2018年1月31日水曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 58

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の410ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、至福の人間に割り当てられるような諸特徴があれば、どれもみな観想的活動において成り立っていると言う。そして、観想的活動について、次のように語る。

「このような生活は、単に人間にふさわしいような生活より、すぐれたものだろう。なぜなら、このような生活を送るのは、その人が人間であるかぎりにおいてではなく、その人のうちになにかしら神的なものが内在している、そのかぎりにおいてのことだからである。そして、この神的部分が結合されたものよりすぐれている、その相違の分だけこの活動のほうも、ほかの徳に基づく活動よりすぐれている。したがって、人間に対する関係において知性が神的ならば、その神的なものによる生活もまた、人間にふさわしい生活に対しては、「神的」である」

2018年1月30日火曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 57

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の400ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、幸福について、次のように語る。

「幸福な人生は、徳に基づくような生であると思われる。しかしそうした生活はまじめさを伴うものであって、遊びのうちにはない。そして、まじめな活動は面白おかしく遊びを伴う活動よりもすぐれており、また、すぐれているのが魂の部分にせよその人間自身にせよ、よりすぐれた者にとって為すのがふさわしい活動ならば、それだけますますまじめな活動であるとわれわれは主張するのである。そして、よりすぐれた者の活動は、そのことだけでもう、より善きものであって、いっそう幸福に満ちたものなのである」

2018年1月29日月曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 56

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の390ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、人間のもつべき快楽というものがあると言う。その点では、アリストテレスは快楽主義者とは異なるだろう。

「高潔と思われるもろもろの快楽のうち、いかなるものが、また何が人間のもつべき快楽であると主張すべきなのだろうか? あるいは、その点は、人間のおこなう活動から明らかになるのではないか。というのも、快楽は活動に付随するからである。そこで、完全で至福な人の活動がひとつであろうと複数であろうと、真正の意味では、そのような活動を完成させる快楽こそが人間のもつべき快楽であると言えるだろう。これに対しそれ以外の快楽は、その活動もそうであるように、二次的に、またはるかに劣った意味合いで、人間の快楽と語られるのである」

2018年1月28日日曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 55

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の380ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、快楽について次のように語る。

「快楽が運動もしくは生成であると語っている人々が正しい語り方をしていないということも、明らかである。なぜなら、「運動」や「生成」はあらゆるものにかんして言えるような事柄ではなく、部分に別れ、全体ではないものにかんして言える事柄だからである。実際、見ることにも、点にも一にも、生成はなく、これらのどれも、運動でも生成でもないのである。それゆえ、快楽にも運動も生成もないのである。なぜらな、それは或るひとつの全体だからである」

「いかなる感覚に基づいても快楽があり、思考と観想に基づいても同様に快楽があるが、そのどれをとっても、もっとも完全な活動がもっとも快い。そして、良好な状態にある感覚による知覚の、感覚の感知の範囲内にある対象のうちでもっともすぐれた対象に向かっての活動が、もっとも完全である。そして、快楽はこうした活動を、完成させるのである」

快楽は、運動や生成ではなく、活動の終局であるということである。

2018年1月27日土曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 54

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の370ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、快楽について、次のように述べる。

「われわれは、たとえ何ひとつの快楽を伴わないとしても、それでも多くのことをめぐって、たとえば、見ることや覚えることにたとえ必然的に快楽が付随するとしても、重要性に何の変わりもないのである。なぜなら、われわれは、たとえこれらから快楽が得られなくとも、それでもこれらを選ぶにちがいないからである」

「したがって、快楽は善ではなく、いかなる快楽も望ましいというわけではないこと、そして、種類において、もしくは快楽が生まれてくる事柄においてほかの快楽とは異なるような、それ自体で望ましい一定の快楽があること、以上のことは、明らかであるように思える」

2018年1月26日金曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 53

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の360ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、善とは快楽であるという立場と快楽は劣悪なものであるという立場において、後者の立場は正しくないと論じる。

「言論の真理は、知るためにばかり有用であるのみならず、実生活そのものにとっても有用であるように思えるのである。なぜなら、事実と整合するとき言論は信用され、それゆえにそのような言論は、人生をそれ自体としてよくわかっている人々を励ますからである」

