駆り立てられ、目がくらんで、それをしてしまう」

「人間は、よいことだとわかっていても、そのときの快楽に征服されて、それをしようとはしない」

ソクラテスは、そのようなことは無知ゆえに起こると言う。

「快楽と苦痛——これはよいものと悪いものだった——を選択するときに間違える人がいるなら、それは知識を持っていないからだ」

2018年2月15日木曜日

プラトン著「プロタゴラス」 13

光文社古典新訳文庫のプラトン著「プロタゴラス」を読んでいる。170ページ程度まで、読み進めた。

ソクラテスは、プロタゴラスに、快いものはよいものであり、苦しいものは悪いものであるかと問う。プロタゴラスは、次のように答える。

「快いもののなかにはよいとはいえないもの、また苦しいもののなかには悪いとはいえないものがある。他方、そうだといえるものがある。そして、よいとも悪いともいえない第三のものもある」

ソクラテスは、大衆は次のように主張すると言う。

「何をするのが最もよいかをわかっていて、しかもそれをすることができるのに、それをしようとはせずに、他のことをしてしまう人がたくさんいる」

私は、それは意識にある考えと意識にない考えの異なりのように思うが、この時点でのソクラテスの考えはそれとは異なる。

ソクラテスは、大衆にとって喜びが悪いものであり得る事態について、次のように語る。

「きみたちは、喜び自体を悪いものと呼ぶこともある。だがそのような場合には、それをした結果として、その喜びに含まれるよりも大きな快楽が奪われたり、そこに含まれる快楽よりも大きな苦痛が生じたりしているのだ」

苦しみについても同様である。

2018年2月14日水曜日

プラトン著「プロタゴラス」 12

光文社古典新訳文庫のプラトン著「プロタゴラス」を読んでいる。160ページ程度まで、読み進めた。

ソクラテスは、最初の質問に戻る。知恵、節度、勇気、正義、敬虔。これら五つの名前は、一つのものなのか。プロタゴラスが初めに言ったように、それらは徳の部分だとして、それらは独自のものなのか。プラタゴラスは、それらは徳の部分であり、互いによく似ているが、勇気だけはまったく異なるものだと答える。

ソクラテスは、勇気のある人は大胆ですかと問う。プロタゴラスはそうだと答える。それで、ソクラテスは、知恵のある者は大胆である例を示し、知恵は勇気であることになるかと問う。プロタゴラスは、大胆な人は勇気があるかという問いに対しては、すべてがそうとは限らないと答えると言い、そのことを否定する。

「勇気のある人は大胆だとはいえるが、大胆な人であればすべて勇気があるとはいえないのだ。大胆さは、力のように、技術から生じて人間にそなわることもあるし、怒りや狂気から生じることもある。これに対して、勇気のほうは、心の素質が優れ、かつそれを上手に育てなければ生じてこないのだ」

2018年2月13日火曜日

プラトン著「プロタゴラス」 11

光文社古典新訳文庫のプラトン著「プロタゴラス」を読んでいる。150ページ程度まで、読み進めた。

ソクラテスは、シモニデスの詩は、「わたしは、すべての人を愛し、ほめたたえる」という部分で、ピッタコスに語りかけていると言う。シモニデスは、何も悪いことをしなければ、それで十分であると考えており、その点でピッタコスを非難しているとソクラテスは言う。このようにして、ソクラテスは、プロタゴラスの質問に対する答えを終える。しかし、ソクラテスは、詩に関する論議はこれで終わりにしたいと言う。その理由は、優れた人たちは、自分たちだけで、自分たちのものだけを使って互いに交わり、自分たちの言葉だけで互いにやり取りして、お互いを試すものだからと言う。しかし、プロタゴラスは、この後どうするのかはっきりとしなかった。そこで、アルキビアデスはカリアスに対して、プロタゴラスの態度は立派なものではないと言う。

「プロタゴラスは、恥じ入ってしまった。(すくなくとも、ぼくにはそう見えたよ。)なにしろ、アルキビアデスはこんなことを言うし、さらにカリアスをはじめ、出席者のほぼ全員が彼にお願いしたからね。そして、彼はとうとう、対話するほうを選んだんだ。そして、答えるから質問してくれと言った」

2018年2月12日月曜日

プラトン著「プロタゴラス」 10

光文社古典新訳文庫のプラトン著「プロタゴラス」を読んでいる。140ページ程度まで、読み進めた。

シモニデスの詩は、名声の高いピッタコスを打ち負かし、知恵に関してよい評判を得るということに目的があったとソクラテスは言う。そして、プロタゴララスの言うようにシモニデスの詩は矛盾してはいなく、〈ある〉と〈なる〉については、次のような違いがあるということをソクラテスは語る。

「よい人であること——すなわち、よい人でありつづけること——は不可能である。これに対して、よい人になることならできるが、しかし、その同じ人が悪い人になることもありうる。最も長いあいだ最もよい人でいられるのは、神々の愛する人々なのだ」

2018年2月11日日曜日

プラトン著「プロタゴラス」 9

光文社古典新訳文庫のプラトン著「プロタゴラス」を読んでいる。130ページ程度まで、読み進めた。

プロタゴラスは、ソクラテスに、人間教育における最も重要な部分とは、詩歌を解する能力であると言う。そこで、あるシモニデスの詩を挙げ、それは正しくないことを語っていると言う。それに対して、ソクラテスは、その詩は正しいことを語っていると言う。その詩とは、次のようなものである。

