2018年3月13日火曜日

「我思う、ゆえに我あり」という文の解釈

こういうことを考えたことがある。デカルトの方法序説にある「我思う、ゆえに我あり」という文は、我が思うということは、「ゆえ」に我があるということであるというようも解釈できのではないかと。言い替えると、「我思う」ということは疑いえないことかもしれないが、「ゆえ」もまた疑いえないことではないかということである。「ゆえ」は、英語で言うと、「reason」であり、「理性」でもある。この文は、そういったことをも表現してしまうようにも思う。

実際に、理性が存在することは疑いえないことではないだろうか。疑うことができるのは理性が存在するからであるように思う。「我思う、ゆえに我あり」という文は、「ゆえあり、ゆえに我思う、ゆえに我あり」という文に置き替えられるように思う。