「現実には人々は、一方の苦痛を悪として避けており、他方の快楽を善として選んでいる。このことは明らかなのである。つまり、これらは、このような仕方において対立しているのである」

2018年1月25日木曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 52

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の350ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、幸運に際してより友人を必要とするのか、それとも不運に際してより友人を必要とするのかという問題に対して、次のように答える。

「幸運に際して友がかたわらにいてくれるということは、時を過ごすことを楽しくしてくれるし、友人が、自分が得た恵みを喜んでくれているという想いにさせてくれるのである。それゆえ、幸運の折には友人を積極的に招くべきであり(なぜなら、親切なふるまいは立派なことだからである)、不幸の折にはそのようなことを慎むべきであると思える」

そして、劣悪な人々同士の愛と高潔な人々同士の愛について、次のように語る。

「劣悪な人々同士の愛は不良になるが(なぜなら、不確かな人間だからこそ劣悪な相手と交際するのであり、しかも互いに似てくることにより、まさに不良な人間になるからである)、高潔な人々同士の愛は、交際によってともに成長を遂げるような、すぐれたものになる」

2018年1月24日水曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 51

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の340ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、徳に基づいた友人の数には適量があると言う。

「友人ができるだけ多くいることを求めるのは、おそらく適切でない。むしろ、ともに生きるのに十分な数の友人がいることを求めることが、適切なのである。なぜなら、多くの人ときわめて親密な友人であることは、そもそも不可能であるとも思えるからである」

「政治的な意味においてならば多くの人の「友人」であることは、可能である。しかし、多くの人々と徳に基づいて、またその人自身ゆえに友人であることは、可能ではない。この類いの少数の人々を見いだすだけでも、それで満足に値するのである」

2018年1月23日火曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 50

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の330ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、幸福な人は友人を必要とするかという問いに対して、友人は善いことを行う相手として必要であると語る。そして、結論のようにして、次のように語る。

「もし至福な人にとって存在することが、自然本性的に善いことであり快いがゆえに、それ自体としして望ましいものであり、かつ友人が存在することもそれに近いならば、友人もなた望ましいもののひとつであることになる。そしてその人にとって望ましいものは、その人にそなわるべきである。さもなければその人は、この点で「欠けたところのある人間」になってしまうだろう」

2018年1月22日月曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 49

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の320ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、相手のために親切なことをする人々にとって相手は作品のようなものだと述べる。そして、作品について次のように語る。

「われわれは、現実におこなう活動において存在し(なぜならわれわれは、生きることと行為することにおいて存在するからである)、しかも作品は或る意味で、そうした活動において存在しているような、作者であるということである。したがって、そのような作者は、自分の存在を愛するがゆえに、作品をも愛好するのである。つまり、このことは自然本性に根ざすことなのである」

アリストテレスは、大衆は自己愛を否定的に捉えるが、真の自己愛はむしろ望ましいものであると語る。

「知性が「それぞれの人である」こと、もしくは、知性がもっともすぐれて「それぞれの人である」こと、そして、高潔な人が何よりもまずこの知性を愛好していることは、明らかなのである。したがって、こうした人こそもっともすぐれて「自分を愛する人」だろう。ただし、非難される自己愛者とは異なる種類における自己愛者なのであり、ここには、分別に従って生きることが感情に従って生きることと異なるほどに、また美しい行いを欲求することが、自分の益になるとみえるものを欲求することとは異なるほどに、大きな違いがある」

2018年1月21日日曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 48

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の310ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、好意について、次のように語る。

「好意は、愛を説明する特徴のようにみえるけれども、愛ではない。なぜなら、好意は見知らぬ人に対しても、自分に気づかない相手に対しても発生するが、愛のほうはそうではないからである」

そして、アリストテレスは、協和について、次のように語る。

「協和も愛を説明する特徴に思える。このことゆえに、それは単なる同意見ではない。なぜなら「同じ意見」なら、互いに見知らぬ人々のあいでにも成り立つことがありうるからである」