ほんとうによい人になることこそ困難だ
手足も心もまっとうな、欠点なき人となることは
〈数行欠落〉
わたしには、ピッタコスの言葉も正しいとは思えない
賢者によって語られた言葉だとしても
彼は言う——立派な人であることは困難だと

プロタゴラスは、シモニデスは自分と同じことを言っているピッタコスを非難していると言うのである。それに対して、ソクラテスは、〈なる〉と〈ある〉は異なることであるから、この詩は矛盾していないと言う。

2018年2月10日土曜日

プラトン著「プロタゴラス」 8

光文社古典新訳文庫のプラトン著「プロタゴラス」を読んでいる。120ページ程度まで、読み進めた。

ソクラテスは、ソクラテスの質問に対して、長い答えをするプロタゴラスに、短く答えるように求める。そして、ソクラテスは、プロタゴラスはそのことに不満を持っているように考える。そのことに関して、周りにいた人間が、適切な長さになるように監督を付けることを提案するが、ソクラテスはそれはプロタゴラスに失礼だとして拒否する。その代わりに、ソクラテスは、自身が質問を答える側に立ち、短く答えるということをしてみせるので、その後に、プロタゴラスに質問するということを提案する。

「全員が、そのようにするのがよいと賛成してくれた。いっぽうプロタゴラスは嫌がったのだが、結局は無理やり同意させられ、まずは彼のほうが質問し、十分に質問したら、こんどは短い言葉で質問に答えることになった」

2018年2月9日金曜日

プラトン著「プロタゴラス」 7

光文社古典新訳文庫のプラトン著「プロタゴラス」を読んでいる。100ページ程度まで、読み進めた。

プロタゴラスは、ソクラテスのトリック(のようなもの)に引っかかる。ソクラテスの質問に対して、プロタゴラスは、無分別の反対のものとして、知恵と節度と二つの異なるものを答え、さらに、ひとつのものにはひとつの反対のものがあると答えてしまう。それで、プロタゴラスの答えは矛盾したものになってしまう。

「だって、一方の主張では、ひとつのものにはひとつの反対物があるだけで、それより多くはないはずなのに、他方の主張では、無分別というひとつのものに、知恵だけでなく節度という反対物まであることが判明したわけですからね」

2018年2月8日木曜日

プラトン著「プロタゴラス」 6

光文社古典新訳文庫のプラトン著「プロタゴラス」を読んでいる。90ページ程度まで、読み進めた。

ソクラテスは、プロタゴラスに、正義と敬虔は異なるものであるかを問う。プロタゴラスはそうだと答える。そこから、ソクラテスは、そうだということは、不正な性質を持つ敬虔や不敬虔な性質を持つ正義があることになるのかと問う。それに対して、プロタゴラスは、正義と敬虔は少し似たところがあるが異なるものであると答える。

『ぼくはびっくりして、彼に向かって言った。「あなたはほんとうに、正義と敬虔のあいだの関係は、互いにその程度の小さな類似点しか持たないようなものだとお考えなのですか?」 彼は言った。「そこまで小さなものではない。かといって、きみが信じていると見受けられるほどの類似性もないのだ」』

2018年2月7日水曜日

プラトン著「プロタゴラス」 5

光文社古典新訳文庫のプラトン著「プロタゴラス」を読んでいる。80ページ程度まで、読み進めた。

プロタゴラスは、徳は教えられるものだと言う。徳を教えられないと考えるのは比較する対象を間違っているからであると言う。例えば、野蛮人と比較すると、徳は教えられるものだと考えることが妥当であるように思われると言う。優れた徳の持ち主である父親が子供に徳を教えられないように見えるのは、生まれながらの才能のためであって、不思議なことではないと言う。

「ソクラテス、これでわたしは物語と理論の両方をきみに語り終えたことになる。その内容は徳は教えることができるというこち、アテネ人たちもそのように考えているということ、そして、優れた父親の息子がつまらない人物になったり、つまらない父親の息子が優れた人物になったりするのは、なんら不思議なことではないということであった」

2018年2月6日火曜日

プラトン著「プロタゴラス」 4

光文社古典新訳文庫のプラトン著「プロタゴラス」を読んでいる。70ページ程度まで、読み進めた。

プロタゴラスによって語られた物語によると、神々によってつくられた人間のすべては、ゼウスの使者のヘルメスによって、国をつくらせるために謙譲心と道義心を与えられた。そして、プロタゴラスは、そのことから、すべての人間は政治をするのにふさわしいと語る。

「さてソクラテス、これでわたしは、きみに次のことを明らかにしたことになる。すなわちひとつは、きみの同国人たちは政治的問題に関しては鍛冶屋の助言であろうが靴職人の助言であろうが聞き入れるが、それはもっともなことだということ。そしてもうひとつは、彼らは徳というものは人に教えられてそなわるものだと考えているということである」

2018年2月5日月曜日

プラトン著「プロタゴラス」 3

光文社古典新訳文庫のプラトン著「プロタゴラス」を読んでいる。60ページ程度まで、読み進めた。

あなたは何を教えることができるのかというソクラテスの問いに対して、プロタゴラスは次のように答える。

『「すなわち、わたしから学べるのは、たくみに策を練る力だ。これを使えば、家のことに関しては、自分の家を最もよく治めることができるし、国のことに関しては、国のことを行うにも論じるにも、最も力のある者になれるのだよ」 ぼくは言った。「わたしは、あなたの言葉を正しく理解しているでしょうか? あなたは政治の技術のことをおっしゃっていて、また、よき国民をつくることを約束されていると、わたしには思えるのですが」 彼は言った。「まさにそれなのだ、ソクラテス。わたしがやっているのは」』

そして、ソクラテスは、そのようなことを教えることができるとは誰も考えてはいないと言う。

『国家政策について何かを審議しなければならないときには、誰もが同じように立ち上がり、そうした問題について彼らに助言するのです。その人が大工でも、鍛冶屋でも靴職人でも、貿易商人でも船主でも、また裕福でも貧しくても、家柄がよくても悪くても同じです。そして、先ほどの場合のように、「この人は、学んだことも、先生に付いたこともないくせに、助言しようとしている」と言って、こうした人たちを非難する者は、ひとりもいないのです。その理由は明白です。すなわち、彼らはそうしたものを教えることができるとは考えていないのです」

2018年2月4日日曜日

プラトン著「プロタゴラス」 2

光文社古典新訳文庫のプラトン著「プロタゴラス」を読んでいる。50ページ程度まで、読み進めた。

ソクラテスとヒポクラテスは、ソフィストのプロタゴラスに会いに行き、議論をしてもらえるように提案する。ブロタゴラスによると、ソフィストでありながらそのことを隠して生活しているものはたくさんいる。プロタゴラスは、そのようなことはしないと言う。

「だからわたしは、こうした人たちとはまったく逆の道を歩んできたのだ。わたしは、自分がソフィストであり、人々を教育していることを認めている。このような用心のほうが、あのような用心よりも、すなわち認めるほうが認めないよりもよいと考えているのだ。また、そのほかにもいろいろな用心をしてきたので、神様のおかげもあって、ソフィストであると公言して、ひどい目にあったことは一度もないのだよ。じっさい、わたしは、すでに長年この技術に携わっている。だから、もうかなりの歳だ。きみたちのなかの誰をとっても、年齢的にみてわたしが父親になれないような人は、ひとりもいないだろう」

2018年2月3日土曜日

プラトン著「プロタゴラス」

光文社古典新訳文庫のプラトン著「プロタゴラス」を読んでいる。30ページ程度まで、読み進めた。

ソフィストのプロタゴラスに教えを請いたいというヒポクラテスに対して、ソクラテスは何の教えを請いたいのかと問う。そして、ソフィストであるプロタゴラスは弁舌巧みな者にしてくれるという結論に達するが、ソクラテスは、さらに、ソフィストは何に関して弁舌巧みな者にしてくれるというのかと問う。それに対して、ヒポクラテスは答えられない。

『「では、ソフィストが人を弁舌巧みな者にしてくれるのは、いったい何に関してなのか?」
「もちろん、彼が知識を与えてくれる事柄に関してです」
「まあ、たしかにそうなんだが……。でも、それは一体何だろうか? つまり、ソフィスト自身が知識を持っていて、その知識を弟子にも与えてくれる事柄とは?」
「降参です。もう何も言えません」と彼は言った。』

2018年2月2日金曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 60

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の最後まで、読み進めた。

アリストテレスは、善き人になるためには、養育、習慣、法が大切であると言う。

「ここまで語ってきたように善き人になろうとする者は、適切に養育され、立派に習慣づけられて、その後すぐれた課題をこなして立派に生き、不本意にせよ自発的にせよ、劣悪なことを為さないようにしなければならない。しかも以上の事柄は、なんらかの知性と、従わせる力をのもつ正しい規範的秩序に基づいて、実現しうることなのである。——もし以上のとおりなら、父親の指令は、強制できる効力も強制力ももっていないし、王やその類いの人でないかぎり、一般に、一私人の指令は、そのような力をもたない。これに対して、法は、思慮深さと知性に発する分別を表す言葉であるがゆえに、強制する力をもっている」

2018年2月1日木曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 59

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の420ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、幸福は或る種の観想的な活動であると言う。そして、観想的活動は神の活動の似像であると言う。

「完全な幸福が或る種の観想的な活動であるということは、以下の説明からも明らかになるだろう。すなわち、われわれは神々が至福で幸福であるとみなしているのである。だが、それではいかなる行為が神々にふさわしいとすべきだろうか?」

「こうして、すべてひとつひとつ仔細に考えてみると、もろもろの行為における美点などは些末なものにすぎず、神々に値しないものにほかならないのである」

「神々は生きているが、ただし、行為を為すことはそこから除外され、まして何かを制作することもいっそうはっきり除外されるのであれば、観想以外、ほかに何が残るだろうか? それゆえ、至福において際立っている神の現実活動は、観想的活動であるということになる。そして、人間のさまざまな活動のうちでも、神のこの観想的活動にもっとも親近な活動こそ、もっとも幸福に満ちたものである」

2018年1月31日水曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 58

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の410ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、至福の人間に割り当てられるような諸特徴があれば、どれもみな観想的活動において成り立っていると言う。そして、観想的活動について、次のように語る。