「複数の国が有益さについて同意しあい、同じ方針を選択し、共通に善いと思われることを為すとき、その場合に人々は、これらの国は「協和している」と語っているのである」

「現実にそのような言葉で言われているとおり、協和は「政治的な愛」なのである。なぜなら協和は、有益であり、生活にかかわるようなものをめぐる事柄だからである」

2018年1月20日土曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 47

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の300ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、友人の特徴について次のように語る。

「人々はまず、相手のために善もしくは善にあらわれるものを願い、行為する人、あるいは友人のために、その人が存在し、生きることを願う人のことを、友人と考えているからである」

「友人とともに行き、友人と同じことを選ぶ人、もしくは友人と同じ苦しみを味わい、同じく喜ぶ人を友人であるとする人々もいる」

そして、アリストテレスは、高潔な人は、友人の特徴が自分自身に当てはまる人であると言う。さらに、高潔な人は、自分に対するように友人に対すると言う。逆に、劣悪な人は、この特徴がまったく当てはまらない人であると言う。

2018年1月19日金曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 46

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の290ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、次のような難問があると言う。

「父親にすべて委任して全部のことで父に従うべきだろうか、あるいはそうではなく、病気の時には医者を信頼すべきであり、将軍の選出では軍事に長じた人に一票を投ずるべきなのだろうか? また同様に、二つのことが同時にかなわない場合に、人が奉仕すべきなのは、「すぐれた人」というより、むしろ「友人」なのだろうか、また、「仲間」のために善行をおこなって親切にすべきというより、むしろ善いことをしてくれた「恩ある人」に、その人から受けた善をお返しすべきなのだろうか?」

アリストテレスは、この問いに対して、「精確な規定を与えて答えることは、たしかに難しいことである」と言う。しかし、「すべてをただ一人の同じ人に任せきりにしてはならないというこの一点だけは、はっきりしている」と言う。

次に、アリストテレスは、愛の関係の解消について語る。アリストテレスは、有用さや快楽を愛しての友人であれば、そういうことがあり得ると言う。

また、善き人を友人として受け入れていて、その相手が不良な人間になった場合については、次のように語る。

「改善の見込みがある相手に対してであれば、財産よりも人柄のほうがいっそう善きものであり愛そのものにいっそう特有の仕方で結びついたものである分、相手の財産のために手を差し伸べる以上に大いに、相手の人柄のために援助の手を差し伸べるべきであろう。しかしその一方では、そのような場合に人が愛を解消するとしても、なんら奇妙なことをしてはいないだろう。なぜならその人はもともと、このような相手の友人であったわけではないからである」

2018年1月18日木曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 45

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の280ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、共同体においては、愛(フィリア、友好とも訳される)は、貨幣が共通の尺度となると言う。

「異なる種類の愛が混在するあらゆる愛において、比例的関係によって愛は「等しいもの」にされて、維持される。たとえば共同体の友好においては、履物職人に対して靴の価値に応じて支払いが為され、織物職人やほかの職種の人々に対しても同じように為されるが、これは、それと同様のことなのである。こうして、この共同体の友好においては、貨幣が共通の尺度として供給されている。そして貨幣にすべてが換算されて、すべてのものがこれを尺度に測られるのである」

これはどうであろうか。愛(フィリア)はすべて貨幣に換算され得るのであろうか。愛(フィリア)というものが、友好(フィリア)とも訳されるからこのように語られるのであろうか。先に述べられたように、愛の見返りは名誉であってもよいはずである。共同体を成立させるために、共同体の友好(フィリア)は貨幣に換算されるということであろうか。

2018年1月17日水曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 44

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の270ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、より善い人はより多く配分されるべきであるという考え方と、窮乏している人やより能力のない人はより多く享受されるべきであるという考え方が、対立するという問題があると言う。それに対して、アリストテレスは次のように言う。

「実際、だれも、自分があらゆる事柄においてより少ないということには、耐えることができない。そこで、こうして人々は、金銭の面で減ぜられた者には名誉を配分し、贈与を受けるべき者に財貨を配分するのである。なぜなら、すでに述べたように、価値に応じた配分が愛を等しいものにして、愛を維持するからである」