「このような生活は、単に人間にふさわしいような生活より、すぐれたものだろう。なぜなら、このような生活を送るのは、その人が人間であるかぎりにおいてではなく、その人のうちになにかしら神的なものが内在している、そのかぎりにおいてのことだからである。そして、この神的部分が結合されたものよりすぐれている、その相違の分だけこの活動のほうも、ほかの徳に基づく活動よりすぐれている。したがって、人間に対する関係において知性が神的ならば、その神的なものによる生活もまた、人間にふさわしい生活に対しては、「神的」である」

2018年1月30日火曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 57

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の400ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、幸福について、次のように語る。

「幸福な人生は、徳に基づくような生であると思われる。しかしそうした生活はまじめさを伴うものであって、遊びのうちにはない。そして、まじめな活動は面白おかしく遊びを伴う活動よりもすぐれており、また、すぐれているのが魂の部分にせよその人間自身にせよ、よりすぐれた者にとって為すのがふさわしい活動ならば、それだけますますまじめな活動であるとわれわれは主張するのである。そして、よりすぐれた者の活動は、そのことだけでもう、より善きものであって、いっそう幸福に満ちたものなのである」

2018年1月29日月曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 56

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の390ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、人間のもつべき快楽というものがあると言う。その点では、アリストテレスは快楽主義者とは異なるだろう。

「高潔と思われるもろもろの快楽のうち、いかなるものが、また何が人間のもつべき快楽であると主張すべきなのだろうか? あるいは、その点は、人間のおこなう活動から明らかになるのではないか。というのも、快楽は活動に付随するからである。そこで、完全で至福な人の活動がひとつであろうと複数であろうと、真正の意味では、そのような活動を完成させる快楽こそが人間のもつべき快楽であると言えるだろう。これに対しそれ以外の快楽は、その活動もそうであるように、二次的に、またはるかに劣った意味合いで、人間の快楽と語られるのである」

2018年1月28日日曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 55

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の380ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、快楽について次のように語る。

「快楽が運動もしくは生成であると語っている人々が正しい語り方をしていないということも、明らかである。なぜなら、「運動」や「生成」はあらゆるものにかんして言えるような事柄ではなく、部分に別れ、全体ではないものにかんして言える事柄だからである。実際、見ることにも、点にも一にも、生成はなく、これらのどれも、運動でも生成でもないのである。それゆえ、快楽にも運動も生成もないのである。なぜらな、それは或るひとつの全体だからである」

「いかなる感覚に基づいても快楽があり、思考と観想に基づいても同様に快楽があるが、そのどれをとっても、もっとも完全な活動がもっとも快い。そして、良好な状態にある感覚による知覚の、感覚の感知の範囲内にある対象のうちでもっともすぐれた対象に向かっての活動が、もっとも完全である。そして、快楽はこうした活動を、完成させるのである」

快楽は、運動や生成ではなく、活動の終局であるということである。

2018年1月27日土曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 54

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の370ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、快楽について、次のように述べる。

「われわれは、たとえ何ひとつの快楽を伴わないとしても、それでも多くのことをめぐって、たとえば、見ることや覚えることにたとえ必然的に快楽が付随するとしても、重要性に何の変わりもないのである。なぜなら、われわれは、たとえこれらから快楽が得られなくとも、それでもこれらを選ぶにちがいないからである」

「したがって、快楽は善ではなく、いかなる快楽も望ましいというわけではないこと、そして、種類において、もしくは快楽が生まれてくる事柄においてほかの快楽とは異なるような、それ自体で望ましい一定の快楽があること、以上のことは、明らかであるように思える」

2018年1月26日金曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 53

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の360ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、善とは快楽であるという立場と快楽は劣悪なものであるという立場において、後者の立場は正しくないと論じる。

「言論の真理は、知るためにばかり有用であるのみならず、実生活そのものにとっても有用であるように思えるのである。なぜなら、事実と整合するとき言論は信用され、それゆえにそのような言論は、人生をそれ自体としてよくわかっている人々を励ますからである」

「現実には人々は、一方の苦痛を悪として避けており、他方の快楽を善として選んでいる。このことは明らかなのである。つまり、これらは、このような仕方において対立しているのである」

2018年1月25日木曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 52

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の350ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、幸運に際してより友人を必要とするのか、それとも不運に際してより友人を必要とするのかという問題に対して、次のように答える。

「幸運に際して友がかたわらにいてくれるということは、時を過ごすことを楽しくしてくれるし、友人が、自分が得た恵みを喜んでくれているという想いにさせてくれるのである。それゆえ、幸運の折には友人を積極的に招くべきであり(なぜなら、親切なふるまいは立派なことだからである)、不幸の折にはそのようなことを慎むべきであると思える」

そして、劣悪な人々同士の愛と高潔な人々同士の愛について、次のように語る。

「劣悪な人々同士の愛は不良になるが(なぜなら、不確かな人間だからこそ劣悪な相手と交際するのであり、しかも互いに似てくることにより、まさに不良な人間になるからである)、高潔な人々同士の愛は、交際によってともに成長を遂げるような、すぐれたものになる」

2018年1月24日水曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 51

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の340ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、徳に基づいた友人の数には適量があると言う。

「友人ができるだけ多くいることを求めるのは、おそらく適切でない。むしろ、ともに生きるのに十分な数の友人がいることを求めることが、適切なのである。なぜなら、多くの人ときわめて親密な友人であることは、そもそも不可能であるとも思えるからである」

「政治的な意味においてならば多くの人の「友人」であることは、可能である。しかし、多くの人々と徳に基づいて、またその人自身ゆえに友人であることは、可能ではない。この類いの少数の人々を見いだすだけでも、それで満足に値するのである」

2018年1月23日火曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 50

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の330ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、幸福な人は友人を必要とするかという問いに対して、友人は善いことを行う相手として必要であると語る。そして、結論のようにして、次のように語る。

「もし至福な人にとって存在することが、自然本性的に善いことであり快いがゆえに、それ自体としして望ましいものであり、かつ友人が存在することもそれに近いならば、友人もなた望ましいもののひとつであることになる。そしてその人にとって望ましいものは、その人にそなわるべきである。さもなければその人は、この点で「欠けたところのある人間」になってしまうだろう」

2018年1月22日月曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 49

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の320ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、相手のために親切なことをする人々にとって相手は作品のようなものだと述べる。そして、作品について次のように語る。

「われわれは、現実におこなう活動において存在し(なぜならわれわれは、生きることと行為することにおいて存在するからである)、しかも作品は或る意味で、そうした活動において存在しているような、作者であるということである。したがって、そのような作者は、自分の存在を愛するがゆえに、作品をも愛好するのである。つまり、このことは自然本性に根ざすことなのである」

アリストテレスは、大衆は自己愛を否定的に捉えるが、真の自己愛はむしろ望ましいものであると語る。

「知性が「それぞれの人である」こと、もしくは、知性がもっともすぐれて「それぞれの人である」こと、そして、高潔な人が何よりもまずこの知性を愛好していることは、明らかなのである。したがって、こうした人こそもっともすぐれて「自分を愛する人」だろう。ただし、非難される自己愛者とは異なる種類における自己愛者なのであり、ここには、分別に従って生きることが感情に従って生きることと異なるほどに、また美しい行いを欲求することが、自分の益になるとみえるものを欲求することとは異なるほどに、大きな違いがある」

2018年1月21日日曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 48

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の310ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、好意について、次のように語る。

「好意は、愛を説明する特徴のようにみえるけれども、愛ではない。なぜなら、好意は見知らぬ人に対しても、自分に気づかない相手に対しても発生するが、愛のほうはそうではないからである」

そして、アリストテレスは、協和について、次のように語る。

「協和も愛を説明する特徴に思える。このことゆえに、それは単なる同意見ではない。なぜなら「同じ意見」なら、互いに見知らぬ人々のあいでにも成り立つことがありうるからである」

「複数の国が有益さについて同意しあい、同じ方針を選択し、共通に善いと思われることを為すとき、その場合に人々は、これらの国は「協和している」と語っているのである」

「現実にそのような言葉で言われているとおり、協和は「政治的な愛」なのである。なぜなら協和は、有益であり、生活にかかわるようなものをめぐる事柄だからである」

2018年1月20日土曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 47

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の300ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、友人の特徴について次のように語る。

「人々はまず、相手のために善もしくは善にあらわれるものを願い、行為する人、あるいは友人のために、その人が存在し、生きることを願う人のことを、友人と考えているからである」

「友人とともに行き、友人と同じことを選ぶ人、もしくは友人と同じ苦しみを味わい、同じく喜ぶ人を友人であるとする人々もいる」

そして、アリストテレスは、高潔な人は、友人の特徴が自分自身に当てはまる人であると言う。さらに、高潔な人は、自分に対するように友人に対すると言う。逆に、劣悪な人は、この特徴がまったく当てはまらない人であると言う。

2018年1月19日金曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 46

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の290ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、次のような難問があると言う。

「父親にすべて委任して全部のことで父に従うべきだろうか、あるいはそうではなく、病気の時には医者を信頼すべきであり、将軍の選出では軍事に長じた人に一票を投ずるべきなのだろうか? また同様に、二つのことが同時にかなわない場合に、人が奉仕すべきなのは、「すぐれた人」というより、むしろ「友人」なのだろうか、また、「仲間」のために善行をおこなって親切にすべきというより、むしろ善いことをしてくれた「恩ある人」に、その人から受けた善をお返しすべきなのだろうか?」

アリストテレスは、この問いに対して、「精確な規定を与えて答えることは、たしかに難しいことである」と言う。しかし、「すべてをただ一人の同じ人に任せきりにしてはならないというこの一点だけは、はっきりしている」と言う。

次に、アリストテレスは、愛の関係の解消について語る。アリストテレスは、有用さや快楽を愛しての友人であれば、そういうことがあり得ると言う。

また、善き人を友人として受け入れていて、その相手が不良な人間になった場合については、次のように語る。

「改善の見込みがある相手に対してであれば、財産よりも人柄のほうがいっそう善きものであり愛そのものにいっそう特有の仕方で結びついたものである分、相手の財産のために手を差し伸べる以上に大いに、相手の人柄のために援助の手を差し伸べるべきであろう。しかしその一方では、そのような場合に人が愛を解消するとしても、なんら奇妙なことをしてはいないだろう。なぜならその人はもともと、このような相手の友人であったわけではないからである」

2018年1月18日木曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 45

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の280ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、共同体においては、愛(フィリア、友好とも訳される)は、貨幣が共通の尺度となると言う。