2018年1月16日火曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 43

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の260ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、親子や兄弟の愛について、次のように語る。

「親は子どもを、あたかも自分自身を愛するようにして愛する(なぜなら、生まれた子どもは、いわば、切り離されたがゆえに「別になっている自己」のようなものだからである)。これに対し、子どもは親を生みの親として愛し、兄弟は互いを同じ親から生まれた者同士として愛する。なぜなら、生みの親に対する関係の同一性が、互いを「同じもの」にしているからである」

アリストテレスは、愛や友人には、徳に基づくもの、快楽に基づくもの、有用さに基づくものの三種類があると言う。そして、不平や非難は、有用さに基づくものにおいて生まれると言う。徳に基づく友人は、互いに対して親切によくしてあげるように務めるし、快楽に基づく友人は、快楽という欲しているものは同時に両方の手に入っていると言う。

涙は不思議。世界をよりよくするのは、愛ではなくて、正義でもなくて、涙なのではないかと思うことがある。

2018年1月15日月曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 42

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の250ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、国家体制の優劣を次の順番に付ける。王制、優秀者支配制、財産査定制、民主制、寡頭制、僭主制。そうすると、現在の資本主義国家は、4番目に位置することになりそうだ。善き王のもとでの王制が最も善い。しかし、王制は僭主制に転換するリスクを負っている。民主制はリスクが少ない。そういうことになると思う。

個人的には、一番良いのは、試験に基づく政治であるように思う。それは一種の優秀者支配制であろう。それは政治に参加するために必要な最低限の知識を問う試験を作るということである。そのような制度は真の意味で平等な制度であると言えるかもしれない。義務教育というものがあるのだから、そういう制度があっても良いように思う。

2018年1月14日日曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 41

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の240ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、愛は愛されることのうちにあるというより、愛することのうちにあると言う。

「そして、このように愛は自分から愛することのうちにあり、また、友人を大切にして愛するような人々が賞讃されるのだから、愛されることというより自分から愛することこそ、友人としての徳であるように思われるのである。それゆえ、このことが価値に応じて生まれるような人々は安定した持続性をもつ友人であり、このような人々の愛が、安定した持続性をもつ愛である」

アリストテレスは、愛と正義は共同体によってあると言う。

「はじめに語ったように、愛と正義は同じ事柄をめぐっており、同じ範囲の人々について成り立つように思われる」

「人々が互いに共同するだけのその程度、愛がある。正義も、その程度だけあるからである。また「友のものは共のもの」という諺は正しい。愛は人々が共同することのうちにあるからである」

「すべての共同関係はポリス共同体の「部分」であるように思われるのである。そして特定の種類の愛は、特定の種類の共同性に伴うものだろう」

2018年1月13日土曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 40

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の230ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、別の種類の愛として、優越性に基づく愛を挙げる。

「愛の別の種類は、優越性に基づくような愛である。たとえば、息子に対する父親の愛、一般に年少の者に対する年長の者の愛、また女性に対する男性の愛、および、一般にいかなる支配であっても、支配される者に対する支配する者の愛がこれに該当する」

「そして、優越性があるようなすべての愛において、愛情も比例的になっていなければならない。たとえば、よりすぐれた者は、自分が愛するより以上に相手から愛されるべきなのであり、より有用な者もそうである。ほかの点で優越する者も、それぞれ同様である。というのも、愛情が価値に応じたものになるとき、そこには「等しさ」もなんらかの意味で生まれるからである。そしてこの等しさの発生こそ、愛に属することであると思われる」

アリストテレスは、友人は友人に対して最大の善を願うかどうかは難問であると言う。

「たとえば人と神との隔たりのようにはなはだしく互いに隔たってしまった場合であれば、関係はもはや続かないからである。ここからはまた、いったい友人は友人に対して、最大の善、たとえば神になるというような善を、願わないのだろうかという難問が生まれる。なぜ人がそのように願わないかといえば、そうなったとき、もはや相手は自分にとって友人ではなくなってしまうし、したがって善いものでさえなくなってしまうからである」