「異なる種類の愛が混在するあらゆる愛において、比例的関係によって愛は「等しいもの」にされて、維持される。たとえば共同体の友好においては、履物職人に対して靴の価値に応じて支払いが為され、織物職人やほかの職種の人々に対しても同じように為されるが、これは、それと同様のことなのである。こうして、この共同体の友好においては、貨幣が共通の尺度として供給されている。そして貨幣にすべてが換算されて、すべてのものがこれを尺度に測られるのである」

これはどうであろうか。愛(フィリア)はすべて貨幣に換算され得るのであろうか。愛(フィリア)というものが、友好(フィリア)とも訳されるからこのように語られるのであろうか。先に述べられたように、愛の見返りは名誉であってもよいはずである。共同体を成立させるために、共同体の友好(フィリア)は貨幣に換算されるということであろうか。

2018年1月17日水曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 44

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の270ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、より善い人はより多く配分されるべきであるという考え方と、窮乏している人やより能力のない人はより多く享受されるべきであるという考え方が、対立するという問題があると言う。それに対して、アリストテレスは次のように言う。

「実際、だれも、自分があらゆる事柄においてより少ないということには、耐えることができない。そこで、こうして人々は、金銭の面で減ぜられた者には名誉を配分し、贈与を受けるべき者に財貨を配分するのである。なぜなら、すでに述べたように、価値に応じた配分が愛を等しいものにして、愛を維持するからである」

2018年1月16日火曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 43

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の260ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、親子や兄弟の愛について、次のように語る。

「親は子どもを、あたかも自分自身を愛するようにして愛する(なぜなら、生まれた子どもは、いわば、切り離されたがゆえに「別になっている自己」のようなものだからである)。これに対し、子どもは親を生みの親として愛し、兄弟は互いを同じ親から生まれた者同士として愛する。なぜなら、生みの親に対する関係の同一性が、互いを「同じもの」にしているからである」

アリストテレスは、愛や友人には、徳に基づくもの、快楽に基づくもの、有用さに基づくものの三種類があると言う。そして、不平や非難は、有用さに基づくものにおいて生まれると言う。徳に基づく友人は、互いに対して親切によくしてあげるように務めるし、快楽に基づく友人は、快楽という欲しているものは同時に両方の手に入っていると言う。

涙は不思議。世界をよりよくするのは、愛ではなくて、正義でもなくて、涙なのではないかと思うことがある。

2018年1月15日月曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 42

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の250ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、国家体制の優劣を次の順番に付ける。王制、優秀者支配制、財産査定制、民主制、寡頭制、僭主制。そうすると、現在の資本主義国家は、4番目に位置することになりそうだ。善き王のもとでの王制が最も善い。しかし、王制は僭主制に転換するリスクを負っている。民主制はリスクが少ない。そういうことになると思う。

個人的には、一番良いのは、試験に基づく政治であるように思う。それは一種の優秀者支配制であろう。それは政治に参加するために必要な最低限の知識を問う試験を作るということである。そのような制度は真の意味で平等な制度であると言えるかもしれない。義務教育というものがあるのだから、そういう制度があっても良いように思う。

2018年1月14日日曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 41

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の240ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、愛は愛されることのうちにあるというより、愛することのうちにあると言う。

「そして、このように愛は自分から愛することのうちにあり、また、友人を大切にして愛するような人々が賞讃されるのだから、愛されることというより自分から愛することこそ、友人としての徳であるように思われるのである。それゆえ、このことが価値に応じて生まれるような人々は安定した持続性をもつ友人であり、このような人々の愛が、安定した持続性をもつ愛である」

アリストテレスは、愛と正義は共同体によってあると言う。

「はじめに語ったように、愛と正義は同じ事柄をめぐっており、同じ範囲の人々について成り立つように思われる」

「人々が互いに共同するだけのその程度、愛がある。正義も、その程度だけあるからである。また「友のものは共のもの」という諺は正しい。愛は人々が共同することのうちにあるからである」

「すべての共同関係はポリス共同体の「部分」であるように思われるのである。そして特定の種類の愛は、特定の種類の共同性に伴うものだろう」

2018年1月13日土曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 40

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の230ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、別の種類の愛として、優越性に基づく愛を挙げる。

「愛の別の種類は、優越性に基づくような愛である。たとえば、息子に対する父親の愛、一般に年少の者に対する年長の者の愛、また女性に対する男性の愛、および、一般にいかなる支配であっても、支配される者に対する支配する者の愛がこれに該当する」

「そして、優越性があるようなすべての愛において、愛情も比例的になっていなければならない。たとえば、よりすぐれた者は、自分が愛するより以上に相手から愛されるべきなのであり、より有用な者もそうである。ほかの点で優越する者も、それぞれ同様である。というのも、愛情が価値に応じたものになるとき、そこには「等しさ」もなんらかの意味で生まれるからである。そしてこの等しさの発生こそ、愛に属することであると思われる」

アリストテレスは、友人は友人に対して最大の善を願うかどうかは難問であると言う。

「たとえば人と神との隔たりのようにはなはだしく互いに隔たってしまった場合であれば、関係はもはや続かないからである。ここからはまた、いったい友人は友人に対して、最大の善、たとえば神になるというような善を、願わないのだろうかという難問が生まれる。なぜ人がそのように願わないかといえば、そうなったとき、もはや相手は自分にとって友人ではなくなってしまうし、したがって善いものでさえなくなってしまうからである」