2018年1月12日金曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 39

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の220ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、性向と活動ゆえに善き人と語られるが、愛も同様であると言う。

「徳の場合に、或る人々は性向のゆえに「善き人」と語られ、また別の人々は活動のゆえに「善き人」と語られる。これは愛の場合も同様である。なぜなら、ともに生きている人々は互いに対して実際に喜びを感じ、互いに対して実際に善いものを提供するのに対し、眠っている人々や場所が離れている人同士は、そのような現実の活動を行なっているわけではないにせよ、友人としての活動をいつでもするような性向にはあるからである」

そして、愛情は感情に似たものであり、愛は性向に似たものであると言う。

「愛情は感情に似たものであり、愛は性向に似たものである。なぜなら愛情は生物に劣らず無生物にも向かうが、人々が「愛し返す」のは選択を伴うことであり、選択は性向に由来しているからである。また人々は、愛される相手にとっての善を当の相手のために願うのだが、このことは感情によることではなく、性向によることである」

そして、利益と快楽など或るものと別のものを交換する愛は劣っていると言う。

「この後者の愛は愛として劣っており、あまり長くは持続しないということはすでに語られた。そして、それだけでなく、「徳に基づく愛という」同じものとの類似性と非類似性によりこれらはまた、「愛である」とともに「愛ではない」とも思われるのである。なぜなら、第一に、徳に基づく愛との類似性によってこれらは「愛である」と思われるが(一方は快楽をもち、他方は有用さをもっており、こういった要素は徳に基づく愛のほうにもそなわっているものだからである)、しかし第二に、徳に基づく愛は誹謗中傷と無縁であり安定した持続性をもつのに対し、これらの「愛」のほうは、すばやく変転することにとくにみられるように、多くの点で徳に基づく愛と異なっているがゆえに、こうした非類似によっては「愛でない」ように思えるからである。

2018年1月11日木曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 38

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の210ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、三種類の愛、善さに基づく愛、快楽に基づく愛、有用さに基づく愛について、次のように語る。

「以上のように、愛はこれらの三種類に分かれているので、劣悪な人々は、快楽もしくは有用さのゆえに、友人になれる。こうした範囲ではかれらは、似た者だからである。これに対して、善き人々は、互いに自分自身のゆえに友人となることができる。なぜならかれらは、善き人であるという点で友人だからである。したがってこの善き人々こそ限定ぬきに友人なのであり、先にあげた人々は付帯的に、また善き人々に似ているがゆえに友人なのである」

2018年1月10日水曜日

人間とAIの記憶の異なり

人間とAIの記憶の異なりについて考えてみたい。

人は家の鍵の閉める方向、時計回りか反時計回りかを覚えているだろうか? ぼくは覚えていない。それでも、出て行くときも、入るときも、困らない。1/2の確率で当たるからである。

ぼくは、暗証番号式の鍵の家に済んでいたことがある。そのときは、もちろん暗証番号を覚えていた。1/9999の確率だからである。

AIであれば、家の鍵の閉める方向は、覚えてしまうように思う。とても簡単なことだからである。人がそれを覚えない理由は、不思議であると言えば不思議である。それほど、リソースのかかることではないように思う。少なくとも、AIにとってはそうだろう。人にとっては、そのリソースは少なくないということだろうか。

記憶のあり方が、人とAIとでは異なるのかもしれない。それ以上のことは、今のぼくにはわからないことだ。

2018年1月9日火曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 37

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の200ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、愛には三種類あると言う。

「愛される性質のものとは、「善いもの」か、「快いもの」か、あるいは「有用なもの」であると思われる。しかるに、何か善いもの、もしくは快いものがそこから生じるような、そうしたものが「有用なもの」であると思われるのである。したがって、「善いもの」と「快いもの」のほうは、目的として愛される性質のものであることになる」

そして、完全な愛について、次のように語る。

「愛として完全なのは、善き人々のあいだ、つまり徳の点で類似の人々のあいだに成り立つ愛である。なぜならこの人々は、かれらが善き人であるかぎりにおいて、互いに同じ仕方で互いの善を願いあうのだが、ここでかれらが「善い」のは、かれら自身に基づいてのことだからである」