2018年1月12日金曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 39

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の220ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、性向と活動ゆえに善き人と語られるが、愛も同様であると言う。

「徳の場合に、或る人々は性向のゆえに「善き人」と語られ、また別の人々は活動のゆえに「善き人」と語られる。これは愛の場合も同様である。なぜなら、ともに生きている人々は互いに対して実際に喜びを感じ、互いに対して実際に善いものを提供するのに対し、眠っている人々や場所が離れている人同士は、そのような現実の活動を行なっているわけではないにせよ、友人としての活動をいつでもするような性向にはあるからである」

そして、愛情は感情に似たものであり、愛は性向に似たものであると言う。

「愛情は感情に似たものであり、愛は性向に似たものである。なぜなら愛情は生物に劣らず無生物にも向かうが、人々が「愛し返す」のは選択を伴うことであり、選択は性向に由来しているからである。また人々は、愛される相手にとっての善を当の相手のために願うのだが、このことは感情によることではなく、性向によることである」

そして、利益と快楽など或るものと別のものを交換する愛は劣っていると言う。

「この後者の愛は愛として劣っており、あまり長くは持続しないということはすでに語られた。そして、それだけでなく、「徳に基づく愛という」同じものとの類似性と非類似性によりこれらはまた、「愛である」とともに「愛ではない」とも思われるのである。なぜなら、第一に、徳に基づく愛との類似性によってこれらは「愛である」と思われるが(一方は快楽をもち、他方は有用さをもっており、こういった要素は徳に基づく愛のほうにもそなわっているものだからである)、しかし第二に、徳に基づく愛は誹謗中傷と無縁であり安定した持続性をもつのに対し、これらの「愛」のほうは、すばやく変転することにとくにみられるように、多くの点で徳に基づく愛と異なっているがゆえに、こうした非類似によっては「愛でない」ように思えるからである。

2018年1月11日木曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 38

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の210ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、三種類の愛、善さに基づく愛、快楽に基づく愛、有用さに基づく愛について、次のように語る。

「以上のように、愛はこれらの三種類に分かれているので、劣悪な人々は、快楽もしくは有用さのゆえに、友人になれる。こうした範囲ではかれらは、似た者だからである。これに対して、善き人々は、互いに自分自身のゆえに友人となることができる。なぜならかれらは、善き人であるという点で友人だからである。したがってこの善き人々こそ限定ぬきに友人なのであり、先にあげた人々は付帯的に、また善き人々に似ているがゆえに友人なのである」

2018年1月10日水曜日

人間とAIの記憶の異なり

人間とAIの記憶の異なりについて考えてみたい。

人は家の鍵の閉める方向、時計回りか反時計回りかを覚えているだろうか? ぼくは覚えていない。それでも、出て行くときも、入るときも、困らない。1/2の確率で当たるからである。

ぼくは、暗証番号式の鍵の家に済んでいたことがある。そのときは、もちろん暗証番号を覚えていた。1/9999の確率だからである。

AIであれば、家の鍵の閉める方向は、覚えてしまうように思う。とても簡単なことだからである。人がそれを覚えない理由は、不思議であると言えば不思議である。それほど、リソースのかかることではないように思う。少なくとも、AIにとってはそうだろう。人にとっては、そのリソースは少なくないということだろうか。

記憶のあり方が、人とAIとでは異なるのかもしれない。それ以上のことは、今のぼくにはわからないことだ。

2018年1月9日火曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 37

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の200ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、愛には三種類あると言う。

「愛される性質のものとは、「善いもの」か、「快いもの」か、あるいは「有用なもの」であると思われる。しかるに、何か善いもの、もしくは快いものがそこから生じるような、そうしたものが「有用なもの」であると思われるのである。したがって、「善いもの」と「快いもの」のほうは、目的として愛される性質のものであることになる」

そして、完全な愛について、次のように語る。

「愛として完全なのは、善き人々のあいだ、つまり徳の点で類似の人々のあいだに成り立つ愛である。なぜならこの人々は、かれらが善き人であるかぎりにおいて、互いに同じ仕方で互いの善を願いあうのだが、ここでかれらが「善い」のは、かれら自身に基づいてのことだからである」

2018年1月8日月曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 36

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の190ページ程度まで、読み進めた。

欲望や快楽の問題に続いて、アリストテレスは、愛について語る。

「以上の考察の後では、愛についてつぎに論ずることがふさわしいだろう。なぜなら、愛は徳のひとつであるか、徳を伴うものであり、またさらには人生にとってとりわけ必要なものだからである」

愛は、原語でフィリアであり、訳者によれば、中心的フィリアは、友愛である。しかし、友愛は、夫婦愛や家族愛などを表すためには自然な表現ではないので、愛と訳したということである。

アリストテレスは、愛の問題について、人間にかかわり、人柄と感情に関係するような問題を検討すると言う。その問題は、次のようなものである。

「愛は万人の中に生まれるものなのだろうか、それとも、人柄が不良な人ならば友人になり得ないのだろうか?」

「愛の種類はひとつだろうか、それとも複数だろうか?」

2018年1月7日日曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 35

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の180ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、最高善について、次のように婉曲的に語る。

「劣悪な快楽が一部あるとしても、最高善が或る種の快楽であることを妨げるものは何もないのである。これは、一部の知識に劣悪なものがあるとしても、最高善は或る種の知識でありうるのと、同様のことである」

アリストテレスは、身体的快楽について次のように語る。

「たとえば立派な楽しみのように、或る快楽はたしかに非常に望ましいが、身体的快楽、つまり放埒な人がそれに熱中する快楽は望ましくないと言う人々は、身体的快楽について考察しなければならない」

「身体的な善には超過が存在し、劣悪な人間はこの超過を追求しているのであって、自分に必要不可欠な快楽を追求しているのではないのである」

そして、「苦痛のない快楽は超過をもたない」と言う。「これらの快楽こそ、自然本性的に快く、たまたま付帯的に快いというわけではないものの快楽なのである」と言う。

2018年1月6日土曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 34

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の170ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、「善い」には二つの意味があると言う。

「「善い」は二つの意味で(つまり、限定ぬきに善いという意味と、関与するなんらかの人やものにとって善いという意味の両方で)語られる。そしてもろもろの自然と性向についても、この二義性が成り立つ。したがって、もろもろの運動と生成もこれに伴って二つの意味があり、「劣悪」と思われる快楽には、限定ぬきに劣悪ではあるが、或るだれかにとってはそうではなく、その人にはむしろ望ましいと思えるものもある。また、特定のだれかにとってさえ望ましいというわけではなく、或る特定の短期間望ましいだけであって、限定ぬきには望ましくないものもある」

次に、「善いもの」について次のように語る。

「「善いもの」のひとつは現実に起こる活動であり、もうひとつは性向であるので、自然的性向へと回復してゆく過程が快いことは、付帯的なことである。そして、回復を目指す欲望のもとで起こる活動は、まだ無事に残っている成功と自然本性が担う活動なのである。というのも、たとえば観想という活動がそうであるように、自然本性が欠けていない場合には、苦痛と欲望が伴わないような快楽もあるからである」

そして、終局について次のように語る。

「或る人々が言うように生成過程より終局が善いものであるとしても、それと同じように快楽よりも善い別の何かがあるということには、必ずしもならないのである。なぜなら、すべての快楽が生成過程であるわけでもないし、すべての快楽が生成過程とともにあるというわけでもなく、むしろ快楽は、活動であり、そして終局だからである」

2018年1月5日金曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 33

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の160ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、抑制のない人と人柄が不良な人とは異なると言う。それを次のような比喩で語る。

「抑制のない人とは、決すべきすべての議案を決議し、すぐれた法律も整備しておきながら、それを全然活用しないような国に似ている」

「これに対して劣悪な人は、法を活用するが、その法そのものが劣悪な国に似ている」

快楽と苦痛にかんして、アリストテレスは、三つの通念があると言う。一つ目は、「いかなる快楽も、それ自体においてもたまたま付帯的にも、善いものではない」という立場であり、二つ目は、「一部の快楽は善いものだが、多くの快楽は劣悪なものだ」という立場であり、三つ目は、「たとえ快楽がどれもみな善いものだとしても、最高善が快楽であることは不可能である」という立場である。

しかし、アリストテレスは、快楽が善いものでないということも、最高善でないということも正しいことではないと言う。

2018年1月4日木曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 32

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の150ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、放埒な人は癒しがたく、抑制のない人は癒すことができると言う。

「放埒な人とは後悔しない人である。というのも、放埒な人は自らの選択に留まるからである。これに対して、抑制のない人ならば、みな後悔することが何かある。したがってこれは、われわれが先に挙げた難問のような事情の逆であり、放埒な人は癒しがたく、抑制のない人は癒すことができるということである」

そして、抑制のなさと悪徳は別物であると言う。行為者は、悪徳には気づかないが、抑制のなさには気づくからである。

アリストテレスは、抑制のある人と頑固者は似たところがあると言う。しかし、この両者には多くの違いがあると言う。

「抑制のある人は、感情と欲望によって信念を変えることはなくとも、場合によっては容易に説得されるのに対して、頑固者は分別によって信念を変えることがない代わり、欲望に囚われるならばかれらの多くが快楽によって突き動かされるからである」

また、抑制のある人と節制の人は、身体的快楽によって分別にそむいて何かしでかすことのない人であるという点では同じであるが、前者は欲望を抱いているのに対して、後者はそうではないという点で異なると言う。

2018年1月3日水曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 31

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の140ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、欲望にかかわる抑制のなさは、激情にかかわる抑制のなさより醜いものであると言う。それは、激情は或る意味では分別に従うが、欲望は分別に従わないからであると言う。

そして、獣性について次のように語る。

「獣性は悪徳と比べていっそう悪いものではないが、いっそう恐ろしいものである。なぜなら、人間の場合のようにより善い部分が損なわれているのではなく、獣はそもそもそうした部分をもち合わせていないからである。それゆえ、獣性と悪徳を比べてどちらがいっそう悪いのかを問題とするということは、無生物と生物を比べるようなものである」

また、抑制のなさについて、次のように語る。

「抑制のなさには「衝動」によるものと「弱さ」によるものがある。すなわち、弱さのために抑制のない人は、思案したのに、感情に駆られてその思案した結果にとどまれず、またそのときの衝動のために抑制のない人は、思案しなかったために感情に突き動かされる」