2018年1月8日月曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 36

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の190ページ程度まで、読み進めた。

欲望や快楽の問題に続いて、アリストテレスは、愛について語る。

「以上の考察の後では、愛についてつぎに論ずることがふさわしいだろう。なぜなら、愛は徳のひとつであるか、徳を伴うものであり、またさらには人生にとってとりわけ必要なものだからである」

愛は、原語でフィリアであり、訳者によれば、中心的フィリアは、友愛である。しかし、友愛は、夫婦愛や家族愛などを表すためには自然な表現ではないので、愛と訳したということである。

アリストテレスは、愛の問題について、人間にかかわり、人柄と感情に関係するような問題を検討すると言う。その問題は、次のようなものである。

「愛は万人の中に生まれるものなのだろうか、それとも、人柄が不良な人ならば友人になり得ないのだろうか?」

「愛の種類はひとつだろうか、それとも複数だろうか?」

2018年1月7日日曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 35

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の180ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、最高善について、次のように婉曲的に語る。

「劣悪な快楽が一部あるとしても、最高善が或る種の快楽であることを妨げるものは何もないのである。これは、一部の知識に劣悪なものがあるとしても、最高善は或る種の知識でありうるのと、同様のことである」

アリストテレスは、身体的快楽について次のように語る。

「たとえば立派な楽しみのように、或る快楽はたしかに非常に望ましいが、身体的快楽、つまり放埒な人がそれに熱中する快楽は望ましくないと言う人々は、身体的快楽について考察しなければならない」

「身体的な善には超過が存在し、劣悪な人間はこの超過を追求しているのであって、自分に必要不可欠な快楽を追求しているのではないのである」

そして、「苦痛のない快楽は超過をもたない」と言う。「これらの快楽こそ、自然本性的に快く、たまたま付帯的に快いというわけではないものの快楽なのである」と言う。

2018年1月6日土曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 34

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の170ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、「善い」には二つの意味があると言う。

「「善い」は二つの意味で(つまり、限定ぬきに善いという意味と、関与するなんらかの人やものにとって善いという意味の両方で)語られる。そしてもろもろの自然と性向についても、この二義性が成り立つ。したがって、もろもろの運動と生成もこれに伴って二つの意味があり、「劣悪」と思われる快楽には、限定ぬきに劣悪ではあるが、或るだれかにとってはそうではなく、その人にはむしろ望ましいと思えるものもある。また、特定のだれかにとってさえ望ましいというわけではなく、或る特定の短期間望ましいだけであって、限定ぬきには望ましくないものもある」

次に、「善いもの」について次のように語る。

「「善いもの」のひとつは現実に起こる活動であり、もうひとつは性向であるので、自然的性向へと回復してゆく過程が快いことは、付帯的なことである。そして、回復を目指す欲望のもとで起こる活動は、まだ無事に残っている成功と自然本性が担う活動なのである。というのも、たとえば観想という活動がそうであるように、自然本性が欠けていない場合には、苦痛と欲望が伴わないような快楽もあるからである」

そして、終局について次のように語る。

「或る人々が言うように生成過程より終局が善いものであるとしても、それと同じように快楽よりも善い別の何かがあるということには、必ずしもならないのである。なぜなら、すべての快楽が生成過程であるわけでもないし、すべての快楽が生成過程とともにあるというわけでもなく、むしろ快楽は、活動であり、そして終局だからである」

2018年1月5日金曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 33

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の160ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、抑制のない人と人柄が不良な人とは異なると言う。それを次のような比喩で語る。

「抑制のない人とは、決すべきすべての議案を決議し、すぐれた法律も整備しておきながら、それを全然活用しないような国に似ている」

「これに対して劣悪な人は、法を活用するが、その法そのものが劣悪な国に似ている」

快楽と苦痛にかんして、アリストテレスは、三つの通念があると言う。一つ目は、「いかなる快楽も、それ自体においてもたまたま付帯的にも、善いものではない」という立場であり、二つ目は、「一部の快楽は善いものだが、多くの快楽は劣悪なものだ」という立場であり、三つ目は、「たとえ快楽がどれもみな善いものだとしても、最高善が快楽であることは不可能である」という立場である。

しかし、アリストテレスは、快楽が善いものでないということも、最高善でないということも正しいことではないと言う。

2018年1月4日木曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 32

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の150ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、放埒な人は癒しがたく、抑制のない人は癒すことができると言う。

「放埒な人とは後悔しない人である。というのも、放埒な人は自らの選択に留まるからである。これに対して、抑制のない人ならば、みな後悔することが何かある。したがってこれは、われわれが先に挙げた難問のような事情の逆であり、放埒な人は癒しがたく、抑制のない人は癒すことができるということである」

そして、抑制のなさと悪徳は別物であると言う。行為者は、悪徳には気づかないが、抑制のなさには気づくからである。

アリストテレスは、抑制のある人と頑固者は似たところがあると言う。しかし、この両者には多くの違いがあると言う。

「抑制のある人は、感情と欲望によって信念を変えることはなくとも、場合によっては容易に説得されるのに対して、頑固者は分別によって信念を変えることがない代わり、欲望に囚われるならばかれらの多くが快楽によって突き動かされるからである」

また、抑制のある人と節制の人は、身体的快楽によって分別にそむいて何かしでかすことのない人であるという点では同じであるが、前者は欲望を抱いているのに対して、後者はそうではないという点で異なると言う。

2018年1月3日水曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 31

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の140ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、欲望にかかわる抑制のなさは、激情にかかわる抑制のなさより醜いものであると言う。それは、激情は或る意味では分別に従うが、欲望は分別に従わないからであると言う。

そして、獣性について次のように語る。

「獣性は悪徳と比べていっそう悪いものではないが、いっそう恐ろしいものである。なぜなら、人間の場合のようにより善い部分が損なわれているのではなく、獣はそもそもそうした部分をもち合わせていないからである。それゆえ、獣性と悪徳を比べてどちらがいっそう悪いのかを問題とするということは、無生物と生物を比べるようなものである」

また、抑制のなさについて、次のように語る。

「抑制のなさには「衝動」によるものと「弱さ」によるものがある。すなわち、弱さのために抑制のない人は、思案したのに、感情に駆られてその思案した結果にとどまれず、またそのときの衝動のために抑制のない人は、思案しなかったために感情に突き動かされる」

2018年1月2日火曜日

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」 30

アリストテレス著「ニコマコス倫理学」を読み進めている。下巻の130ページ程度まで、読み進めた。

アリストテレスは、獣的な性向というものがあると言う。

「これはたとえば、妊婦の腹を引き裂き、なかの胎児を喰らうと言われる女の性向や、生肉や人肉を好物とし、子どもたちを御馳走として提供しあうと言われる黒海付近の野蛮な種族の性向、さらにはまたファラリスについて伝承されている逸話のことである」

さらに、アリストテレスは、限定抜きに抑制がないことと、単に抑制がないことを区別する。

「獣性の場合がそうであるように、陥っている性向がこうしたもののうちのどれに由来しようとも、その性向は悪徳の範囲の外のものとなる。そしてまた、そうした人が自らの性向に打ち勝ったり屈したりしても、それは、限定ぬきに抑制がないというのではなく、ただ単に類似性によってそう言われるのである。それはちょうど、激情にかんしてそういった性向をそなえた人は、その激情という状態にかんして抑制がないだけであって、ただ単に抑制がない場合とは異なるのと、同じことである」

2018年1月1日月曜日

元旦

今年、ブログでやってみたいことを書いてみる。

今年は、時間のあるときに、哲学書を読みたいと思っている。昨年はプロトンのいくつかの著書を読み、最近はアリストテレスのニコマコス倫理学を読んでいるけれども、ほかのプラトンやアリストテレスの著書を読んでみたいと思う。読むペースは最近は遅いけれども、無理のない程度のスピードで読んでいこうと思う。

哲学書のほかにも、古典と呼ばれている小説などを読みたいと思っている。過去に読みたいと思っていた本を読もうかと思っている。シェイクスピア、ゲーテ、トルストイなどはどうかと思っている。